民族主義的左翼

前にさんざん、稲田という人の悪口を書いたが、この人の語っているものを読んでなかったので、当事者の発言をふまえてなにか書こうかなと思って、

を読んでみた。普段、あまりこっち系の人のものは読まないのだが、しかし、私が、保守派だと思っていた多くの人をこの3人はこの本で、ボロクソ言ってますね。安倍元首相なんて、ほんとケチョンケチョンでしょう。もうなにも口に出して言えないくらいに。またウツがひどくならなきゃいいがね。
あと、全編、防戦一方ですね。今の福田首相になって、あまり彼らの居場所がなくなっている面は、いなめないんじゃないですかね。
まあ、そういったこと以外に、「あれっ」と思ったことがある。この3人は「左翼」じゃないのか。もう少し正確に言うなら、日本の戦後、普通にあった、「民族主義的左翼」ということだ(前も少し言ったが、

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

を読むと、その戦争直後の、日本中すべての、民族主義的雰囲気がわかりますね。日本共産党でさえ露骨に民族主義的なわけです。今の中国がそうですね。韓国も今だに民族主義の延長による国家形成の途中のようなところがある。なんにせよ、民族主義はいろいろありますね)。
実際に、藤岡信勝などは、左翼からの転向だそうだが、小林よしのりも完全な左翼でしょう。だいたい、最初は、薬剤エイズの運動から始めた人でしょう。彼らは、右翼の皮をかぶった左翼であり、その証拠に、その右翼的態度で、ものすごい経済的成功を達成してますよね。左翼が右翼を使って商売を始めるとこんな感じなのでしょう。
もし彼らが右翼だというなら、よくここまで後退したもんだな、と。
蓑田胸喜があれほどまで、津田左右吉を口汚くののしり大学辞職まで追い込み続けたその理論。平泉澄が、戦後になっても、国民主権を絶対に認めず、あくまで、日本人は、天皇の臣民(奴隷)であり、主権は天皇その人にしかありえないと、こだわった理由。
たとえば、稲田は次のように言っています。

たしかに今日の人権観からすれば「慰安婦」という存在は許すべからざることに移りますが、当時の人権観、各国の法体系などをまったく無視しての非難は、明らかに不当なものです。

当時の人たち?今と何が違うというんだ?ということでしょう。明らかに、稲田は今のこの昭和天皇がつくった現憲法の申し子であり、そこから、今を当然のこととして、戦前の人たちのことを空想してはいけない、と言っているだけなんですね。
どう見ても、今の左翼と遠くないでしょう。たんに、民族主義者だというだけで。
もう一つ指摘しましょう。

2650年以上も続く万世一系天皇の存在は、日本民族の中心であり、天皇は常に国民とともにあられた。したがって憲法第1条の象徴天皇憲法改正の対象とすることは許されないと私は思っています。

天皇は伝統だから、象徴天皇制をやめることに反対だと。非常に消極的ですね。それだけの理由ですか、ということでしょう。伝統を単純に否定はできないってことなら、左翼だって言うんじゃないか。
私が政治をウォッチしてきた中で、一つ印象的な場面があります。それは、今の総理を選ぶ総裁選のとき、外国人向けの記者会見で、麻生さんに、福田さんが、説教した場面ですね。たしか、北朝鮮拉致か、靖国参拝の話でだったかな。なんの内容だったか忘れましたけど(麻生さんは、福田さんとか考え方が違うから、というのを強調していましたが、同じ政党としてやってるのに、考え方が違うと国民に言ってる時点でダメですよね。じゃあ、なんで一緒にやってんの?でしょう)。
まあ、それはいいんだけど、なんで福田はこんなに自信たっぷりで、麻生に説教してんのかな、とは思った。
本当は、この年齢で、総理大臣やってるってだけで、そのバイタリティはすごいもんだとは思うんですけどね。なんでそんなに政治に熱狂できるのか。
彼は、もともと、民間企業を働いていた人で、さまざまな国から、石油の買い付けとかしてたんでしょ。もう、その延長でやってるんですね。恐らくその確信は、そうとうな政治家だと思いますね。
この前の、薬剤肝炎の患者への対応でも、最初、相当の批判がありましたよね。でも、物を売ったり買ったりという現場は常に、かけひきの場でしょう。最初は、両方、ふっかけるんですね。デリカシーがないという話も、ポーカーフェースでなければ、相手に読まれますからね。
戦後の日本は、明らかに昭和天皇が引いたラインの上を走っていると思います。ソクーロフ監督の映画のマッカーサーとサシでやりあった場面が思い出されますが、昭和天皇は、とうとうその対談の内容を墓場までもっていきやがいました。彼はすごい自信があったんじゃないですかね。日本は戦争をやめたのか。まったく嘘です。戦後も戦争してたのです。経済戦争です。昭和天皇はよく分かってたんじゃないですかね。日本は、海外とうまく商売をやってかないとどうしようもないんですね。
私が個人的によくポイントを押えているなと思う本があります。

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

ですが、この本で、作者は、右翼にとって今、すでに目標は達成されている、というポイントから議論を始めています。なぜなら、天皇制が維持さているからです。戦争末期に、最後まで問われたのは、「国体護持」です。ようするに、天皇制の維持ですね。最近も保阪正康が、阿南惟幾について書いてますね。

文藝春秋 2008年 05月号 [雑誌]

文藝春秋 2008年 05月号 [雑誌]

派閥争いに翻弄された、阿南惟幾終戦時の切腹も、戦後の天皇制の維持を考えてですね。そうやって多くの死屍累々のなきがらの上に、昭和天皇の当時の行動があったのでしょう。
最後に稲田の、映画『靖国』での弁明を総括してやめよう。

今年の2月に「伝創会」で助成金の妥当性を検討することになり、文化庁に上映を希望しました。

助成金を問題にする前提として、対象となる映画を見たいと思うのは当然ですし、映画の「公開」についても問題にする意思は当時も今もありません。

私は、「映画を見たい」と文化庁に申し入れたことを否定したことは一度もありません。ただ、『朝日新聞』が報じたような「事前に試写したい」、つまり、「公開前を条件として見せろと言ったことはない」と言っているのです。

朝日新聞は、稲田が、この映画の公開中止を意図したと言っている。その根拠として、朝日新聞は、稲田が、「事前に」映画を見たい、と文化庁に言ったからだ、となっている。しかし、稲田は、映画を見たい、とは言ったが、「事前に」映画を見たい、とは言っていない、と主張する。これで、稲田としては、証明の前提が崩れるんだから、映画の公開中止を意図したという、朝日新聞の主張は、否定された、と。
そして今度は逆に、稲田は、こういう、朝日新聞によって、言っていないことを言ったと言われた、そういう「嘘」を流布されたために、自分の名誉を傷付けられた。よって、朝日新聞は、「嘘」を撤回して、謝罪しろ、と。
まず最初のところは、彼女は、単純に、「事前に」、または、それに類する言葉を彼女自身が「発言」していない、というただその物理的な事実の「嘘」=名誉毀損を争っているだけなんですよ。
まず一般論として、言葉なんて伝言ゲームなんだから、人を渡っていくにつれて、いろいろ尾ひれついていくのは、当たり前だと思うし、常に誤解をともないながら渡っていくものでしょう。そういったことをいきなり「名誉毀損」の問題にしてしまう。
次に、彼女自身が、「事前に」、または、それに類する言葉を言っていないことの証明になんにも成功していない。自分がそうだと、言っていないと言っているんだから、だけ。
そうなると、第三者としては、状況証拠から迫るしかないわけだが、むしろこのフェーズになるとどうしようもない。事後でよかったのなら、上映されたら、勝手に映画館に行けばよかったわけだ。そして、実際に「事前に」国会議員向けの試写会が行われたわけですね。そこからも、お前の要求を聞く官僚は、当然、事前に見たいのだろうと判断したから、じゃないか。
しかしこの点は、稲田の考えは逆で、朝日新聞の方こそ、彼女がそう言ったことの証明をしなければならない。そのことをはっきりさせられない限り、嘘なのだから、名誉毀損だ。
うーん。つまり、第三者の目からは、言った言わないというみずかけになんの意味があるのか、なんですね。
しかし、なぜ、こんな第三者が判断できない、瑣末な事実にこだわるのか。実は別の文脈で似たようなことをやっているんですね。

しかし、慰安婦問題も、南京事件も、沖縄戦における住民の集団自決に軍命令があったか否かの問題も、いずれも歴史の事実よりも今日的な意味での主観が大事だということになれば、「客観」的な事実を提示して誤解を解こうという努力にはまったく意味がないということになります。

分かったから、当事者同士でコツコツやってくれと思うが、では、第三者にとっては、なにが大事なのか。当然、稲田が、上映の中止を目標としてやってるかどうかでしょう。なぜなら、上映中止になれば、表現の自由の問題にもなるし、多くの国民の見る機会がなくなるのですから(ここが大事で、この映画の制作に国のお金が使われていようが、第三者なんのカンケーネーで、勝手にゆっくりやってろ、でしょ。もともと、この事件のトリガーは、週刊誌の報道から始まり、稲田のドタバタと、一部自称右翼の映画館へのテロがリンクして報道されたことですよね。こういうときに国民に対してどんな緊急的手当てが必要かをかぎとる、政治的センスがないですよね)。
しかしその点は、稲田は、上映中止はまったく目的でなかったとあっさり言っているわけなんですね。それでもう問題は解決で、なんともお騒がせなオバサンなんですよ(そんなに世間にかまってもらいたいのか知りませんが)。
じゃあこのドタバタ騒ぎはなんだったのかだが、だから、稲田の、上映中止はまったく目的でなかったという意志表明によって、逆に、なにがなんでも上映を成功させなければならないという方向に強力なお墨付きを与えただけだった、ということだけじゃないですかね(そして、今、上映されてますね)。