女=つまらない

別に、今年の紅白も、白が勝つだろう、みたいな予言がしたいわけではない。
私の個人的な感想としても、(文化人などを含めても)大変に、知的で、興味深いと思っている女性は、数少ない。
反感を呼びそうな掲題であるが、けっこう、挑発的な、嫌われるようなことを言うのは、嫌いではない。なぜ、現代の、女性は、つまらなくなったのか。
私が、このようなことを言うのは、それほど、深く熟慮して、ということではない。非常に単純な、推論から、言わせてもらっている。
戦前まで、結婚とは、お互い、好き合った男女が行うものでは、なかった。結婚とは、家同士が行うものであって、家柄とか、そういうものがまず、最優先されるものであった。
つまり、勝手に、結婚を強制されていたのだ。もちろん、場面、場面で、拒否することはあっただろうが、それは、拒否した、ということだけで、その構造がゆらぐわけではない。一回目は、拒否したが、二回目は、ちょっと気に入ったので、結婚した、みたいなものだ。
もちろん、そういう蛮行が、なくなってきたことは、結構な話であるが、ヘーゲル弁証法とは、実に単純な構造でできてるもので、今度は、逆の現象が起きている(正でなかったら反なのだ)。
「みんな、女性が決めたこと」になったのだ。街を歩いて、女性が、ひきつれ回している、男を見てみればいい。「ああ、なるほどね」。そんな、男ばかりだ。
ドメスティックバイオレンスな男だろうと、アシーな男だろうと、みんな、その女が「選んだ」、そういう傾向が、露骨に、匂うものばかりだ。
ようするに、女が、その男の側に、いてやってる、というわけだ。
つまり、そこにおいて、男とは、その女に、丁稚奉公する、奴隷のような、存在でしかなくなったわけだ。
勝手に結婚を強制されていた時代は、女性の側に混乱があった。それが、女性の、なんともいえない、矛盾を切開く生き方の魅力になっていたが、今では、もう、そういう感じはない。
逆に、女の側の、露骨な、欲望ばかりが目立つようになった。
女にとって、キーワードは、「幸せ」、だ。
女とは、現代において、自分の回りで、自分の産んだ子供にチヤホヤされながら(いつのまにか、子供は産んだ女の所有物になってしまっている)、長生きの目標を、達成するために、回りの環境を、快適にしてくれる(夫などの)アイテムを、延々と、収集することだけを、欲求するだけの、そういう、なんの志もない、エゴイスティックな、「動物」に、成り下がってしまった。
そうなると、男にとって、女とは、醜いだけの、どうでもいい存在、でしかない。
そもそも、結婚とは、それほど、人生を決定するようなものなのだろうか。結婚が一体、何をしていることなのかを、まともに定義できた人など、今まで、いるのだろうか。一緒に、一つ屋根の下に暮らしてる、だけでしょう。
江國香織の小説でも、「どうして「自分」は愛されるのか」、だって? バカっじゃなかろかルンバ、でしょ。利用してるのは、常に、お前の方なのに、その無自覚さ。勝手に、一生、悩んでろ。
なぜ、これほどまで、女性が、つまらないかを、いくつかの現象から、指摘できるのだろう。

  • まったく、社会や、政治や、哲学に、興味をもたない
  • 現代の女性の徹底したフェミニズムへのシカト

たとえば、化粧とか、ファッション、についても、「その男のために、がんばってやってる」感、みたいな、感じなんじゃないですかね。なにかの、魔術でも、やってるつもりなんですかね。なにか、根本的に、自分には、男をふりまわせる、魔法をもっている、という勘違いから始まってるんでしょうね。男は、まったく、そんなものに、興味ないでしょ。でも大丈夫。魔術にかかったふりをしてくれる、「やさしい」相手を、選んで、はべらしてるんだから、裸の王様ってわけで、傷付くことはない。
しかし、である。
この、女性の、「鈍感さ」は、進化論的には、重要なのだろう。
どうも、男というのは、肉体的にも、不完全な、壊れた存在のようだ。精神的にも、簡単に、刹那的な、破滅的な、生き方を、選んでしまう。
しかし、女性は、そういう「ブレ」がない。生物学的に、安定している。実際、男性より、長生きする。精神的に、興奮したり、混乱したり、狂気に走ったり、暴走したり、しない。いつも、計算少女。なにが得なのか、どっちが、便利か、つねに損得計算を合理的に、冷静に、はじきだす(お前が損得計算するのは結構だが、お前そのものに、なんらかの価値があるのか、なんらかの価値を見出してもらえるのか、そういうふうには考えないですむような、そういう鈍感さだけは、けっして負けないものがあるようだ)。
もちろん、こういった、放言が、一方的な糾弾の一種にしかなっていないのは、確かである。あいかわらず、女性が働く世界は、狭く、居心地のいいものではないのであろう。また、子供を産み育てる、という作業が、どれほど、手間のかかるものか、そして、そのほとんどを、相変らず、ほとんど、女性に、押し付けられている。
こういう状況で、むしろ、自分の幸せとはなんなのか、と考えることは、普通ではないか。
しかし、その不満が、なかなか、政治的な権利獲得闘争に、つながっていかない。そもそも、そういう方向のなにがしかに、皮肉な感情しかもっていないのかもしれない。
むしろ、そういう正攻法を嘲笑し侮蔑し、もっと手近にある、知能の足りない男を、勘違いさせて、自分にみつがせる方が、手っ取り早く、「幸せ」が手に入る、という「合理的」な判断から、導き出される結論なのだろう。
といったもろもろのことから何が言えるか。まだまだ、当分、女性の時代は、続く、ということなのだろう。