山川偉也『哲学者ディオゲネス』

ディオゲネスといえば、

ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)

ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)

ギリシア哲学者列伝〈中〉 (岩波文庫)

ギリシア哲学者列伝〈中〉 (岩波文庫)

ギリシア哲学者列伝〈下〉 (岩波文庫)

ギリシア哲学者列伝〈下〉 (岩波文庫)

が、第一資料ですね。
ディオゲネスは、古代ギリシアアリストテレスの年長世代くらいだったようだ。シノペで、貨幣をつくる官僚だったようだが、贋金作りの罪により、国を追われる。放浪の日々のすえ、アテネに流れ付き、大甕の中で住み、今の路上生活者のような生活を始める。彼は最後まで、よそものであり、アテネ市民にはなっていないようだ。
この贋金作りというのが、いろいろな空想をさせますね。特に、マルクスの影響を多分に受けた人にとっては、いろいろ考えさせる。
以下は、彼の有名な言葉の一つを意訳したものだそうだ。

わしは乞食、神々の友だ。ところで、すべてのものは神々のものであって、これを友と共有している。つまり、すべては乞食であるわしのものだ。おまえが現にもっている金は、神々から借用したものだ。だから、その金は、おまえにわしが貸したものである。その金がいま必要になった。返してもらいたい。

なんともすごくないか。大金持ちに初対面で「お金返せ」なんて言ってみたいね。
さて、やはり、古代ギリシアというと、ソクラテスであって、高校の倫理の教科書でも、ソクラテスが目指していたことはなんだったのか、みたいなことがテーマだったりする。そこで、プラトンソクラテスの弁明』の熟読となるのだが、結局、ソクラテスは、アテネ・ポリスを愛していた、ナショナリストであり、最後、国外追放を拒否して、自死を選んだのは、彼の愛国殉死の昇華じゃないか、というまとめだったような記憶がある(なんか、夏目漱石『こころ』の先生の自殺の話にも似て、日本の教科書は、まるで、自殺の話ばっかりですね)。
しかし、よく判断すれば、ソクラテスの言っていることは、ナショナルな発想に閉じるものではないし、むしろ、ディオゲネスに近い存在と考えるべきだ、というんですね。

いや、それなら、国外追放の刑を申し出ましょうか。たぶん、諸君がわたしのために裁定される刑は、これになるかもしれません。しかしながら、きっとわたしは、よほど命が惜しいのでなければ、アテナイ人諸君、そんな分からず屋がするような考え方はしないでしょう。それだとわたしは、こういうことを考える能力がないことになるでしょう。つまり諸君は、わたしの同市民だけれども、わたしが日常していること、特にその議論に我慢できなくなっていて、それは諸君にとって、ますます堪え難く、嫌悪すべきものとなってしまったので、今はそれから解放されることを、諸君は求めているのだけれども、外国の者なら、どうだね、それをたやすく我慢してくれるだろうか。とても、とても、そんなことはありえないのだ。アテナイ人諸君。そうだとすれば、わたしの生活は、結構なことになるだろう。この年で、国外追放になって、ひとつの国から他の国へと、追い出されては、住む国を取りかえながら生きて行く生活というものはね。というのは、わたしはよく知っているのです。どこへわたしが行こうとも、わたしの議論を、常連となって聞いてくれるのは、ここと同様、青年たちでしょう。そしてもしわたしが、かれらを追い払うならば、かれらのほうがこんどは、年長者を説いて、わたしを追い出すことになるでしょう。しかしまたかれらを追い払わなければ、かれらの父親や家人が、まさにその青年たちのゆえに、わたしを追い出すでしょう。(プラトンソクラテスの弁明』)

つまり、ソクラテスは明確に言っているわけです。自分の今の生き方を貫いてこれからもやっていくなら、アテネを離れて他のポリスに行っても、同じ問題にぶち合たり、同じ結果になるだけだろうし、自分のような年寄りにその方向を選ぶことはないだろう、こんな感じですね。
アリストテレスは、ディオゲネスについて、言及している。

『犬』は夕べルナ(飲食店)を『アッティカのフィディティア(共同食事)』と呼んだ。(アリストテレス『弁論術』初稿)

気になるのは、アリストテレスが、「犬」という、彼の差別的なあだ名を、平気で使っている、ということですね。これは、何を意味しているのだろうか。アリストテレスは、ディオゲネスを、自らの考える理想的人間の正反対のところに、彼を考えていて、侮蔑なしには、ディオゲネスについて言及できなかったということだ。

それゆえに、もしも自然が何物をも目的なしには、また、徒には、創ることをしないのであれば、自然はそれらすべてのもの[家畜や野生動物]を人間のためにこそ創ってくれたのでなければならない。したがって戦争の技術もまた、本性上、ある意味で物を獲得する技術であることになろう。(何故なら、狩猟術は戦争の技術の一部だから。)すなわちそれ[戦争の技術]は、獣どもや、支配されるべく生まれついているのに、そうなろうとしないかぎりの人間どもに対して、役立てられなければならないのである。何故なら、この(ための)戦争は、本性的に正しいからである。(アリストテレス政治学』)

アリストテレスにとって、あらゆることが目的史観である。「人間以外の動植物」と「奴隷」はアテネ市民(エリート)のために神が与えた存在なんだ、と。アテネ市民は、一切の単純作業を、金で買ったり、戦争で勝って自分のものにした、奴隷に行わせていた。このことが意味することは、彼らは、奴隷がいなかったら、まともに市民生活を営めなかったということだ。そういう生活力がなかったのだ。アリストテレスは、なんとかして、その奴隷の存在を「正当化」するための理屈が必要であった。そのために、彼はあれだけの膨大な書物を書いたと言ってもいいのではないか。
アリストテレスは、なんの気なしに、ディオゲネスについて、著作の中で言及したわけだが、そのことが、後世にいかに大きなことになってしまったか。つまり、アリストテレスのその「犬」という差別的は呼び方にもあるように、国家主義者、自民族中心(目的論)主義者、共同体主義者、であるアリストテレスが、思想的な論敵として、ディオゲネスを意識していた、ということをあらわすからだ。
その後の西洋の歴史は、完全に、アリストテレスの歴史である。アリストテレスの膨大な書籍群だけが、ほとんど無傷で、その後の歴史を生き残り、「西洋人である」「西洋人がモノを考える」とは、ほとんどアリストテレス主義者であることを同義である、そういう歴史なのだ。
例えば、ヘーゲルは、もう、完全なる、アリストテレス主義者だと思いますね。彼は、アリストテレスが残した言説のさまざまな矛盾と言われているところを、彼なりに再構成することで、解決しようという目的のもと、言論活動をしたのだと思います。彼がカントを嘲笑するところというのは、カントがアリストテレスの思想を踏み外すところだと思いますね。ヘーゲルの著作群は、見事なまでに、アリストテレスの著作に対応しているでしょう。
しかし、である。歴史とは皮肉なもので、その後の歴史の中で、何度も、アリストテレスの論敵として、ディオゲネスが呼び出されることになる。まるで、亡霊のように。アリストテレスがまともにとりあげなければ、ただの「ちょっと変わったおっさん」で終わっていたかもしれないディオゲネスを、著作の中でちょっとふれたことで。ディオゲネスの、世界市民の思想、奴隷批判。

哲学者ディオゲネス -世界市民の原像- (講談社学術文庫)

哲学者ディオゲネス -世界市民の原像- (講談社学術文庫)