山岸俊男『日本の「安心」はなぜ消えたのか』

この本は、オビに、あの糸井重里さんが、「しっくりはまった」といった、推薦文をつけている。
社会心理学、という、なんだか、よくわからない肩書を自称する著者は、意欲的に、さまざまな問題に、答えを提示する。
まず最初に、著者は、日米間で行った、ある実験に注目する。
一本だけ目立つ色のがあり、他は同じじみな色の、5本のペンの中から一本をあげるので、選べ、という実験である。まず、日本人の多く、が、傾向として、じみな方を選んだ。このことから、東アジアでは、「横並び」意識が、比較的、強い傾向が指摘できるだろう。
ところが、である。店で、勝手に買物をさせると、日米で、特に、差がなく、さまざまな色のものを選んだのだそうだ。
これは、なにが起きているのか。著者は、この現象を、その地域の、「デフォルト戦略」、という概念で説明する。この地域の人たちは、慣習として、そうやりやすい、ということだ。
同じような問題であるが、著者はまた、次の実験にも注目する。

その一つは「たいていの人は信頼できると思いますか、それとも用心するに越したことはないと思いますか?」という質問なのですが、この答えを日米で比較してみると、アメリカ人の47%、つまりほぼ半数が「たいていの人は信頼できる」と答えたのに対して、日本人では同じ答えをした人は26%、つまり四人に一人しかいないという結果になっています。
こうした傾向は他の関連する二つの質問でも変わりません。
第二の質問「他人は、隙があればあなたを利用しようとしていると思いますか、それともそんなことはないと思いますか」に対して、「そんなことはない」と答えている回答者がアメリカ人では62%もいるのに対して、日本人は53%で、やはりアメリカ人のほうが他人への信頼感が強いことが分かります。
さらに「たいていの人は他人の役に立とうとしていると思いますか、それとも、自分のことだけに気を配っていると思いますか」という質問に対して、アメリカ人で「他人の役に立とうとしている」と答えた人は47%いたのに対して、日本人回答者では19%にすぎないという結果が出て、日米差がますます開いています。

普通、日本人は、協調的と考えられている。しかし、それは、他人を信頼しているがゆえではない、というわけだ。逆に、アメリカ人が、あれだけ、自由の国、個人主義の国でありながら、ここまで他人を信じると言う、ことに、びっくりする。一体、この逆転は、何から来ているのだろう。
著者の結論は、自明であろう。もっと、人を信じる「べき」だ、と言いたいのだ。それが、商人の倫理であるのだ、と。そしてこれは、役人(武士)の倫理とは、本質的に、対立するんだ、と。
著者は、この延長で、いじめ問題にも言及する。いじめが深刻化するかどうかは、いじめを止めに入ろうと思う割合が、どれだけか、が重要であると言う。ここから、次のような、処方箋を提示する。

こうやって考えてみると、やはり社会的ジレンマを解決するには、いかにして初期の段階で臨界質量以上に持っていけるかがポイントであるということになるわけである。
そこで大事になってくるのは「アメとムチ」を適切に使うということです。
つまり、協力行動を選ぼうかどうしようか迷っている人たちには「アメ」を与えることで背中を押し、また非協力行動をしようとしている人たちには「ムチ」を与えることで非協力行動に回らないように釘を刺す。こうやって、協力行動の臨界質量を確保しようというわけです。

著者は、熱血先生が、こういうところからも、必要である、と考える。
さて、ここまで読んで来て、みなさんは、どう思われただろうか。大変な見識だなーと感服つかまつった、って感じでしょうか。
まず、上記の結論が、例の宮台さんの14歳本と、結論が反対になっていることが興味深い。
宮台さんの主張は、こうだった。
みんなが仲良くなんて無理。仲良くなれない奴は必ずいる。みんな、うすうす気づいているはずだ。そういうホンネに、素直に生きようじゃないか。こうやって、宮台さんは、徹底的に差別や、ある意味、イジメを肯定する。しょうがないだろ。そいつとは、仲良くなろうったってできないんだから。どうやったって、仲良くなれない人間は必ずいる。性格の合わない奴は必ずいる。だれだってそうじゃないか。いないなんて言う奴は、嘘つきだ。ここから、宮台さんは、エリート主義を礼賛する。宮台さんにとって、仲良し友達とは、こういうエリート学校(麻布高)の、連中ということになる。
私は、一見、彼らが、違った主張を行っているように見えながら、実は、ある側面から見たとき、まったく、同じ認識の上で、考えていると解釈する。
そこにこそ、そもそも、なぜ、糸井さんが、この本を絶賛したかの、答えがあると考えている。

Aさんは親から譲り受けた莫大な財産を持っているのですが、そのせいもあって、極度に他人を信じない傾向を心の中に持っています。Aさんにとっては他人とはすべて自分の財産を狙って近づいてくる下心を持った人たちであり、少しも油断できない存在です。ですから、Aさんはどんな人に対しても心を開こうとはしません。
このような生き方をするAさんについて間違いなく予想できることが一つだけあるとすれば、Aさんにはあまりたくさんの友人はいないだろうな、ということです。
もちろん、若いうちは、Aさんと友だちになりたいと考えた人もいたでしょうし、また誰も他人を信じられないAさんを気の毒に思い、手を貸してあげようと考える人もいたかもしれません。
しかし、そうやっていくら仲良くしても、親切にしてあげても、Aさんが心の中で「何か下心があるのではないか」と疑っていることに気がつけば、普通の人ならば、Aさんと付き合うのがだんだんイヤになってくるものです。

この著者も、糸井も、宮台も、ようするに、友だちのいない人間は、人間的に、「異常者」だ、と言いたいのだ。
友達がものすごく「多い」らしい糸井は、自分を、その分「人間的にまとも」の分類に入れることをまったく躊躇しない(宮台も指摘の本で、母親の葬式が実に多くの友達に見とられた「幸せ」なこの世の別れだったことを強調する)。彼らには見事なまでに悪意はない。逆である。彼らは、友だちのいない人間を、本気で、不幸で「かわいそう」な人たちと憐れんでいるのだ。
私は上記のイジメの処方箋は、完全な、ゴミ、だと考えている。
なぜなら、まったく、この問題を正面から解決しようとしているように思えないからだ(えらそーな説教のオンパレードだが、このレベルのことくらい、「だれだって」直感的に気付いていないわけねーだろ)。
この著者、糸井、宮台。この三人の生きる、唯一のより所は、友だち、という「偶像崇拝」である。彼らにとって大事なことは、なにより、表面的な、友だちが、生涯にわたって、自分の回りから決して絶えないことであって、それが、最後のところで、彼らの、あらゆる倫理を決定している。
いじめ問題は、あくまで、いじめている人間と、いじめられている人間の、一対一の「対決」なのだ。いじめられる側にとって、なぜ、耐えられないか。それは、いつまでたっても、彼の「名誉」が回復されないと彼自身が思っているからだ。
人間は、誇り高き生き物である。
なぜ、ばかにされながら、それでも、へらへらと笑って生きなければならないのか。
憎め。
いじめられっ子よ。
「正当に」憎むこと。「正当に」自分は正しかったと回りに土下座させてでも、謝罪の意を表明させること。
絶対に、これらの侮辱を忘れてはならない。いつか。きっと、いつか。彼らに、自分たちの非を認めさせるんだ。その気持ちを大人になっても忘れるな。これを忘れたとき、お前はお前でなくなる。
お前は間違っていないのだ。お前は正しいのだ。
いじめられっ子よ。