谷口雅一『「大化の改新」隠された真相』

NHKの社員が書いた、2007年2月のNHKスペシャルのディレクターによる番組本。
日本書紀は、蘇我蝦夷と入鹿を、徹底的に貶めて、彼らを滅ぼした、中大兄皇子天智天皇)と中臣鎌足を、英雄視する、そういう記述になっている。
これらを検証していく内容なのだが、蘇我蝦夷・入鹿は、日本書紀が言うほどの悪人なのか、中大兄皇子中臣鎌足がこれほど英雄視されているのはなぜなのか、と。
この時代の概要を知るには、よくまとまっているのじゃないでしょうか。教科書でウソ教えられた世代には、どうぞ天下のNHKが言うんですから、読まれたらいいと思いますけど。
まず、

日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書)

日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書)

に大きな影響を受けたという。ここで、日本書紀の記述には、記述した人の特徴により、2種類に分類できるという。それは、当時の日本の発音において、ハ行は使われておらず、パ行しかなたったために起きた、中国語に習熟している人ならまずやることのない違い、のようだ。

  • アルファ群:中国語の発音に習熟していた人たちが書いた巻。
  • ベータ群:そうでない、中国語の発音に未熟な人たちが書いた巻。

ここで、不思議な現象となる。「乙巳の変」を含む巻は、アルファ群に含まれるのに、その個所だけ、ベータ群のような記述だというのだ。
まず、蘇我氏についてですが、いろいろ書いてあるのだが、以下が象徴している。

我が堂に入る者、蘇我太郎にしくはなし。
[吾が学堂に出入りする者の中で、蘇我入鹿に匹敵する者はいない](『藤氏家伝』)

太郎とは入鹿のことである。この文言が、蘇我氏と敵対する藤原氏の『家伝』に記されていること自体が、当時の国際認識におる蘇我入鹿の卓越を誰もが認めざるをえなかったことなのであろう。

乙巳の変」で、中大兄皇子天智天皇)と中臣鎌足は、蘇我蝦夷・入鹿を虐殺するのだが。

そこに中臣鎌足が登場する。謀略を使って敵に勝つ戦術を説いた太公望著の兵書『六韜』を、鎌足は幼少の頃から暗誦していたと『家伝』は記している。

つまり、これだけの、誰もが一目を置いているような、国際情勢にも明るい、日本にとって、どうしても必要な蘇我氏という人材を、この中臣鎌足という、国家にとって最も重要な各要人の家の警護という役職にあるものが、国家の要職を放り投げて、(たんなる国内の派閥争いだけの理由で)抹殺した、ということだ(この後の、中大兄皇子による、中臣鎌足への、論功行賞は言うまでもありませんね)。
この後、この結果起きたことが、「白村江の戦い」というわけだ。
当時、中大兄皇子の元に、百済の王子の豊璋をかくまっていたのだが、660年に唐に百済が滅ぼされた後、この豊璋をたてて、百済遺臣は、百済の再興をしようとするわけですね。そこに、日本が援軍。でも、日本は朝鮮半島の錦江であっけなく負ける。

27日に、日本の先着の水軍と、大唐の水軍が合戦した。日本軍は負けて退いた。大唐軍は陣を堅めて守った。
28日、日本の諸将と百済王とは、その時の戦況などをよく見極めないで、共に語って「我らが先を争って攻めれば、敵はおのずから退くだろう」といった。さらに日本軍で隊伍の乱れた中軍の兵を率い、進んで大唐軍の堅陣の軍を攻めた。すると大唐軍は左右から舟を挟んで攻撃した。たちまちに日本軍は敗れた。水中に落ちて溺死する者が多かった。船の舳先をめぐらすこともできなかった。朴市田来津は天を仰いで決死を誓い、歯をくいしばって怒り、敵数十人を殺したがついに戦死した。この時、百済王豊璋は、数人と船に乗り、高麗に逃げた。(『日本書紀』天智2年8月)

『武経総要』に楼船という船の記述があるそうで、なんと、全長120メートル、高さ30メートル、大きさだけなら、今の中型の貨物船くらいじゃないか。こんなもので迎えうたれてたわけですら。日本水軍は、全長30メートル、高さ3メートルのゴムボートみたいなやつですからね。まあ、勝てないでしょうな(このあたりは、本で、グラフィック付き)。
蘇我入鹿のような国際感覚をもち、もっとも優秀でかかせない存在と考えられていた人材がいなくなった日本において、国際関係を理解し、まともな判断を下せる人材はもういなかったということでしょう(鎌足のような暗殺することしか頭にない人材しかいなかったってことでしょうな)。「商道(サンド)」の松商みたいですな。
結論的なものとしては、日本書紀の著者は、藤原不比等ですし、その父親が、中臣鎌足ですから。

二人(元明天皇藤原不比等)は、何よりも父である天智天皇鎌足を、正史『日本書紀』の中で、律令国家の創始者として顕彰したかったに違いない。実際に天智朝に改革がスタートした事実もあるから、天智紀をそのような構想で叙述することもできたかもしれない。しかし、そうすると、白村江で唐と戦って破れた結果として叙述する以外になく、正史の体裁上、よろしくない。しかも、蘇我氏の外交路線を維持していれば防げた戦争であったから、なおさらである。
それより前に、天智天皇鎌足が活躍した出来事がある。蘇我氏を滅ぼした「乙巳の変」だ。ここで二人が国政改革への志をもっていたがゆえに立ち上がったことにする。一方、滅ぼされた側の蘇我氏をポジとネガの関係のように、それに対する抵抗勢力と位置づける。二人が志す改革を邪魔し、天皇家を乗っ取ろうとした逆臣として描くのだ。

もう言うまでもないですね。最初に述べた、「乙巳の変」の記述の件も、藤原不比等天皇に献上する直前にでも、チャッチャッて、書きかえたんでしょ。
でもこのやり口がね、日本の戦後の今だにウジウジ言ってる保守派のみっともなさに重なってね。旧軍人の幹部エリートの遺族にまとわりついて、ヨイショして。
このミエミエなのがね。テメーが命令して、多くの日本の市民や、テメーの部隊が死体の山になってるのに、いざ責任を追求しようってなると、「無礼者。かしこくも、軍の総司令官である、昭和天皇のご命令であらせられるものを、責任うんぬんとは何事か」って、だから、テメーが命令したんだろ(そして、天皇を、有無も言わせず、まるめこんでんじゃねーか)、って話ですな(そうして、帝国日本軍のやったあらゆる行為は、やましいところは何もなく、なにもかも清く正しく美しかった、と)。
でも、実際のところ、日本の天皇の歴史といっても、ほとんど、結婚する女性の系列でみると、ほとんど藤原氏になってて、これが明治まで続くわけですよね。実際のところ、どっちの家系が日本を支配してきたのかは、自明でしょう。
第二次大戦時の近衛文麿首相も、この系列ですよね。よくも、歴史を、繰り返してくれたな、ってことですかね。

「大化改新」隠された真相―蘇我氏は本当に逆臣だったのか?

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