人生の意味

「コジマ」は、主人公の「僕」のように、たんに、いじめられるのではない。
彼女がどんなふうに考えたか。その、彼女の言葉に、耳を傾けてみようではないか。

「わたしたちは、君の言うとおり、........弱いのかもしれない。でも弱いからってそれは悪いことじゃないもの。弱いかもしれないけれど、でもこの弱さはとても意味のある弱さだもの。弱いかもしれないけれど、わたしたちはちゃんと知っているもの。なにが大切でなにがだめなことなのか。わたしたちの二の舞になるのがいやだってことだけで見て見ないふりをしたり、あいつらの起源とったり笑ったりしているクラスのみんなだって、自分の手だけは汚れていないって思いこんでるかもしれないけれど、彼女たちはなんにもわかってないのよ。彼女たちはわたしたちを痛めつけてるあいつらとまったくおなじなのよ。あのクラスのなかで、あいつらに本当の意味でかかわっていないのは、君とわたしだけなんだよ。君はさっき、......ううん、さっきじゃなくても、これまでだってずっと、蹴られても、なにをされてもそれを受け入れてる、そんな君を見てて、色々なことのかたいむすびめが解けたような、そんあ気がしたの。君のその方法だけが、いまの状況のなかでゆいいつの正しい、正しい方法だと思うの」

「君のしていることは正しいって言っているのよ」と言いながら、コジマは泣きだしていた。
「君は正しいって、わたし言ってるのよ」
「泣かないでよ」と僕はコジマの顔を見て言った。

「君の目のことを、気持ち悪いとかそういうふうに言ってるけど、そんなの嘘よ。こわくてこわくてしかたがないのよ。それは見ためがこわいとかそういうことじゃなくて、自分たちに理解できないものがあることがこわいのよ。あいつらは一人じゃなにもできないただのにせものの集まりだから、自分たちと違う種類のものがあるとそれがこわくて、それで叩きつぶそうとするのよ。追いだそうとするんだよ。本当はこわくてしかたがないくせに、ごまかしをつづけてるんだよ。自分たちが安心したいがためだけに、そういうことをするのよ。それでそういうことを長くやってると、麻痺してくるの。それでも最初に感じた恐怖心からは逃げられないで、それでおなじことをつづけるのよ。来る日も来る日も。君も、わたしも、あいつらからいくら苛められても先生や親に言うわけでもないし、なにをされても学校に来るし、だからあいつらはそれがますますこわいのよ。きっと学校で泣きわめくかもう止めてくださいとか言ってひれ伏しでもしたら、もしかするとあいつらは簡単に苛めるのを止めるかもしれない。でもわたしたちはただ従ってるだけじゃないの。ここにはちゃんと意志があるんだもの。----受け入れてるの。選んでいるっていってもいいのよ。だからなおさらそんなわたしたちを放って置くことができないのよ。不安なのよ。恐ろしくて恐ろしくてたまらないのよ」

ヘヴン

ヘヴン

おもしろい、ですね。
彼女の語る言葉、は、まさに、「黙示録」、である。
もし、彼女と、あのような、友達関係にならなかったら、「僕」は自殺していたであろう。彼女は、それを直観したから、「僕」と接触したのであって、それを「僕」は、心底、理解していたから、彼女に、一生かかっても返せないような、恩義を感じずにいられない。
しかし、彼女は、むしろ、「僕」のその、受動的な姿に、彼女自身の「意味」を見いだす。「僕」は、そのように、彼女に言われることによって、始めて「自分が何者なのか」に気付く。ということは、どういうことか。もし、彼女にそう言われなければ、「僕」は、そう気付くことがなかったなら、それは、真実、なのだろうか。むしろ、この真実を、彼女が、「創造」したと言うべきなのではないか。
しかし、その創造は、たんなる、創造ではない。二人を襲う毎日の、いじめ。彼女は、その自分の苦しみ、自分の涙、そういった自明な自分の自然。その「抵抗」に反してまで、しぼりだした、結論なのだ。彼女は、自分のその自明な感覚に抗して、乗り越えて、あえて、そう言うことを、創造した。
哲学者は言う。「この世に、意味、などない」。
論理的に、善悪がないように、論理的に、神がいないように、論理的に、倫理が存在しないように、論理的に、いじめっ子がいじめられっ子をいじめるように、論理的に、人が人を殺すように、論理的に、...。
なぜなら、神は「死んだ」のだから。
しかし、彼女は、もう神のいない、この時代に、神を「要求する」。
彼女は、間違っているのだろうか。
しかし、もし、彼女が間違っているとしたら、「それがどうした」というのだろう。
しかし、もし、彼女が敗者だとしたなら、「それがどうした」というのだろう。
おもしろいことに気付く。
「コジマ」は、最後の半リンチの場面、二ノ宮たち、いじめっこ連中と、会話、言葉のやりとり、が「ない」。会話をしていない。成立していないのだ。
必要以上に、人工的なまでの、饒舌な、二ノ宮、の命令、「言葉」。必要以上にその意図をくみ、「僕」の、自分はどうなってもいいから、彼女だけが逃してくれ、と土下座し、懇願する、「言葉」。
しかし。
我々は、もう少し、謙虚になるべきではいだろうか。
おい、哲学者、よ。
なんで、おめーの言葉が、相手に「通じる」と思ってんだよ。なんで、相手に、おめーの言葉が「届く」と思ってんだよ。
「他者」。
意味がない以前に、言葉が「存在しない」ことに気付かない、愚者。
私たちは、彼女、「コジマ」が、そこに意味がある、と言うとき、むしろ、彼女が、意味を、言葉を「創造」していることを、理解する。「僕」は、その彼女の「創造物」を、しるし、めじるし、として、前に進む。
くどくどと書いてきたが、当然のことなのだ。なぜなら、最初からこれは、実践の問題だったのだから。