桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』

いやあ。とうとう読みました。
「天才」、桜庭一樹の、「最高傑作」。
これはなんなんだ。
う〜ん。
ぜひ、先入観なく、読んでほしいですね。
彼女は、世代的には、自分に近いんですよね。
団塊ジュニア世代、第二次ベビーブーム世代。最後の苛烈な受験競争世代であり、最も、陰湿なイジメが社会問題化した世代であり、バブル崩壊後の最後の就職氷河期世代。全世代と比べても、もっとも多くの割合でフリーターを輩出している世代。
しかも、(方向は違うが)地方出身でもあるし(全然、彼女は、あかぬけていて、私と比較するなど、恐れ多いですが)。
彼女の小説は、とても、アレゴリカルだ。決して、リアルを追求するというタイプではない。むしろ、使われるツールは、ほとんど、エンターテイメント小説の、構成要素で、おおいつくされていると言っていい。
しかし、なにをきっかけとしてなのか、分からないけど、こういうディープな世界に、どんどん、彼女は、のめりこんでいく。
なぜ、彼女は、家族に、こだわるのだろうか。
しかし、その視点には、興味深い部分があることは、確かなのだろう。
日本は、近代成長をとげ、バブルを経験した後、一応、「ユートピア」を実現したのではないだろうか。この国は、ある意味、ユートピアになった。これほど、子供たちが、一次的な物質不足に悩むことのなくなった、時代は、今くらいなものだろうし、今にしても、世界でも、ほとんど、まれなくらいだろう。
今でも、多くの国には、まず、今日を、生き抜くことこそが、何よりも、目指される目標なのだ。
そんな、ユートピア日本で、逆に、ユートピアであるからこそ、露骨なまでに、顕現してきたのが、家族などの、人間関係。どんなに、豊かになっても、この、人間関係だけは、太古のはるかな、この地球に、人間が現われた時代から、なんの、進歩もしていない、未開の分野なのだ。
そして、この人間関係の、一次的な舞台、人間がこの世に生まれて、最初にアクセスする共同体こそ、家族、なのだ。
あらゆる、人間の希望と、絶望が、共存する場所。あらゆる矛盾が、決して、解消されることなく、はるか太古から、延々と、そのままの姿で、保存されている場所。それが、家族、なのだ。
この話は、赤朽葉家の、3世代にわたる、女たちの、物語である。
最初は、瞳子のおばあちゃんである、伝説の時代の人、万葉、である。彼女は、未来視、をもつ。まだ伝説が生きられていた時代、の生き証人、である。
彼女が、赤朽葉家、に嫁いでくるところから、この物語は始まる。
そもそも、彼女は、捨てられ子で、町中の、井戸の近くで、拾われ、育てられた。

万葉は、出目金をおそれるあまり海沿いにはなるべく近づかなかったが、この辺りの風景がけしてきらいではなかった。なにより、標高の低い漁港の近くでは、万葉は幻を視ることがない。そのことが楽だった。となりで泣いている出目金のことはすっかり忘れて海に見入っている万葉の顔を、出目金が涙の乾いた目で、じっとりとねめつけた。くろぐろと波打つ、腰までの髪をぐいっとひっぱって、
「心配せんのか」
「いたい! 心配せんわ。いじめっ子」
「ひろわれっ子!」
「いたいがな!」
「あんたには兄じゃもいないのに。わしがうらやましいだろう?」
「うらやましくなんかない。わしは、足りとるもの」
足りとる、とはなんのことかとっさに自分でもわからなかったが、万葉にはもともと、欲というものがあまりなかった。必要なものは若夫婦に揃えてもらっていたし、贅沢をしたがったり、現世的な欲をもつには、幻を多く視すぎた。

勉強が苦手で、一生、文字が読めず、書けなかった、彼女は、生涯、自分の本当の親が誰なのかを知ることはない(小説の中でも、明らかになることはない)。
(上記の家族についての検討の文脈からも分かるように)この、決定的に、重要な境遇の、彼女の存在を、渦の中心として(しかし、その境遇を、彼女は、なんと、「足りている」と言うのだ)、物語が始まり、動きだし、そして、彼女の死とともに、瞳子の、このおばあちゃんの死の意味(殺人)を問い直す(とむらいの)作業をへて、この物語は終焉へと向かう。

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説