田母神問題と今回の朝なま

今回の、朝なまは、完全に、新しい歴史教科書の会(あいかわらず、内輪もめを繰り返してるみたいですが)の、連中の宣伝番組と、変わらない番組構成になっていなかったか。
彼らにとって、謀略史観かどうかは、問題ではないのだ。
彼らにとって重要なのは、誰が敵で、誰が味方かを、はっきりさせること。友敵理論なのだ。
敵に、コミンテルン、というレッテルがふさわしいから、そう呼んでいるのであって、別に、コミンテルンであろうがどうだろうが、たいした問題ではない。大事なことは、「敵」として名指せることなのだ。
日本人とは、日本の戸籍をもっている人を言う。しかし、彼らにとって、そのことは、2次的な意味しかない。
人類の歴史は、ずっと、内(仲間)と外(敵)との、殺し合いの歴史でしかない。
歴史の中で、一度でも、気を抜けば、多くの民族(仲間)は、この地球上から、抹殺されてきた。あらゆる手段を尽して、内(仲間)が駆逐されないために、最善を尽したもののみが、この歴史上、存在し得ている。
この考えに立つ限り、軍拡競争は避けられない。少しでも、相手より上でなければ(いや、圧倒的に上であっても安心できない)。そもそも、限りなどない。敵がこの世から消えない限り、安心に至ることなどないのだ。
しかし、たとえ、敵が消えようと、彼らが安心することなどないだろう。なぜなら、彼らは、絶えず「内なる敵」を発見することを宿命づけられているから。仮想敵の存在が彼らの支配、権力の正統性を与える限り、敵がいなくなることはない。それはジョージ・オーウェル1984年』が描く世界、そのものでしょう。
そもそも、彼らの出発点は、すべて、「内ゲバ」なのだ。
内(仲間)の存続のために、あらゆる私を無にして、奉行するものこそ、この、内(仲間)にとって、もっとも価値のある存在(貴族)ではないのか。逆に、そこからこぼれ落ちる、自分のことし考えない、また、情勢によっては、簡単に敵に寝返るような存在は、潜在的に、内(仲間)の中では価値のなく、差別される、下級の階級として、扱われるにふさわしいではないか。そこから、多くの差別的な法体系を目指すことになるだろう。大事なことは、そういった一部の志の高い存在(つまり、自分たちである、仲間)が、当然、優遇されることなのだ。
しかし、この構造は、あらゆる、集団行動において、あらわれる現象だ。E・ホッファーにとって、あらゆる、集団行動がなぜ、このような、だれも制御できない暴走を始めるのか、なぜ、同じ轍を踏むことになるのか、その構造の解明が彼の生涯のテーマであった。
必ず、組織というのは、こういう一部の、意識の「高い」武闘派が、はねあがりとして、突出してくる。そして、重要なのは、このはねあがりは、一部の理論派を核として小さいながら、内なる集団を形成する(派閥闘争を始める)、ことだ。彼らは、「優等生」なのだ。
この永遠と繰り返してきた現象には、どこか、人間の弁証法、といいますか、人間が使うこの、言語がもつ論理の構造から、容易に生来される、ある定型的な形が、思われるわけですね。
こういった分析を、今回の出演メンバーにあてはめてみると、どんなことが言えるだろうか。
西尾さんは、ニーチェ学者ですから(ニーチェにはこういう読まれ方をされざるを得ない部分があるのでしょう)、ある種、こういった方向に行くんでしょう。
たとえば、潮匡人、という元自衛隊員の人については、前にも分析したが、典型的な、「じっちゃんの名にかけて」タイプですね(また、こういうタイプをバックに小林よしのり理論武装していったわけだ)。むしろ、元自衛隊員でありながら、こうやって自衛隊のもつ武力を背景に国民を脅すことに、自己内省からの、躊躇がない。もともと、自分の「じっちゃん」と、自分を区別できないのだ(そういう意味で、国民からの、疎外感、被害感情を、ずっと持ち続け、抜けられない構造の中で、生きてきたタイプということだ)。
彼は、国民の中に、あらゆる、「敵」、の表象をみつけて、延々と、糾弾し続ける。
その発言は抑制的である。他方で、支離滅裂の屁理屈でもある。しかし、そうだったとしても、彼にとっては、それは、たいした問題ではない。むしろ、彼の屁理屈を指摘してくる相手とは、彼には「敵」のメルクマールでしかない。彼にとって、ただ、問われることは、「敵」と「味方」の区別、だけであって、その判断で、自分が「味方」と判断されるのなら、それ以外のことは、(たとえこの国がどうなろうと)どうでもいいのだ。
田母神は、安倍が首相のとき、幕僚長になっている。安倍の亡霊でしょう。別に、驚くことではない。安倍は、自民党内を、徹底的に、粛清、内ゲバした。安倍が、民主党の小沢を、軽蔑的に、「本当は自分と同じ考えなんでしょう」、と揶揄していた姿が、思い出されるわけですね。
彼は、参議院選挙で、これ以上ないくらいの、大敗けをしたにもかかわらず、国民にKY扱いされても、辞めなかった。なぜなら、それだけ、自民党内の、内ゲバ、粛清は、大成功していたのだ。自民党は、だれも、彼に文句が言えなかった。それだけ、このイデオロギーによる支配は強力だったわけだ。
しかし、南京問題、従軍慰安婦問題、を通じて、彼は、アメリカにパージされる(他方で、国内で、自分の脱税問題を逃げる意味があったわけですね)。あっけなく、総理をやめる、わけだ。
しかし、大事なことは、そこから、自民党は、一度も、選挙による洗礼を受けていないことだろう。
国民は、安倍のあの態度に、まだ、審判を下せないでいる。
特に、マスコミは、こういう自民党への軽蔑を隠さない。総理大臣が、だれになろうと、国民の選挙による付託を避け続ける限り、マスコミは、その裸の大将を、バカにし続ける(しかし、2世議員たちは、どうも自分たちを、「貴族」だとでも、思っているようだ)。
自民党は、どうしたいのだろう。アメリカで、「チェンジ」が達成されて、日本は、選挙を避け続けて。自民党は、どうやって、選挙に、勝つつもりなのだろうか。
田母神や潮匡人を暴走させて(彼らも政治家の足元を見て、こういう挑発をしているわけだ)、自衛隊のクーデターによって、軍先政治、でも目指すのか(最近の、アジア各国の、軍部の暴走は、彼らを、刺激し続けるでしょう)。
もし、安倍自民党を、自制させてきたものがあるとするなら、経済的な動機しかありえない。国家の内乱によって、経済界が、好景気に水を指されることは、経済界から、政治家を抑制的にしてきたが、ここ、こうやって、アメリカを含めて、不景気が常態化してきたとき、どこまで、だまっているか。
安倍の亡霊たちには、一日も早く、自衛隊のクーデターを待ち望んでいる、というわけだ。もともと、戦中への回帰、こそ、彼らの目標なわけで、そうずっと、著書で、主張してきた連中だ(もちろん、ゆるやかな、保守化、たとえば、徴兵制の復活などが、漸次的に達成されていく中で、国民が、彼らの言う「目覚める」こと、そのことの長期的な目標と、こういった一気のクーデター、革命は、別に、その目標において、矛盾した話ではない)。
滅私奉行。忠臣競争。愛国無罪造反有理。構造は、なんにも変わらない。