季榮薫(イ・ヨンフン)『大韓民国の物語』

韓国での、韓国史の見直し、の動きは、今も、活発なようだ。
著者は、韓国内に、ずっと続いてきた、反日教育について、その性質の問題を指摘する。
もちろん、著者も、韓国の国民として、ディープなナショナリストであるのだろう。しかし、彼が問題だと思うことは、彼ら韓国人が、国定教科書として学んでいる、韓国史に、嘘、または、誇張、が多いということなのだ。
ここには微妙な問題がある。
著者の議論は、さまざまに動き、さまざまに共感し、揺れる。結局、何が言いたいのであろう。そこには、ある種の、朝鮮がたどってきた、歴史への、いらだち、がある。
著者は、朝鮮の歴史の、二つのアポリアの間で、何度も、ゆれ動く。
一つは、当然、日本の侵略、植民地化、である。しかし、この事実が著者に考えこませるのは、日本の「支配」についてだけでは「ない」。むしろ、それまでの、朝鮮王朝での、両班による、大衆、の「支配」について、なのだ。

奴婢といえば思い出されまが、1920年代に全羅南道の求礼土旨面に住んでいた両班の柳氏一族が残した日記には、正月一日に家の奴婢たちが訪れてきて、居間に座っている主人に向かって新年の挨拶を行う光景が描写されています。その日、主人は「たとえ世の中が変わったとはいえ、主人と奴婢の間の上下の義理は変わらない」と日記につけました。そのように、年が改まれば主人の家を訪ね、屋敷の中庭で犬のように腹這いになって挨拶を行わなければならなかったのが奴婢という身分でした。そして、その奴婢身分が農地改革によって消えてしまったのです。

日韓保護条約(乙己条約)が結ばれた1905年以後、村の平民たちが両班を軽んじて、互いが喧嘩するときにはぞんざいな言葉を使ってくる事態が生じたということです。両班たちとしては不快なことこの上ないこのような変化がなぜ起きたのでしょうか。それは日本という新しい支配者の世となったためです。日本は両班と平民といった身分差別とは関係のない中立的な権力でした。むしろ特定の人間が他人を身分で差別するのは日本としては許しがたいことでした。なぜなら同化政策に齟齬をきたすためです。1908年に同じ村において以下のようなことがありました。村の前を通る道路を整備するために労働力が動員されました。それまでは両班一族の子弟はそのような賦役を免除されていました。しかし日本人の官吏たちはもはやそのようなことを許しはしませんでした。両班一族の子弟たちもシャベルを持って道路に出て土を掘って運ばなければなりませんでした。このようなことが繰り返されるうちに、自然と両班と平民とが言葉を交わす平等な時代が訪れたのです。
また1920年代に入ると、衡平社という「白丁(ペクチョン)」の団体が、身分解放のための運動を繰り広げます。李朝時代、白丁とは牛や豚の屠畜を行い、その皮革で草履などを作る職業人でしたが、普通の人間としての待遇を受けることはできませんでした。人間とはみなされないので姓もなく、戸籍にも登録されませんでした。ところが日本は1909年に戸籍を作成する際に、白丁にも登録を強制しました。植民地期には白丁たちも姓を持ち、本貫を持つようになりました。ついには白丁の子弟が学校に通うようになります。衡平社運動当時のことです。すると両班たちが半旗を翻します。どうしてうちの子供を白丁の子と同じ教室で勉強させることができよう、と憤りをぶちまけました。とりわけ慶尚道の礼泉地方において両班のデモが激しかったことが知られています。

日本は朝鮮を、どう支配するかに悩む必要などなかった。いいお手本がずっとあった。両班である。日本の支配とは、いわば、日本の軍隊が、その両班の「上」の階級として登場し、今までの両班が行ってきたことを、やっているにすぎない。
吉田松蔭が、獄中にとらわれていたとき、ある、身分の低い女性と、親身になる。彼はこの頃、痛切に、日本の身分制への疑問をもつわけですね(なぜか、天皇という身分に対してまでは、疑問をもたなかったんですかね)。ともかくも、この(天皇の前での)平等、という理念が、明らかに、その後の、日本政治を、強力に、ひっぱっていくわけなんですね(それはもう、徹底してますよ。だから、あれだけの、軍隊が編成できたわけでしょう)。
そして、もう一つの著者にとってのアポリアが、戦後の朝鮮政治、である。なぜか。当然であるが、戦後は、その戦中における、さまざまな責任問題が、どこの国でも噴出する。しかし、季承晩政治、は、親日派の粛清から始まったわけではなかった。

人びとはしばしばこのように言います。「あの時は、親日派を少なくとも千人くらいは処刑しなければならなかった。季承晩大統領は親日派に負い目などない人なのに、なんのために親日派をかばったのかわからない」。

米軍政は治安を維持しつつ、共産勢力の抵抗を制圧する際、その方面の専門的な能力をもつ日本統治時代の警察を採用することに、特段の躊躇はありませんでした。その中にはキャリアが27年にも及び、数多くの独立運動家を逮捕して拷問にかけた廬徳述(ノ・トクスル)のような古参刑事もいました。

彼らは、明らかに、戦中日本の、さまざまな、遺産の上に、彼らの政治を行った。近代法システム、近代市場経済システム。
その戦後の出発点が、そういう意味で、親日的な、さまざまに、戦中日本の政治にコミットしていた「責任者」に依存することによって、始まっていることは、決して消えることのない、韓国の方たちの、苦い歴史認識、になっている、ということなんですね。
さて、著者の、こういった「告発」は、どこか、さまざまな迷いの中で、行われているように思われる。彼の、自国を、その自国史を中心に、物語ろうとする姿勢は、真摯であり、立派であろう。
彼も、この本の最初で言う。朝鮮において、日本の侵略の前までは、「民族」という概念はなかった。この言葉が、日本からの、輸入語、であるというとき、では、この言葉に、自分たちの将来の希望を見出そうという態度は、どうなのか。
以下では、もう少し、韓国史内の自己展開から離れて、考えてみよう。
歴史といえば、まさにヘーゲル哲学の、「主戦場」である。歴史を考えることは常に、ヘーゲル哲学と対決することであった。
戦中日本の植民地政策は、まさに、植民地、であった。それは、どういうことか。植民地の現地住民は、たんに、奴隷としてこき使えばいい、わけではない。もし、たんにそうすれば、国際社会の非難に合う。もちろん、奴隷として使わなかったとしても、非難されなければならないにきまっているのだが、「先進国」という強国は、どこも植民地占領をやっていた。突出して非人道的なことをしなければ、一連托生だったと主張したい、ということです。
日本はたんに、朝鮮を、奴隷化しなかった。じゃあ、最初は完全な侵略だったとして、その政治を、全般的には、善政と呼ぶべき、ということなのか。うまくやった、というべきだというのか。そんなはずはない。じゃあなにか。
べつに、難しいことではない。
どこの国でも行われている、「政治」を行った、ということだ。
国家の意志系統を、民主主義のような、下からの統治、と考えている人は、どうかしている。国民から選ばれた政治家は、ピエロ、である。政治は、昔から、一部特権階級と、その特権階級に、かしづくことを誓う、臣民によって構成される。
しかし、それは、そういった権力者、にとっての視点である。
これを、一般大衆の視点からみると、どのようになるか。
日本の、明治維新において現れた現象は、当時の日本が、完全な、地方分権、が実現されていた、ということである。もっと言えば、当時は、日本という国は、「なかった」。あったのは、各藩、という「くに」。
もっと言おう。当時、沖縄は、独立国家、であった。また、北海道、が、ある種、未開の、アイヌが暮らす地域であった。
ということは、どういうことか。台湾や朝鮮が、日本の植民地にされた流れは、沖縄や、北海道が、日本の「一部」にされた流れに対応する。
維新政府という、一部権力者の目の前にあったのは、そういった、彼らが「植民地」として「侵略」した、多くの、「くに」(日本国内の各藩、沖縄、北海道(アイヌ)、台湾、朝鮮)。彼らにとって、自分たち以外から考えれば、そういった、もろもろの「くに」に差をつける理由もなかったのじゃないだろうか。全部、植民地、なんですね。
さて、彼らは、そういった「くに」の民草を、どのように扱うことが、彼らの、「目的」にとって、ふさわしい、となるでしょうか。
一つだけはっきりしていることがあるとすれば、そういった「植民地」の民草が、自ら、自発的に、進んで、彼ら「維新政府」の権力に、「臣民」としての、奴隷の恭順、を自分から進んで、捧げてくれる、ご奉行してくれることだろう。
そうであれば、ほかのことは、どうでもいいわけです。各地域に、どういった習俗があろうと、そういったことは、上記のことさえ実現できれば、たいしたことではない。
だれもが、ご存知のように、維新政府にとって、上記の目的へのタクティクスは、天皇という、現人神(アラヒトガミ)信仰、であった。土俗の百姓に、難しい話をしても、無理なわけだが、どこの土地にも、土俗の信仰はある。「天皇はカミだからぬかづけ」とだけ、子供の頃に、義務教育で、すりこんでしまえば、こっちのものだ。
カミが、「カミカゼとなって、死んでくれ」と言っているのに、拒否するような「非国民」は、国家的村八分となる。これは、維新政府を構成する、一部エリートだけが、そう非難する、のではない。上記の義務教育を受けた、百姓からなにから、「あらゆる」民草が、そのマインドコントロールの必然的な帰結として、糾弾することになる。国民のすべてが糾弾するわけだから、「民主主義的な手続き」によって、その個人は、国家的村八分にされる、というわけだ。
私たちは、朝鮮における、日本の植民地支配の、その、しめつけの強さと、あの、ナチス・ドイツが行った、アウシュビッツなどでの、ユダヤ人虐殺、を比較して、「日本はけっこうまともじゃないか」と言いたくなる。
しかし、ここには、いろいろな意味で、差異があるように思う。ナチスにとって、ユダヤ人の撲滅は、自分たち、アーリア人の優越につながっていた。ひるがえって、日本はどうだろう。日本には、本当に、自国民優越はあったのだろうか。あったのは、天皇周辺、と維新政府の回りの人たちくらいじゃないだろうか。逆なんじゃないだろうか。日本は、日本国民を含め、全員、植民地の「臣民」つまり、等しく「奴隷」だった、というだけじゃないんですかね。あったのは「臣民」として、活躍の目立った一部の英雄を「論功行賞」で、厚遇する、というだけで。
東アジア的な、皇帝政治、とは、そういうものなのであろう。
ちょっと前に、江戸時代の檀家制度が、いかに革命的な変革となったかを書きました。おそらく、この明治から始まる、義務教育制度は、それに続くくらいの、革命的な事態であろう。考えられるだろうか。あれだけ、「お国」などと関係なく、百姓をやっていただけの、民草「全員」を、ひっぱってきて、一定時間、マインドコントロールの洗脳のために、一つ部屋に、押し込め続けたのだ。どうやったら、こんなことが実現できたんでしょうね。ものすごいことだったんでしょうね。
ちょっと前に、直江兼続について書きました。小説ですが、彼は、この国の戦乱の時代を終わらせるために、秀吉の臣下となることをよし、としました。しかし、それは、本当に、正しい選択なのでしょうか。それは、どういうことか。戦乱の時代の終わりとは、地方自治の放棄、と同じわけだ。各地域の人たちが、その土地の問題を、その地域の民主主義で解決していたものを、中央政府の意向に、すべてゆだねる、ということですからね。上杉謙信が、前時代の権力をもう一度ひっぱってきてまで、その「正当性」にこだわったのは、ここであろう。たとえ無理であっても、なぜ、今までの、(地方に分散していた)権力を否定して、譲渡しないといけないのだ。なぜ、今までの、パワーバランスの否定になるのか。
もし、戦乱の平定によって、天下統一を選ぶなら、地方自治は捨てなければならない。一方を選ぶということは、他方を捨てることになる。
同じことは、国家的義務教育にも言える。効率がいいし、平等だからと、国家による、一方的な教育を認めるなら、国家による、全国一律の、マインドコントロールを、忍従しなければならない、ということになるであろう。各地域、各村の、名士による、その地域の特徴をよく理解した、また、その人の個性をよく反映した、師匠と弟子による、「右」的関係は、あきらめざるをえない。
さて、私たちは、一体、どこで、間違ったのであろう。こんなはずではなかった。
ヘーゲルは、人間を、主人と奴隷、の関係から始め、国家の生成発展とともに、人間が「市民」になっていく、という、歴史的弁証法を主張した。ヘーゲルの、おそらく、通俗的ではあるが、ある意味、すっきりした整理となったのは、彼が、最初の人間の関係を「主人」と「奴隷」だと言ったことではないだろうか。これは、多くの人たちにとって、実に、すっと胸に落ちてくるような、説得感を与えたのではないだろうか。人間関係は、昔からずっと、主人と奴隷じゃないか。その認識は、彼らの日常をきれいに説明しているようにも思えた。
しかし、そうだろうか。例えば、中国において、親子の関係は、時には、国家の主従関係を、(ある意味)停止させるほどの強力なものがあった。戦争をしている最中も、その司令官が、親の危篤の報を受けて、田舎に帰る、などというのは、何度も出てくるし、国王ですら、それを、当然のように、見送る。
この関係のどこが、奴隷であろうか。
アジア的な、皇帝政治が始めて確立したと言えるのは、秦の始皇帝、であろう(つまり、韓非子になるのかな)。
天武天皇から始まった日本の天皇制も、始皇帝の政治をまねた。
このあたりは、水戸学派の、「新論」における、我ら、日本国民の使命。夷狄を侵略し、自国民に、統合していく、これを、世界の隅々まで、行いきったときに、真の、天皇帝国政治の実現、というわけだったが、まあ、対応している、というわけだ。もともと、こういう発想は、始皇帝の、中国統一の考え、ですよね。そして、どんどん、その領土を広げていく、という。こういったところも、よく、日本の天皇政治が、始皇帝政治を、マネていた、ということですね。
この前の、柄谷さんの、『世界共和国へ』では、ヨーロッパも、フランスから、東アジア的な、皇帝政治を「輸入」したのではないか、と推測していませんでしたっけね(マキャベリも、始皇帝なんでしょ)。
ヘーゲルの頃のプロイセン政治も、強力な、国王のみ主権(サブジェクト)あと一切、臣民=奴隷(オブジェクト)、ですからね。
ヘーゲルは、彼の所属する国立大学において、人間は、本質的に「民族的」な存在であることを主張し始める(アイリストテレスの共同体的存在というやつですか)。人間にとて、個人という単位には、なんの意味もない。「種」としての連続性でみなければならない。人間は個人がその「自我」によって、行動をしている間は「本質的」ではない。その「類」としての民族の一員としての役割に目覚め、その民族の使命に目覚め、自発的にその民族の使命に、身命を賭して、すべてを捧げ、奉行をするとき、真の「人間」になる。そのとき、個人は完全に「国家」と一心同体となり、真の「自由」となる。
おもしろいではないか。ヘーゲルにおいては、自由とは、一般的に言われている意味と、まったく、反対の意味、になっている。
人間は、たんなる、奴隷ではない。「自発的」な奴隷として、その民族の使命を、生得的に埋め込まれている、自らの使命に目覚め、運動を始めること。それが、ヘーゲルの言う「市民」なんですね。なんと分かりやすいのでしょう。彼は、嫌々、奴隷をやっている時代から、「嬉々として」奴隷を主体的に始めることを、弁証法、人間の進歩、「種」としての民族の「完成」、というわけですね。
ヘーゲルの議論は、強力である。われわれは、無防備に、「一般」をもってくると、完全に、ヘーゲル弁証法にやられる。完全にとりこまれ、「日本って大事だな」になる。
そもそも、一般的に、「大衆」に向けて行われる言説は、「危険」である。そういう言説はなんなのか、と考えてみると、よく分からないものだ。一体、誰に向かって、話しているのか。だれに聞いてほしいのか。特定の人の頭を思い浮ばないような、言説って、なんなのでしょう。
人間は、本来、個的な、関係なのだ。「葉隠」にしても、著者と、彼の直近の主人との関係は明確だ。しかしそれが、どこに居るのかも分からない、写真でしか見たことのない、自分に直接話しかけてもらったこともない、天皇へ、「主従関係」、主従の意をもて、といっても、どだい、無理なのだ。
民族など「ない」。
あるのは、その地方、地方の、そういった、個的な、師匠と弟子の、信頼関係だけであり、これこそ、私の言う「右」的関係、になる。
(まあ、そういうことはいいんですけど、)では、なんなんだろう。ヘーゲルの反措定は?
もちろん、マックス・シュティルナー、であろう。
そして、同じヘーゲル左派として、シュティルナー・ショックを、正面から、受け止めた、マルクス、なのであろう。
私たちは、そもそもの、その自由主義個人主義の、その理論的なベースを、あらためて、問わなければならない。本当に、自由は、個人主義は「大丈夫」なのか?私たちが、これが自由だと思っていることが、実は、いつのまにか「奴隷」と、とりかえられていないだろうか(なんどもとりあげていますが、宮台14歳本では、「カントの自由には強制が含まれている」といった議論を礼賛してますからね)。
私たちが、これが自由だ、と思って吹聴していたことが、いつのまにか、それが「奴隷」根性と、すりかえられている。よくよく、注意した方がいい。

大韓民国の物語

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