グレゴリー・チャイティン『メタマス!』

著者の本の、何冊かが、日本でも翻訳されて、本屋でも、今も、並んでいる。
著者も、ゲーデル不完全性定理に、とりつかれた一人だ。他方、IBM の研究所にもいたようで、コンピュータでの実験を重要視するタイプのようだ。
彼が、言う、情報理論は、言ってみれば、数学を、情報を圧縮、解凍するコンパイラーのようなものと考える、もののようだ。そのプログラムを記述できるビット数(昔のコンピュータで言う紙テープの流さ)が、その数学の「情報量」と考える。
確かに、このイメージは明確だが、これを数学的に扱おうとすることは、絶望的に、煩雑なのだろう。
彼の本を読むと、プログラミング言語lisp」が重要視されている。lisp 言語は、テキストエディタemacs がおなじみの人には、自明だろうが、大変、先進的な、言語である。
まず、プログラムそのものが、データ、そのものと、非常に、親和的なのだ。キーワードが、どんどん、丸カッコ、で囲われていく、この言語は、恐らく、今、世界にある言語の中で、最も、先進的、であろう。
このことは、決定的な、他の言語との違いを生み出す。なんと、lisp 言語のプログラムが、別の、lisp 言語のプログラムを、インプット情報として(もちろん、テキストファイルだろうが、なんだろうがかまわない)、もらって、その中で、実行ができる、というわけだ。
一応、お断りをしておくと、この、IT 業界で作られている、大量のプログラムには、この機能が使われているものは、あまり、ないだろう。そもそも、こういう、プログラムの構造を複雑にすることは、現場では、まず行われない(誰も、メンテできなくなります)。
よく、C 言語を、最初に勉強すると、まず、再帰関数、に出会うが、これも、現場で、ほとんど使われない。結局、「一般的な」人間の物の見方を分かりにくくするものは、敬遠される、ということだ(ただ、掲題の著者から言わせれば、再帰関数ほど、「情報量」を圧縮しているものはないだろう)。
つまり、オブジェクト志向ということなんだけど、もちろん、この考えは、掲題の著者に言わせれば、情報量を無駄に多くしてる、ってことになるんでしょうね。そもそも、オブジェクト志向は、その哲学の実現は不可能なのだ。つまり、現実的な、メモリの大きさ、CPU 処理能力による限界があるので、こんな理想論、都合のいい妥協なしでは、ありえない。オブジェクト志向は、もともと、上流設計側からのアプローチから生まれた思想であり、Java にしても、今までの、プログラミング設計思想、伝統を大事にした、奇妙な妥協の産物であふれかえっている。
だいぶ、話がより道してしまいましたが、掲題の本には、一つ、重要な運動が書いてある。デジタル哲学、デジタル物理学運動、である。
昔、岩波新書の、物理学の啓蒙書、だったかで、物理学の進歩について書いてあった。
ようするに、実験器具の精度、なのだそうだ。物理は、実験器具の精度、の桁が上がるたびに、新しい理論が、作られてきた。しかし、自然界の、この、実験の精度、を完全に、全桁、分かることなど、人間である限り、ありえない。ということは、完全な理論など、人間には、望み得ないことになる、というわけだ。
世の中というのは、不思議なもので、人間の到達できない限界が確定すると、その事実そのものに、不満をもつ人が現れる。
例えば、量子物理学が、本質的に、確率的にしか、事実が確定しないという、なんとも、哲学的には、悩ましい(しかし、実際の現場では、それで、事足りているのだが)事態に至ると、「そもそも、この世界は、パラレル・ワールドになっているのではないか」という、(普通に考えると、どう考えても、証明できそうにない)多世界的な宇宙観を、主張する人が現れる。
同じように、「そもそも、この世の中は、デジタルなんじゃないか。実数精度を、もちろん、人間は調べることはできないが、むしろ、この世界が、実数的な精度で成立していると考えることの方が、どうかしてるのではないか」、となる、というわけだ。
実は、数学の中においても、実数の構成というのは、かなり、危ない構成によって作られる(そのあたりは、また、いずれ)。
例えば、この著者は、そもそも、実数全体の中のうち、「確率1」の割合で、計算不可能、であることについて、何度も注意を喚起している。
しかし、これは、考えてみれば、(実数は、可算無限より、濃度が、真に大きいのですから)、当然ではあるんですが、著者にしてみれば、そもそも、そんなものを考えることに、どんな意味があるのか、となる(なぜなら、特に、現代は、コンピュータの時代なわけですし、そのコンピュータで、人類が、どんな未来まで、存在しようと、圧倒的に、ほとんどの実数の、実体が分かることは、不可能、ありえない、というわけですからね)。たしかに、アキレスと亀パラドックスだって、これなら、解決だわな。
ちなみに、もう一つ、つけ加えると、確かに、コンピュータは、実数の扱いが、(決定的に)苦手ですよね。かけ算、割り算、は、どうしても、近似値として、扱わざるをえない。そうすると、かけ算、割り算、を繰り返す処理は、どうしても、精度が、どんどん落ちていく(そして、それが、どれくらいの精度が、ゆがめられたのかを、トレースすることは、さらに複雑な扱いを要求される)。
最後にまとめ、としては、デジタル哲学、デジタル物理学運動、については、オールタナティブ、としては、ありうるだろうけど、むしろ、そのことによる、実際の現場での、違いというのは、それほど、ないんじゃないかな、ということですね。
もともと、実数濃度というのは、統計力学をみても、あまりにも、質点の多いものの集団的な現象を解析する場で、逆の「近似」として、使われてきたわけで、むしろ、そういう「モデル」と考えれば、別に、自然な発想ということになる。
どちらにしろ、アイデアは、哲学寄り、から来ているもので、今後の展開が、なにかあれば、また、考えるぐらい、のものじゃないですかね。

メタマス!―オメガをめぐる数学の冒険

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