坂口安吾「青春論」

安吾の「堕落論」は、戦後に発表され、そのすぐ後に、「続堕落論」が発表されるが、戦中に「青春論」という論文がある。
しかし、この論文は話がいろいろ飛んで、結局、何が言いたのか。一つ言えるのは、戦争中に、青春というものが何かを問うことで、それに関わるかという彼の体験をいろいろ語っていくという形をとる。
話の大半は、宮本武蔵の武士道論なのだが、最後の方で、以下の話がある。

僕は天草四郎という日本に於ける空前の少年選手が大好きで、この少年の大きな野心とその見事な構成に就て、もう三年越し小説を書こうと勤めている。そのために、切支丹の文献をかなり読まなければならなかったけれども、熱狂的な信仰をもって次から次へ堂々と死んで行った日本の夥しい殉教者達が、然し、僕は時に無益なヒステリイ的な饒舌のみを感じ、不快に覚えることがあるのであった。
切支丹は自殺をしてはいけないという戒めがあって、当時こういう戒めは甚だ厳格に実行され、ドン・アゴスチノ小西行長は自害せず刑場に引立てられて武士らしからぬ死を選んだ。又、切支丹は武器をとって抵抗しては殉教と認められない定めがあって、そのために島原の乱の三万七千の戦死者は殉教者とは認められていないのだが、その掟によって、切支丹らしい捕われ方をするために、捕史に取囲まれたとき、わざわざ腰の刀を鞘ぐるみ抜きとって遠い方へ投げすてて縄を受けたなどという御念の入った武士もあったし、そうかと思うと、主のために殉教し得る光栄を与えてもらえたと言って、首斬りの役人に感謝の辞と祈りをささげて死んだバテレンがあったりした。当時は殉教の心得に関する印刷物が配布されていて、信徒達はみんな切支丹の死に方というもの勉強していたらしく、全くもって当時教会の指導者達というものは、恰も刑死を奨励するかのような驚くべきヒステリイにおちいっていたのである。無数の彼等の流血は凄惨眼をおおわしめたものがあるけれども、その愚かさに歯がみを覚えずにいられぬ時もあったのだ。

わたしは武士道というのは、あやしいと思っています。つまり、その起源についてです。なぜ、武士道の主張は、これほどまでに、朱子学と乖離しているのか。結局、それは、キリスト教なのではないか。なんと言ってもこの、天草四郎を始めとした、日本のキリスト教はすごすぎるんですね。信長の頃だから、江戸時代の最初の頃まで、間違いなく、多くの武士は、知っていたはずですね。彼らは、どうしても、自分たちの主従関係と、キリスト教徒たちの殉教精神を比較せずにはいられなかったでしょう。武士が、なんでもかんでも、自殺、ハラキリで、おとしまえをつけようとすることには、切支丹が、一切の自殺が禁じられていたことをこれ以上ないくらい意識してのものだったのではないかと思うのです。
これは、分からないけど、もしかしたら明治始めの内村鑑三などの元武士階級がキリスト教徒になっていくのと、なんらかの関係のある心性なのかもしれませんが。

坂口安吾全集〈14〉 (ちくま文庫)

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