プルードン『プルードン・セレクション』

一体、現代を特徴付けるものとは、なんなのであろう。
ハイデガーは、科学文明を疑問視し、その、技術信仰への、不信を語った。近代科学技術の進歩、コンピュータの進歩は、あらゆる「インフラ」、の、「自動化」を意味する。あらゆる、この人類の、人類生活を維持するための、この社会を構成するために必要な要素は、コンピュータによって、つまり、人間の「労働」を介すことなく、勝手に維持されていくようになる。英雄時代において、人間の「決断」によって、形成されてきた、この社会は、だれもなにも「決める」ことなく、勝手に「決められ」、コンピュータにより、判断され、作られる。
人間「不要」の時代。
もはや、人間がいなくても、いや、人間は、「なにもしなくても」、この社会は、「存在し続ける」、そんな時代に突入した。人間がなにもしなくても、コンピュータのルーティーンは、その「摩耗」「事故的破損」を、ひろいあげ、「補修」、つまり、「公共土木工事」を、「人間が気付く前に」勝手に、やり終えている。
そんな、メトロポリタン、な都市国家が、動きだしていることに、なにげない、日常の毎日の、ある瞬間、ふとしたきっかけで、気付きながら、そのことがなにか「重大な」意味のこととは思えず、まるで、「気のせい」くらいの感覚で、普通にやりすごす。
人類は、ある線を、越えた。
もう、私たちは、昔の「英雄時代」に戻れない。
そうではあるのだが、これは、ある意味において、福音、とも考えられている。それは、コンピュータ、インターネット、が行ったことは、大衆を、「全世界」につなげることだったからだ。
第一次世界大戦第二次世界大戦は、第二次産業、が中心の時代であった、鉄鋼業など、ほとんど国家に等しいような、大資本をもたなければ、生産、できないような、巨大製造業。こういった、大企業を中心として、世界は、組織された。
もちろん、現代において、そういった、巨大インフラが、なくなったわけではない。当然のように、寡占的な存在として、今も存在する。
しかし、戦後のこの、市場の発達は、むしろ、現代こそ、マルクスの時代、第二次産業がこれほど発達する以前の時代との、相似性を、増してきているのかもしれない、とは思わないだろうか。
すると、その頃の時代の人間たちが、どんなことを考えていたのか、が重要になってくる。
その中でも、一人、特筆しなければならない人物は、当然、マルクス第一インターナショナルにおいて、議論を戦わせた、プルードン、であろう(柄谷さんの、『トランスクリティーク』は、まさにこの、プルードン論、そのものであった)。
プルードンマルクスが考えていた、当時の、経済は、まだ、これほどまでに、第二次産業が発展する以前、の、家内制手工業が、中心の時代であった。彼らの考えていることを、そういう意味で、時代遅れ、というのは、勝手だが、時代は、ぐるっと回って、逆に、今は、より、彼らの時代に近づいたと言えないだろうか。
彼らの言葉に、「今」耳を傾けることは、十分、意味がないだろうか。
プルードンと言えば、有名な、所有 = 盗み、のテーゼであるが、これは、奴隷 = 殺人、とセットになって、提示されていることを忘れてはいけない。プルードンが、所有への疑問を呈す、その意味は、この、世界の空気、水、海、が、だれのものでもない、だれもが、享受できる、「インフラ」、であることと、近い意味で、主張していると言っていい。
独占禁止法、というものがあるように、世界を一人の人が支配することは「禁止されている」。それは、たんに、道徳的に、独占はいけない、というよりも、もし、そのような、寡占が実現すれば、さまざまに、社会の進歩を妨げるから、都合が悪い、という意味である。そう考えてくると、彼が、重要視する、「相互的関係」、契約、の重要さが、より実感される。人間の関係を、この、契約、によって整理することは、重要である。そうすることで、あくまでも、そこに存在する力学が、「対関係」となるから、だ。

ここで交換という原初的事実によって提起され、ローマ法によって定義された交換的正義の観念が、共和主義的批判によって反論の余地なく退けられた分配的正義の観念にとってかわる。法律用語である契約や交換的正義という言葉を、実業の用語に翻訳すれば、「商業」、すなわち、最も崇高な意味においては、人間と人間が自分たちを本質的に生産者であると宣言して、互いに相手に対する「統治」の要求をすべて放棄するための行為のことである。
交換的正義、契約の支配、いいかえれば、経済的または産業的体制、これらが、その到来によって、分配的正義や法の支配、もっと具体的な言葉でいえば、封建的、政府万能的または軍事的体制、という旧来の組織を廃棄するはずの理念をあらわすさまざまな同義語である。人間の未来はこの交替のうちにある。
プルードン『十九世紀における革命の一般理念』)

このイメージは、インターネット、に近い。インターネットは、いわば、アメーバ、のように、各通信インフラ、ケーブルや、無線、ルータ、ハブ、がつながれ、そして、その、それぞれは、独立した、単位を構成している。そして、より重要なことは、そのそれぞれが、まったく「独立」に存在していることだ。他のネットとの関係は、完全に、「疎結合」である。間を繋ぐのは、ただの「プロトコル」。まさに、契約的な関係と言っていい。
しかし、よく考えてみれは、これは、コンピュータの進化の歴史、そのもの、と言っていい。もっとも、「成功」した、OS である、UNIX は、その名前のとおり、各、アプリケーションから、インフラから、完全に、「独立」した、ユニットとして、構成される。すみからすみまで、「相手がなにしてるか」に、まったく「無関心」に独立して、機能することを、許す仕組みで、おおいつくされている。そして、少しでも、色気をだして、「統一的」な、全体を目指した、OS は、ことごとく、淘汰され、消えてきた(もちろん、人間の、悩、神経系、各細胞間のホメオスタシス、が、こういった、UNIX 的関係であることは、今さら、言うまでもない)。
人間の関係を、民族や共同体といった、組織の有機体をベースに考えるか、それとも、個人をベースに考えるかで、大きくは、二つに分かれるようである。もちろん、その個人たちは、まったく、「孤立」しているわけではない。まさに、「契約」を介して、ある種の、集団的傾向を示すことは当然あるし、それこそ、分業の分業たる所以であるが、後者においては、あくまで、個人の集合体という色彩が強く、必ずしも、大きな、大企業的な、関係を志向しない、そういうところが、わかりにくいが、違いと言えるであろう。
国家にとっては、自国民を完全にコントロールできる、「全体的な」パワーは、魅力的であろうが、そういった権力は、案外、成功しない。そんな中、民法は、そういった、人々の契約関係を規定するインフラと言っていい。人々が、各個人で、他の各個人と、言わば、「勝手に」契約を結ぶ。その、この国のあらゆるところで、行われている、この契約は、もはや、国家が、コントロールしているものではない。コントロールしていないのに、なぜ、社会は、安定しているのだろう。民法によって、国家の、個人への関係が、「契約」的にならざるをえない、足枷、をはめられ、より、さらに、個人は、自分の、この社会への働きかけの、可能性の可塑性に気付く。まさに、不思議なことに(アダム・スミスや、ハイエクや強調したように)、なぜか、そこには、「自生的」な秩序が、生まれているのだ。
余談だが、ニコラス・ルーマンの、社会エントロピー理論は、その、最後の「あがき」と言えるかもしれない。人々の契約による、この社会の複雑性の増加を、コントロールできないことに「耐えられない」パラノイアックな人々は、その複雑性を、なんとか減らせないか、となる。しかし、そのアプローチは、実に「官僚的」だ(実際、ルーマンは、ドイツの官僚であった)。各個人の自由は、官僚の「効率」の前で、徹底的に抑圧されることが「当然」となる。まさに官僚だけが、アテネの市民となり、庶民は、アテネの奴隷となるわけだが、この、アンチテーゼは、おもしろい。
さて、「当然」その、「個体」化は、最も、ベースとなる、人々の交換のインフラ、「貨幣」に対しても、起きる。

からして、労働する人間、すなわち自然と交換関係にある人間は、未開人のように自然を荒廃させ、自然を略奪する者よりも自由である。自分たちの生産物を交換する二人の労働する人間は、その他の協同関係がなくても、かれらが互いに交換しあわかかった場合よりも自由である。もしこの二人が、物々交換のかわりに、他の多数の生産者たちと合意の上で、貨幣のような共通の流通の徴表を採用するなら、さらに一層自由になるであろう。私はかれらが結合すると言っているのではなくて、かれらがサービスの交換を行うと言っているのだが、それに応じて、それだけかれらの自由は増大する。これはまた、私が単純な自由と複合的な自由と読んだものである。
ところで、貨幣ぬきの交換が隷属の原因と手段になるのと同様に、もしわれわれが金属貨幣に似通った新しい手段によって隷属化の傾向を正し、したがって自由を一層高度の段階に高めることができなければ、貨幣は諸個人間に一層大きな自由と活動を生みだしたあとで、まもなくかれらを金融的、同業組合的な封建制に、以前の惨めさよりも百倍も耐えがたい組織的な隷属に導くであろう。
これこそ、人民銀行が解決しようと考えている問題である。
通貨は、最も理想的で、最も交換しやすく、最も正確な価値であり、あらゆる取引きに役立ち、商取引が交換によって行われていた時期には経済的自由の道具であったが、分業のおかげで産業と商業が高い発展段階に到達すれば搾取と寄生の道具に変わるということ、ついで政治的諸権力の分離に似た、一種の経済的諸権力の分離によって、生産者が起業家 - 資本家 - 所有者と労働者または賃金生活者という二つの敵対する階級に分化するにいたるということは、経験に基づく真理である。
したがって貨幣が従属下においているものに自由を与えること、一言でいえば、貨幣そろものが土地から農奴を解放したように、資本から奴隷を解放することが問題なのである。
プルードン『一革命家の告白』)

最近は、地域貨幣、というアイデアは、ずいぶん、普及してきた。しかし、これがもともと、倫理的な意味から、出発していたことは、あまり、語られない。
だれもが、気付かないうちに、倫理的な関係に、(まさに、アダム・スミスの言う)「暗闇」、へ跳躍していく。

プルードン・セレクション (平凡社ライブラリー)

プルードン・セレクション (平凡社ライブラリー)