風化するアキバ事件

つい最近、おきた、アキバ連続殺人事件、も、どんどん風化しようとしている。
もちろん、恐しい事件であった。
白昼堂々の、完全にキレた若者。イッっちゃった目。思い出すことさえ、苦痛の日々を送っている人も多いでしょう。
ただ、私が気になったのはむしろ、多くの識者が、このアキバ事件に言及したことだった。
私は、彼のケータイブログを見てないし、ほとんどニュース以上の知識はないが、おそらく、そういった識者の人は、それを見たのであろう。
活字というのは、けして、看過できないものになる。そういう識者も、活字を信じ、言論活動をしているだけに、こうやって、そうとう膨大な量であったのであろう。はしにも棒にもかからない内容であろうと、なにかを言わずにはいられなく、させたのだろう。
しかしその識者の反応は、どこまで今の事態を、言いあてるものだったのだろう。あのとき、問題になった、派遣の問題は、今回の、大量切り、によって、どうも、かすんでしまったみたいだ。そもそも、発言した彼らは、ああいう、第二次産業の、工業団地のようなところで、昔から、かなり高い割合の、自殺の件数があることを知っていて発言したのだろうか。
べつに難しい話ではない。彼は実際に、レイオフ(と信じたこと)をトリガーとして、起こしている。よけいなことをぐだぐだ言う前に、ここからどうして考えないのだろう。
いや。むしろ、識者の人たちは言えないのだ。なぜなら、天下のトヨタのお膝元で起きた事件だけに、今後の、仕事を考えて、いい感じにバランスをとったってわけだ。
労働とは、常に、奴隷制、と隣り合わせ、である。リバタリアリストは、最低賃金を無くすべきだ、と言う。もしそう言うなら、労働時間の制限も無くせ、ということになるだろう。もちろん、気に入らなければ、やめて、他の仕事を探せばいい。しかし、どうだろう。もし、世界中の労働市場が、なんらかのカルテルをむすんでいて、資本家同士で、そのギリギリの条件でやろうと、手打ちをしているなら。
嫌なら、やめろ。どこ行っても、一緒だろうがな。だからって、怠けるなよ。怠けるっていうのは契約違反。給料払わず、その場で、お払い箱にできるわけだ。どうぞ、ぼろぼろの廃人に「なってください」。使えなくなったら、さっさと捨てて、次のに、代えますんで。なんにも知らない、生きのいい、ピチピチしたのに代えられる方が、ありがたい、ありがたい。せいぜい、今を、ギリギリまで、馬車馬のように働くんだな。
派遣労働は、そもそも、矛盾である。社員なら、その社員の体がボロボロになって、廃人になろうと、その会社は世間の目があるから、それなりの待遇をせざるをえないだろう。しかし、派遣は、使い捨てだから、ギリギリまで、ボロボロになるまで使い捨てることが「正しい」。それが、みなさんの好きな「経済効率性」。こいつらは、「おいしい」のだ。
労働の問題は、マルクスの頃から、本質的に、なにが変わった、というのだろう。何も変わっていないじゃないか。
おい。識者の連中。お前たちは、この何百年と、何をやってきたんだ。なんで、こんなことすら、解決できずに、そのまま残ってるんだ。
さて、最初に反応したのは、朝日新聞だったかの、東浩紀さんだったんじゃないか。彼は、そのファースト・インプレッションの段階で、微妙なことを言った。もしこれが、国会議事堂内、だったら。政治的な意図、政治的テロだったら。国会議事堂に、例のレンタカーで、つっこんで、ナイフでなく、マシンガンでも、ぶっぱなしていたら。
そもそも、日本は、昔から、今にいたるまで、長い間、多くの国内のテロに悩まされてきた国である。多くの人は、そのことを忘れているようだ。
ちょっと前に私が書いた文章だと、維新政府は、テロリストによってつくられたってことにしちゃってますんで。どうもこの日本。テロって「正しい」じゃん。になっちゃってるみたいです。
どこで読んだのか忘れたんだけど(多分、山本七平)、徳川幕府ができるとき、孟子の革命思想を意識して、諸藩に向かって、「やれるもんなら、革命やってみろ」みたいなことを言ったみたいですね。まあ、それくらい言えるくらい、自分たちの政治に自信があったということなんでしょうね。そう言ったとたんに、革命を成功させられたら、面目ない話ですもんね。ところが、月日が流れ、幕末になると、やたらと、薩摩、長州、だけは「お金持ち」の藩になっていた。
地方自治の功罪なんでしょうね。
徳川政権の特徴は、徹底した、地方自治であった。それは、ある意味、正しいんですよね。もし、あらゆることを自分たちが決めるなら、その責任(恨み)は、すべて、自分にふりかかる。すべて、その現場に判断させることは、合理的なわけですよね。
前に紹介した、現憲法の正当性を論じた歴史学の本にあったけど、明治憲法は、かなり、社会ダーウィニズム、を意識していたそうですね。こんなものが、「西洋の進んだ思想」なんですってさ。東アジア伝統の倫理を愚弄し捨ててまで、もってきた思想が、こんなものだそーです。
よく知られているように(グールド)、ダーウィンの進化論が、マルサス人口論を入口に、当時の経済学の「弱肉強食」を、アナロジー、としてイメージしたものだった。多分に、経済学的な比喩にあふれたものであった(もちろん、ダーウィンの最終的に言わんとしたことは、まったく違う)。最初から、人間社会を、動物の「生存競争」社会のアナロジーで語ると称して、ダーウィニズムをもってくることは、元ネタの、経済学に開き直る、ことにしかなっていない。
今だに、通俗的な社会ダーウィニズムこそ、「万物の法則」だと思っているようにしか思えない言説は、後を絶たない。
弱肉強食を「生き残る」ためなら、テロもあり、ですか。弱肉強食を「生き残る」ためなら、差別も素晴しいですか、侵略も素晴しいですか。奴隷も素晴しいですか。なんでもありですね。
「生きたい」。これはいい。
しかしね。そんなにしてまで、生きたとして(多くの恨みをかって、それがかなうかも微妙でしょうけどね)、その生き残った果てに、あんた、なにするの?
世界中の人、全員殺せば、あんたを殺す人は、どうも、この世には、いないってことになるみたいですね。しかし、あんた一人、この世界に残ったとして、どーしましょーかね。しかし、そんだけ、殺しばっかりに、身命を賭して、励んできて、急に殺す相手がいなくなったって言っても、そりゃー耐えられないってものでしょう。最後の一人(自分)もついでに、殺すことになりそうですね。