管正広『マイクロファイナンス』

私は、自称経済学者の、人間性を疑っている。彼らは、人格的に問題があると思っている。例えば、セーフティネットは必要と言う。足りなければ、セーフティネットを増やすことは、やぶさかでない、と言う。しかし、彼らは不思議なことに、「具体的に」この国に存在している、多くの貧困にあえいでいる人々が「どうなるべき」かを語らない。つまり、そのうちの、だれかが死のうがどうしようが、言うことは、いつも、上記の抽象論であり、具体的にその人が、どうなるべきだったか、ではない、ということだ(おそらく、彼らは、こう言ってみたところで、なにを言っているか理解することはないだろう。しまいに、逆ギレ説教を始めるのが目に見えるもんだ)。
よくよく考えてみよう。なにか変だと思わないだろうか。なぜ「その人」がどうあるべきか、ではなく、抽象的「からくり」をいつまでも、いじくりまわしているのだ。ようするに、経済理論とは、経済学者の「おもちゃ」なのだ。我々にはどうも関係ない高貴な出自の方々の雅な「おならいごと」のようだ。
日本は、アメリカにつぐ、「貧困国」なのだそうである。

経済協力開発機構OECD)は、貧困を「全家計所得の平均(中位数)の半分以下の所得しか得ていない状態」と定義した上で、各国の相対的貧困率を調査した。その結果は、図 1-1 のとおりであるが、日本は平等な社会だという大方の思い込みを覆す、驚くべきものである。
これによれば、日本の相対的貧困率OECD加盟国中ワースト四であった(二〇〇五年)。OECD諸国全体の平均一〇・六%に対して、日本は一四・九%である。日本の人口の約七人に一人が貧困に分類されることになる。先進国の中で、日本より相対的貧困率が高いのは、メキシコ一八・四%、トルコ一七・五%、アメリカ一七・一%の三か国しかなく、G7(先進七か国)の中ではアメリカに次いで高い。

貧困とは、日本の国家予算がいくらか、に関係ない。「相対的」評価なのである。たとえば、ある人が病気にかかり、仕事ができなくなったとする。そうなったとき、もし食料が高ければ、家賃が高ければ、どうやって生活していけばいいのだろう。もちろん、ちょっと知恵のある奴は、国にたかればいい、と知恵をつける。しかし、そんな解決のどこが、解決だ(だったら、国民全員、仕事を放棄して、国に面倒を見させればいい)。
以前、グラミン銀行について、紹介した。これは、マイクロファイナンス、の一種と言える。
マイクロファイナンスの、最も大きな特徴は、徹底した、相互理解、と、お互いにとってのその「信頼」の増大、を目的にしている(としか思えない)ことだ。なぜ、こんな面倒な人たちにお金を貸すのか。そうすることで、「この会社は、こういった人たちともビジネスができる、人を見る目がある、会社である」、と思われるということなのである。また、借りた方も、徹底した、貸してくれた相手から、自分を理解されようとして、状況を把握され、いろいろコントロールもしてもらうのであろう、いずれにしろ、「全部返せた」とき、当然、ウィンウィンの関係を目指して、目標が達成されたのだから、それは、大きな、「自信」になるのである。
多くの場合は、取引される額は小さく、貸す側には、それほどおいしいわけではない顧客であろうが、もし、この会社がこういったことを成功させている、という噂が広まったとき、世間はどう思うであろうか。こういう会社こそ、「地域になくてはない」会社となるだろう。逆に、他人をだまし、強引な取り立てを繰り返す、鬼畜金融機関は、いずれ、「社会のガン」として、淘汰されるであろう。
お金を貸してもらえ、小さくても、それなりの利益を確保し、生活の足がかりができたとき、その人は、「貧困からの脱却」の入口に立っている、ことになる。大きな、この社会で生きていくための、自信をもつことになるであろう。いろいろ助けてもらいながら、ビジネスを行なうことによって、ノウハウも身に付いていくであろう。明らかに、どんな世界においても、最初は、だれでもアマチュアなのだから、さまざまなサポートが必要なのは、当然なのだ。そして、そういう能力、社会経験を身に付けた世代がぶ厚くなることで、社会そのものの「潜在能力「が底上げされていることに気づく。
たとえば、病気の人は、どうやって生きていったらいいの? と思うだろう(もちろん、そういう福祉の必要な人は常に存在して、社会が一丸となって、そういう人の福祉を行っていく必要があるだろう。しかし、本質的に人間は、「労働する」存在である。なぜならそれが、「自由に至る」第一歩と考えられてきたからだ)。しかし、マイクロファイナンスであれば、そういう人にも、お金を貸してくれる。なぜなら、その人が「将来」どういう見返りを自分たちにしてくれるのか、が大事だからである。体の具合の悪そうな人でも、先行投資で貸してしまうんです。ですから、十分なその人の気持ち、から、体の調子から、全部相手を「よく知り続ける」ことが、どこまでも重要なんですね。その人は「きっと返してくれる」と思えるから、貸すのです。ということは、貸す側は、本当に相手のことが分かったんです。どんなにつらくても、相手の信頼を裏切って、人生の最後を、よごすようなことだけはしたくないと、決意している人だと。

「レモン問題」とは、財・サービスや取引の内容に関する情報が買い手によく知られていないため、不良品や欠陥商品だけが市場で取引され、結局、市場が成立しなくなる問題のことである。ここで、「レモン」とは不良品、欠陥品のことであるが、単に不良品であるだけでなく中身が腐っていても外からは見えないものという意味である。

はっきり言いましょう。今の、世界中の多くの会社。まったく、社会福祉に関心をもとうとしない会社。全部、ゴミ、である。早晩、全世界の人々の不信を買い、だれも相手にしなくなり、淘汰されていくであろう。勇気ある、具体的な、社会福祉に向けた行動を、社会の公僕として、当然のように行う企業だけが、その存在意味を理解され、国民に愛される会社として、生き残る。
国民は、ばか、だから、いくらでも、だませますか。そういえば、竹中平蔵、の郵政民営化、のときのレポートを思い出しますよね。竹中平蔵、レポートがなんと言ったか。
「しっかし、毎日毎日、あきもせず、昼のワイドショーばかり見てる、女。あいつら、どう考えても、知能指数低いでしょ?(彼ら評) 女ってのは、ほんっとどうしようもない、ぐずでのろまでなんの仕事もできない、せいぜい、家事手伝いがやれてやっとの、メス白ブタ、だな。いい年にもなって、まともに、仕事もできない、なんの役にも立たない(ちょっと、コマコのマコ、っぽく表現してみました。さすがに、ここまでは言ってねーけど、知能指数が低い連中、とは書いてあるレポート、らしいですね)。
あと、子供、老人。こういった、(彼ら自称)「おつむの弱い連中」こそ、社会のマジョリティでありながら、「だましやすい」んだ。洗脳しやすいだ。徹底して、こういう連中が見ている、ワイドショーなどで、郵政民営化礼賛のマインドコントロールをやれば、かなりの有権者は、制圧できる」。
学校バカの経済バカよ。いいから、やってみろよ。女子供老人をだまくらかしてみろよ。
その結果が、今回の選挙、だという事実も、直視できないくらい重症のようだ。
お前たちの、性根の底まで、腐りきった、レモンの中身を、これ以上ないところまで、白日のもとに、曝けだしてやる。
自民党長期独裁政権で、世間知らずの二世議員たちを、口先で、言いくるめ続けた、経済論壇ブリッコたち。もう、いまさら、お前たちが、今後、政治の舞台で、まともに相手にされることは「二度とない」。

マイクロファイナンス―貧困と闘う「驚異の金融」 (中公新書)

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