白洲正子「祖父の面影」

最近は、白洲次郎のドラマが、NHK で放送された関係もあって、本屋でも、ちょっとした、特集コーナーがあったりする。彼の奥さんだった人が、白洲正子、ですが、実は、ずっと、この二人は、さまざまな伝説とセットになって、ブームが続いてきた。
特に、白洲正子は、晩年は多くの著作も残し、長命でもいらしたこともあって、ずっとブームだと言ってもいい。
白洲正子さんの、雑誌ユリイカでの、彼女が亡くなった直後の、特集を読んでみた。内容としては、多くの人の彼女の追悼文というより、彼女のエッセイ集という感じだ。
彼女は、日本の学校がなじめず、あっけなく、アメリカの学校に行く。しかし、よく考えてほしい。これは、日米開戦前、だということです。硫黄島の栗林中将が有名であるが、多くの日本人が、日米開戦前まで、アメリカに留学しているわけです。
全然関係ないが、いじめというのは、日本のポストモダンにおいては、早くから、処方箋が出されていた。ようするに、浅田彰的に言うと、「逃げればいい」、それだけなんです。しかし、多くの言論人は、敵に背中を見せるとは何事だレベルで抵抗していた。しかし、逃走とは、闘争、なんですね。坂口安吾の青春論にもあるが、宮本武蔵は、何十人もの敵に囲まれたとき、どうやって、相手に「勝った」か。徹底的に逃げて、相手を分散させた。もし、どうしても、刃を交えざるをえないときは、徹底して、奇襲、つまり、ゲリラ戦、なんですね。というより、基本的に戦わないんです。戦った時点で、自分が傷を負うリスクを避けられないのですから、平和的交渉にまさるものはないんです。我々の武士道の「ふるさと」がもともとそうなんです。
では、なぜ、日本の義務教育において、そういう「逃走 = 闘争」戦略がとられないのか。いつもの、官僚「無謬」信仰そのものでしょう。学校経営者である、校長を中心とした、官僚たちは、なんとしても、学校側に責任があるかのような事態を認めたくない。いや、日本の官僚の歴史をみればそれは「認めることはありえない」んですね(天皇に不完全な部分などないように)。そうなると、どんなに、クラスの中で、陰湿ないじめが行われていようと、教師たち自身がそのいじめに加担しているケースであろうと、一切のアクションを起こさない。なぜなら、それを起こした時点で、いじめの存在を認めたことになるから、ですね。ちょっとした、対象となっている生徒の、この地域外への、一時非難的な転校の措置も、その何人かの、危険なグループを構成している連中を、別の学校に引き裂き、徒党を組ませないとか、そういった措置もやれない。ひたすら、えんえんと、無法地帯が続くことになる。
そうなったら、各個人はどーしましょーかね。アメリカの学校に行くしかないでしょうね。だって、日本の学校は「どこも同じ」なんですから。
そうやって考えると、アメリカ帰りの日本人は、あきらかに、この国の慣習をひたすら守り続けて、日本の学校に居続けてきて、成人を迎えた日本人とは、どこか、突き抜け方が違う。
話がそれましたが、彼女は、日本に帰ってきてから、「能」にのめりこんでいく(多くの帰国子女がそうであるように、アメリカ体験は人を、日本回帰させる。アメリカを通して、日本を「発見」するのだろう)。小さい頃、習いごとで少しやっていたようだが、そもそも、能は、女人禁制の世界である。しかし、もちまえの、負けず嫌いで、続ける。年表を見ると、50歳で免許皆伝を受けると同時に、それを断り、完全に、能、そのものをやめる、とある。能は、男がやるようにできているもの、であることをさんざん理解した、ということとある。
彼女の本に、

両性具有の美 (新潮文庫)

両性具有の美 (新潮文庫)

というのがある。彼女は、能、の女を男が演じるその姿、また、自分がそういった、男のものである、能、を演じることを通じて、「両性具有」というアイデアに沈潜していく。こういった身体芸術は、どうしても、性的な感覚と切れないものがある。男女がセックスをすることを通して、人類は存続してきた。しかし、その「からくり」は実に、単純なものである。多くの子種を残したいなら、それなりの手段を尽せば、確率的に成功する。しかし、そんなにまちかまえなくとも、どうも、「我々哺乳類」には、その「からくり」が生まれたときから、ビルトインされているようだ(年頃の男女なら、ほっといても、勝手にベッドインしてるって話)。
しかし、そこから、多くの余剰、過剰、な意味が噴出してくる。たんなる、体のぶつかり合い、に始まって、身体を衣服などで隠すこと。武士の間のホモセクシャリティから、なにから、まるでそういった、肉のからまり、そのものが、大きな意味として、存在するかのように、意味付けられていく。折口信夫ホモセクシャルな話は、三島由紀夫に理解されて。また、異常に稚児を愛でる、日本の古典には、どこか、日本の、ロリコン文化の根深さを感じずにもいられない。
彼女は、もともとそういう家柄の人ですから、各界の人との交流は、はなやかである。特に、文学畑の人との交流が、多くのエッセイの出版となっていく。文壇にしても、女性で能を極めた人というのは、あまりにも、強烈だったのだろう。もう、存在自体がカリスマなのだ。
さて、さきほどの雑誌の特集ですが、なんといっても、印象的なのは、彼女の自伝の本の表紙にもなっていた、軍服姿のおじいちゃんの膝の上に乗せられた、彼女の小学生くらいの頃の、写真、である(内表紙になっていて、文庫より、大きくてみやすいですね)。まっすぐに、写真機をにらみつけているその表情は、彼女の、子供の頃からの、男の子まさりの、気の強さを感じさせる(彼女の若い頃の写真を見ると、気の強さを感じさせる、なんとも美しい、力強い目をしていて、美しい人だったことがわかる)。
しかし、それ以上に興味深いのは、その彼女を膝の上に乗せている人物なのである。

「幕府瓦解史」という本を読んでいたら、寺田屋騒動のくだりに、橋口伝蔵の名を見出し、ふと、祖父のことが思い出された。
伝蔵は、私の祖父の実兄で、薩摩藩の急進派に属し、寺田屋において、同じ薩摩の討手に殺された。祖父は、樺山資紀といい、若い頃、橋口家から養子に来たが、非常にこの兄のことを尊敬していた。血を血で洗う争闘がつづいた年月、彼がどこで何をしていたか知らないけれど、何れは徴禄な士のこととて、過激な分子のはしくれであったろう。私が子供の頃亡くなったから、委しい話は聞いていないし、また昔話を楽しむたちの人でもなかった。祖父にしてみれば、思い出したくないことも沢山あったに違いない。殊に西南戦争で、官軍の将として、唯一の師とも先輩とも頼む西郷隆盛を敵に戦った辛さは、生涯忘れ得ぬ恨事だったらしい。人に聞かれると、「しまいには西郷ドンに弾がなくなって、石のつぶてが飛んで来た」とのみ、あとは言葉もなかった。またこういうことも云っていた。自分など明治の元勲とか何とかいわれるけれども、ほんとうに立派な人達はみな御維新の時に死んでしまった。残ったのはカスばかりだと。

彼は、その後、日清戦争で、海軍大将、その後、政治家として、大臣も歴任する。
よく、隔世遺伝ということを言う。まあ、こんな、おじいちゃんがいたら、グランド・ファザコン、にならざるをえないでしょう。彼女の、西行をずいぶんと評価するようなところなど、そんなふうにも思わずにいられない。
彼女の文章は、どこか、日本の古典にあるような、隠喩的というのだろうか、どこか、本当に思っていることを直接書かない、おくゆかしい文章である。本当は何が言いたいのか。どんなことを考えていたのか。そもそも、日本人は、本当に思っていることをずっと、「そのままでは」言葉にしてこなかった、できなかったのだろう。直接言えば、いろいろなところで角が立つ。そこで、さまざまなモノを通して、心情を吐露する。
歌を詠む。
さて、一体、だれに向かって、話しているのか...。

ユリイカ1999年2月臨時増刊号 総特集=白洲正子

ユリイカ1999年2月臨時増刊号 総特集=白洲正子