中塚明『これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史』

日本と、韓国・朝鮮の歴史を、並行して、書かれた教科書として、比較的最近、出版されたもので、

日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史

日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史

というのがある。これについては、柄谷さんも以前、書評されていたが、大変に、よくできている。誰でも、手元に一冊もっていてもらいたい(まさに、教科書だ)、おすすめしたい本である。
私は、このブログでも、一つのテーマとして、韓国・朝鮮、をどう考えるか(この延長に、中国との関係もあると考えるわけです)、をずっと続けてきた。
よく考えると、普通に日本というこの国の歴史を考えるなら、ずっと、「日本の外」とは、韓国・朝鮮、のことだったのだ。
あらゆる文物は、韓国・朝鮮、を経由して、日本に入ってきていたわけだし、人の交流も、朝鮮半島を、経由して、大陸「中国」へ、日本人は、ずっと渡っていた。
そう考えたときに、私たちは、はたして、韓国・朝鮮、へ日本が、どれだけの影響関係であったのかを、わかっているのだろうか。
そもそも、そういう視点で、まともに、まとめられた知識を、ずっと、吸収してこなかったのではないのだろうか。
なぜ、そういうことになるのだろうか。
ここには、どういうバイアスがあるのだろう。
もっと言ってみよう。どれだけの日本人が、韓国・朝鮮、からの移住者で占められているだろうか。そう考えれば、ほとんどすべてと言って過言なんじゃないでしょうか。日本は、韓国・朝鮮、からの移住者が作ったのだ。
なぜ、日本人のほとんどが、自分を、韓国・朝鮮、へ、自己同一しないのか(もちろん、これは、ある程度は、韓国・朝鮮、側についても言えることではあるが)。
以前、紹介した、呉さんの本でも、韓国・朝鮮、に住んでいた、日本人が、まったく、その支配に反省の色がない。実感として、問題を感じていない、気持ち悪さについて書きました。
どうも、うさんくさいわけです。例えば、自民党や官僚は、戦後、満州で、さんざんもうけた、連中によって、運営されてきたことが知られています(安倍元首相の、おじいさんの、岸元首相もそうですね)。あの、敗戦の混乱の中、やたらと、お金に余裕のある連中がいた。それが、朝鮮や、満州で、うまい汁をすっていた、連中だった、ということです。
もちろん、そのことの意味を問うことも大切ですが、彼らが、まったく反省の色がない、ということですね。そもそも、日本は、そういう連中に支配されている、ということなんですから、権力の集中するところに行けば行くほど、そういう主張が力をもっている、というわけだ。そして、その声は、権力のある所から、出てくるわけですから、多くの日本の場所で、そのパワーに抗うことが、難しい場所が増えていく。
彼らにとって、この自分たちが、さんざん、私腹をこやした、支配の正当性が、疑われることは、彼らの多くの財産の正当性にかかわることなわけで、なんとしても、抵抗せずにはいられない、ということだ。彼らが、どういう手段でか、ひとかたならぬ、小金を手にして、その子孫は、それによって手にしたお金、のある家に生まれ、いいところの学校に入れて、その後も、多くの資産をバックに好き勝手な生き方ができたか。みんな、このとき、作った資産によって、だった、ということでしょ。
さて、掲題の著者の本は、以前にも、紹介しましたが、今回のは、総論として、今まで読んだものの中で、一番に、完成度の高い内容だと、思えた(この本も、一冊、手元に置こうではないか)。
今後、韓国・朝鮮、について、なにほどか、一家言あるという人は、まず、この本に対する総括を、徹底してやってからにしてほしい、ですね。
田母神は、日本は、侵略をしていない、と言ってましたね。この主張は、完全に、新しい教科書を作る会の主張そのものであった。
これに対して、先週の、videonews.com で、宮台さんは、「日本は、最初は、侵略の意図はなかったんだけど、満州事変などを経て、ほぼ侵略と変わらなくなった」、みたいな議論をしている(また、大衆愚弄論、エリート礼賛論、だ)。
しかし、よくもしれっと、「日本は、もともと、は、侵略の意図はなかった」なんて、いっちょまえの、学者が言えるものですよね。学会で、ふくろだたきにあわないんですかね。

日本書紀』以来、日本の朝鮮蔑視の思想は、ときには色濃くあらわれたり、ある時期には表から消えて伏流するなどしてきましたが、江戸時代後期から幕末、明治初年にかけて「征韓」の主張が強まってきます。朝鮮通信使との交流に見られるように、江戸時代には朝鮮の朱子学に対する尊敬もありましたが、欧米の強国のアジアへの圧力が強まってくるにつれ、朝鮮をはじめアジアへの露骨な海外侵略論が台頭してくるのです。
その中で、明治維新で政権の中核をになった下級武士たちに大きな影響を与えた長州藩の吉田松蔭は、こういっています。
「神后(神功皇后)の三韓を征し、時宗北条時宗)の蒙古を殲し、秀吉の朝鮮を伐つ如き、豪傑というべし」「朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし」と。神功皇后北条時宗豊臣秀吉を「豪傑」とほめたたえ、昔のように朝鮮を攻めて貢ぎ物を差し出させ、満州を切り取り、南は台湾・フィリピンを取って日本のものにし、だんだんと進取の勢いを示すべきだ、というのです。

吉田松蔭の教えを受けた長州藩の武士で、明治新政府の首脳の一人となった木戸孝允は、さっそく1868年12月14日(旧暦)、政府最高幹部の岩倉具視に「すみやかに国の方針をしっかりさだめ、使節を朝鮮につかわし、彼の「無礼」を問い、かれもし不服のときは罪をいいたてその国土を攻撃し、 大いに「神州日本」(神の国である日本)の威勢を伸ばすことを願う」(『木戸孝允日記』)と書き送っています。

みなさんご存知のように、この、吉田松蔭を、最も尊敬する人物と公言していたのが、小泉元首相であり、安倍元首相、ですからね。こういうのは、メッセージとして、「今後も、韓国・朝鮮、を日本の植民地にする、野望を忘れるな」というメッセージの再生産になっていることに、なぜ気付かないのでしょうか(今回の、NHK大河ドラマ篤姫でも、中心は、薩摩勢になっていて、長州勢は、メインキャストになってないですよね)。

近代日本が朝鮮に勢力を広げるのに大きな画期となったのは、後にのべますが日清戦争でした。当時、まだ若かった歌人与謝野鉄幹は、日清戦争の宣戦の詔勅に感動し歌をよみました。「いにしへに何かゆづらむ耳塚を再びつくもほどちかくして」(1894年『二六新報』)。「昔の人にどうしてゆずることがあろうか、昔の人に負けないで耳塚を再びきづく日も近いのだ」とうたったのです。

むしろ、宮台さんのような、多くの日本の知識人が、戦前、どんな発言をしてきたか。戦後、どんなふうに言説をひるがえしていったか。まず、まともに、その辺りを、総括されないと、いつまでも、こういう、うわついた発言が止まらないんじゃないですかね。
東さんの南京大虐殺の人間不可知論(=東さん「自称」ポスト・モダン)にしてもそうですけど、こういう自称知識人の、一般論という、「不適切発言を繰り返す政治家と同列な」幼稚な断定口調、ですよね(わかったから、科学やってください)。
私は、むしろ、侵略だったって認めて、いいじゃないか、と思う、ということです。当時の人たちは、彼らなりに、真剣に考えて、侵略をやったんでしょ。侵略して、そうやって、生きようとした、ということでしょう。むしろ、大切なのは、その真剣さ、じゃないんですか。真剣に、本気で、侵略を、やってたんでしょう。
もちろん、この考えは、新しい教科書の会や靖国神社が、言っているような、「仕方なかった」論、ではありません。
つまり、日本は、西洋列強の「まね」をした。
今、世界では、そういう西洋列強による、植民地支配の、問い直しが行われていますよね。そこで、だれも、「仕方なかった」と言って、すませるような議論なんて、していないでしょう。
だから、日本の、メインストリームは、「侵略の方向についてだけは、決して、ぶれることなく、選択し続けた」ということなんだと思います。
そして、中には、当然、そのことに疑問をもつ人もいたし、実際に、抵抗運動に参加した人もいただろうし、そこまではやらなくても、自分の属している組織の中で、自分のできる範囲で、中国人や、韓国・朝鮮人に、(めだたないような注意をする形で)できるだけのことを実践した人も、いたはずである。
ようするに、日本人が、日本を誇ることができるのは、そういう、高貴な精神を、この困難な時代でも、忘れなかった人がいるからでしょう。

抗日義兵の動きは、日清戦争のときから見られましたが、日露戦争後には、その規模が全国的に大きく広がったことに特徴があります。韓国統監として赴任していた伊藤博文は、1907年4月、日本の外務大臣林董あてに、「韓国の形勢がいまのように推移するならば、年がたつにつれて『アネキゼーション』はますます困難になるだろう。だからいまのうちにわが国の意思のあるところを明らかにし、あらじめロシアの承諾を得ておかなければならない」と電報を打ちました。「アネキゼーション」(annexation)とは「合併、併合」のことです。
大衆的な抗日運動が、韓国の宮廷や支配者にも影響をおよぼし、さらに日露戦争後、悪化のきざしを見せはじめた日米関係などにも連動して、朝鮮の中立化構想がよみがえるかも知れないとの不安が、伊藤にあったのかも知れません。
案の定、伊藤は林に電報を打った直後、「保護条約」の不当を訴える韓国皇帝の密使が、オランダのハーグで開かれていた第二回万国平和会議にあらわれたのです。しかし、この密使の訴えは取り上げられませんでした。逆に日本政府は、密使を送った責任を問うて皇帝高宋(コジョン)を退位させます。そして第三次日韓協約を結ばせ、行政・司法の実権を統監に集中し、韓国軍隊も解散させました。
こうした日本政府の強硬措置は、義兵闘争に油をそそぐことになりました。解散をこばんだ韓国軍兵士はソウルの兵営で反乱、義兵闘争は全国に波及していきます。1907年から翌年にかけて義兵闘争はピークを迎えました。日本政府はもう一度、戦争を戦うほどの軍隊を新たに送り、この鎮圧に乗り出さなければならなくなりました。
義兵と戦った日本軍の記録、『朝鮮暴徒討伐誌』(朝鮮駐箚軍司令部、1913年)によると、1907年8月から1911年6月まで、義兵が日本守備隊・憲兵・警察と衝突した回数は2852回にのぼり、義兵の数は不確実な統計でも、14万1818人を数えます。南は全羅道(チョルラド)・慶尚道キョンサンド)から、北は咸鏡道(ハムギョンド)まで、朝鮮全土で戦われたのです。
これに対し日本軍は、圧倒的な武力で鎮圧に向かい、さらに義兵闘争の起こった村全体を焼きはらうなどの戦術をとって、朝鮮人の抗日の意気を失わせようとしました。義兵闘争は1908年をヤマとして、1909年にも、規模は小さくなりながら、なおはげしくつづきました。義兵蜂起の、最も活発であったのは、東学農民軍の伝統をひきつぐ全羅道一帯でした。日本軍はこの年の秋、約二ヶ月にわたって「南韓暴徒大討伐」作戦を実施して、義兵を再び西南に追いつめて壊滅させます。
日本軍の容赦ない弾圧によって、義兵闘争はしだいに敗退していきましたが、朝鮮全土におよんだ戦いは、朝鮮人の民族的連帯感を熱くし、北の国境をこえてシベリアや中国東北地方に移住した朝鮮人は、その後長く朝鮮の独立、解放のための武装闘争の源となりました。

私は、むしろ、逆のことを、思うわけです。
韓国・朝鮮、の人たちの、これほどの、団結力、民族意識の高さ、抵抗運動の、決して、折れることのなかった、強靭さ。どれも、ほかのどこの被植民地国に比べても、ひけをとらない、世界史に、ほこれるようなレベルではないでしょうか。
逆なのです。むしろ、多くの日本人は、この、韓国・朝鮮、そして、中国の、方々の、このレジスタンスに、東アジア人の崇高さ、人間への可能性を、みるべきではないのじゃないですか。
そもそも、戦前、戦中、の日本人の、どれくらいが、この国を、「いい国」、と思っていたというんでしょうか。なんか、倒錯があるんじゃないですかね。階級格差もひどかったし、貧困も頂点を極めていたし、国家による抑圧も、局限まで行ってたわけですよね。多くの庶民の感情は、この国家暴力への、不満と鬱屈で、苦しめられていたんじゃないんですか。
逆に、こっちの方こそ、健忘症なんじゃないですかね。
赤紙一枚で、あきらかな負け戦に、いつまでも、つきあわされて(一体、だれの権益を守るために、ずるずると降伏を伸ばしたんでしょうね)、さんざん人殺しをさせて。
なんの訓練も受けていない、教養もない、ただの日本の地方の稼ぎ頭の労働者を、戦地に放り出したんですよ。そりゃあ、現地で、悪逆の限り、振舞うかもしれないことぐらい、だれだって、想像できるでしょう。
ご存知のように、日本は、ポツダム宣言を受諾する直前まで、ぐずぐず、と、いつまでも、朝鮮と台湾だけは、なんとか、日本の領地として残してくれと、交渉を続けるわけですよね。

これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史

これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史