川上未映子『ヘブン』

私は、彼女の、いい読者ではないが、今回は、読んでみた(また、いつものように、けっこう、ネタバレ、でしたね。気をつけてください)。
中学生の、斜視の「僕」は、子供の頃は、好意的に、自分に接してくれた時期もあった、二ノ宮を中心としたグループ、つまり、クラスのほとんどから、いじめを受け続ける。しかし、「僕」は、それをただ、我慢する。我慢して、その、命令を実行する。我慢しながら、なんとか、逃げる隙がないかばかり考え、常にその、聞こえてくる、二ノ宮の声におびえる、毎日。しかし、「僕」は、学校に行く。「僕」は、なんとしても、「考えない」。なんとかしてでも、なにも考えない、考えないで、毎日学校に行き、いじめを受ける、そういう毎日を過していた。
しかし、その「僕」に、ある日から、毎日、「手紙」が、机の中に、入っていることに気付く。あるとき、待合わせて会うとそれは、同じクラスの、自分と同じように、いじめを受けている、女生徒「コジマ」であった。二人は、文通を始めることで、いじめられている同志、深く知りあっていくことになる。
いじめ、とは、昔から、何度も、さまざまなメディアで、とりあげられながら(そういえば、

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なんていう、ドラマ、もありましたね)、そして、これだけの「深刻な」事態、事件を、日々刻々と、この平和な日本で、起こし続け、今この真夜中の「この」瞬間、日本中の多くの子供たちが、どうやったら自殺ができるか、それだけを考えて、ベットの中で、丸くなって泣いている姿を横目に、「だれ一人」として、これが一体なんなのか、なにが起きているのかを、説明できた人がいない、という実に、「特殊な」現象である。
しかし、それ以上に、奇妙なことは、そういう事態が存在することを「知って」いながら、まるで、痴呆、のように、まるで、すべてを「忘れて」しまったかのように、お笑い番組を見て、げらげら笑って過している、「全ての」日本人。へぇっ、そんなに、おかしいかい。なんかいいことでもあったのかい。
主人公の「僕」は、自分の斜視が、いじめを受ける原因だと思っていた。そして、子供の頃は、優しくして声をかけてくれることもあった仲だった、二ノ宮に、とまどいながら、おびえることしかできない。なにも考えられず、日々の起きていることを、ただ、通過することしかできない。そんな「僕」を、さかんに、かまってくる「コジマ」。彼女は、こういう、私たちだからこそ、理解しあえる、お互いにとって「唯一」の
友達
なんだ、と言う。
しかし、いじめは、日に日に、エスカレートする。そんな、ある日、二ノ宮を中心に、「僕」をサッカーボールにしたてて、サッカーをやり、鼻を痛め、激痛とともに、大量の出血。「僕」はそのときから、自分から「コジマ」と距離を置き、「コジマ」の手紙に返事をしなくなる。毎夜、真剣に自殺を考える。

僕は真夜中に、よく泣くようになっていた。それは意識的に泣いているというよりはただ汗をかくみたいにしてひとりでに両目から涙がぼろぼろとこぼれてくるのだった。こぼれてくる涙はいつもとめどもなかった。悲しいのかと自分に問いかけてみても、悲しさというのがどういった心地のするものなのか、僕にはよくわからなくなっていた。涙がでるから悲しいというのであれば、たしかに僕は悲しかったけれど、そのどちらがさきにあるかはもうわからなかった。ただあてのない涙がぼろぼろとこぼれ、胸が動き、それにあわせてまた涙が顔を垂れて、そうして夜が終わっていくのを僕はベッドのなかで動けないまま何度も何度も見つめているのだった。

そんな彼が、ある日、その鼻の治療で通っていた、病院で、そのイジメグループの、一人の、「百瀬」を見かける。彼は、その時、無意識に、彼に声を、かけ、今までの、抑えていた、自分の感情を、「吐き出す」のだった。
この作品の、ターニングポイントは、おそらく、ここであろう。この「百瀬」が語る反論は、完全に、「永井均」の、ニーチェ論、そのもの、である。彼女は、彼と対談をしていたが(中身は読んでいない)、彼は、彼女が日大の学生のとき、教鞭をとっていたようだ。
永井均、の、ニーチェ論、では、ニーチェが、キリスト教道徳を、徹底的に批判していくその姿に、完全に、シンクロ、していく。しかし、それは、むしろ、「善悪の彼岸」において、「悪」が「悪」でない世界、つまり、あるのは、「力」、パワーだけの世界の展望において、そう整理されるわけだ。
この姿には、一つ前で紹介した、保田與重郎、の戦争へのシンクロネスとの関係を考えてみたくなる。暴力は、たんに、暴力。この世界にあるのは、パワーと存在、進化論によって、生き残ってきたものが「生き残ってきた」という、事実、があるだけ。日本陸軍は、徹底して、中国本土の、国民を「いじめる」が、いじめる方は、なにも考えない、なにも感じない。ただ、クラスの中で、だれでもいいだれかを、いじめている、そういう「時間」があるだけ。多くの中国本土の、現地の人が、帝国日本軍に、切り殺されるのも、クラスで、よってたかって、スケープゴートを、徹底的にいためつけるのも、ただあるのは、その「存在論」、それだけだというのだ。
しかし、主人公の「僕」は、あきらかに、その対決から、変わる。そして、むしろ、その変化に、ひたすら戸惑う「コジマ」の、無理解が、「僕」を苦しめる。なぜなら、この物語は、主人公の「僕」の、ビルドゥングスロマンス、だから、である(だから、この作品は、駄作、でしかありえない)。主人公が、社会復帰していくのは、当然なのだ。
よく読んでいくと、主人公「僕」は、最初から、最後まで、受動的、である。その「僕」が、なぜ、変わったのか。それは、「コジマ」、という、明らかに、変な、存在、どうしても、いつまでたっても、理解できない、彼女に、感化されたからと言える。たとえば、おかしいのである。自分が、ひたすら、いじめ、を受け、苦しいのは分かる。何も考えられない、のはわかる。しかし、だからといって、なぜ、「僕」は「コジマ」が、そのお前の陰で、ずっと、いじめられている姿を「シカト」してきたのだ。
そして、その、場面は、最後に「コジマ」を助けよう、とする彼の姿として、描かれる。
はっきりしていることは、この著者が、無類の、共感をこめて描いているのが、「コジマ」だということだ。彼女は、最初から、最後まで、「積極的」である。すべて、自分の意志で生きる彼女。
「コジマ」。
空に、高らかに、いつまでも、彼女の「哄笑」が、響き続ける。

ヘヴン

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