奥村宏『倒産はこわくない』

奥村宏さん、はずっと、日本企業批判を行ってきた。彼は、あの、ジャパン・アズ・ナンバーワン、と言われた頃も、一貫して変わらず、日本企業の問題点を指摘し続けた。
こういう人の指摘は、貴重である。
エンロンの倒産は、多くの人たちに、株式会社、とは、一体なんだったのか、を考えさせた。まさに、ハゲタカ、のように、企業の金を隅から隅まで、むしり取って、逃げ切った、経営陣たち。
しかし、彼らは、これが「価格メカニズム」的自然、だよ、と開き直りやがった。なぜ、この連中がこれほど自信満々だったか。彼らのロビー活動によって、法律は、隅から隅まで、骨抜きにされていたからだ。
この姿を見て、日本で同じように、うまい汁を吸ってやる、と野心を燃やしたのが、竹中さんなどの、国家に群がった、経済天然記念物、たちだった。ようするに、理由なんて、なんでもよかったのだ。なんでもいいから、さまざまに、法律を書き変えて、自分たちの「悪事」がやれるようにしてしまえばいいのだ。そうすれば、「悪事」は「悪事」でなくなる。まさに、「自由化」だ。
日本の株式市場は、日本人の個人資産を株式市場に誘導させるという名目で、これ以上はないだろう、というくらい、自由化をされてしまった。ホリエモン騒動は、たしかに、彼らの罪は「微罪」であったか知らないが、もともと、法律の方が、この自由化によって、どこまでも「骨抜き」だったわけだ(時間外取引も、その一つにすぎない)。
なぜ、株式取引だけが、なんの理由もなしに、これだけ、減税されるのか。減税が必要なのは、むしろ、NGOなどの非営利的活動や、ボランティアの方だと考えないのだろうか。
そもそも、法律や税は、フェアネスを実現するものでなければ、だれも「信用」しなくなる。その正当性を、だれも認めなくなる。
なぜ、日本の個人資産が、株式市場に流れないのか。いや、逆だ。なぜ、このことを不思議がる、言説がいつまでも、絶えることがないのか。
アナタタチハナンテオワスレニナルノガハヤイコトデシヨウ。
なんのことはない。日本の大衆は、あのバブルの頃、国が大企業にジャブジャブ金をつぎこんでいる姿を見て、「この国のお金」を信用しなくなっただけだ。まじめに汗水たらして働くのが嫌になったのだ。
上場企業は、「大きすぎて潰せない」。このメッセージを庶民はどう聞いたか。そーいうことか、じゃー、庶民なら、いくらでも、「ひねり潰せる」ってわけね。どうも、こういうことが「問題」だと言ってやまない連中には、この「大きすぎる」ことの方が問題だとは考えつかないようだ。
奥村さんの考えは、明確だ。エンロンなどの企業、株式会社、が、こういった醜態をさらし続ける、ということは、どういうことか。
株式会社、そのものが、今、危機に瀕している、ということなのだ。
株式会社という形態に、本当に、どこまで、正当性があるのか。結局、会社というものを、どう考えたらいいのだろう。
私の見解は、控えめだが、それは、「倒産」をどう考えるか、に関係する。
企業とは、ある、サービスを供給するために、集まった、経済的集団、にすぎない。そうすると、いかんせん、「なんのために」が重要になる。供給とは、需要があってのものである。その使命が終わったのなら、企業は、おとなしく、退散する以外に道はない。しかし、それでいいんですね。それが、分業ということであり、役割、というものなのですから。そう考えると、企業にとって、「倒産」というのは、必然的な事態であるとも言えるだろう。
しかし、倒産、とは、「終り」ではない。それは、どういうことか。直江兼続が、関ヶ原の合戦で敗れ、敵軍の家康に臣従を誓うとき、英雄たち、戦士たちの時代、は終わった。しかし、別にそれで、歴史は終わったわけじゃない。その後も、人間は生き続ける。そこから、「政治の時代」が始まるのだ。
企業とは、上記にあるような、その役割を果たすために、集った集団である。ということは、その集団の規模は、その使命に見当ったものでなければならない。そうやって考えてくると、分かってくることは、その集団が、全体の企業と「独立」でどうしていけないんだろう、となる。まさに、社内カンパニー的に、小集団を形成していくことは、自明となる。
この事態を、「倒産」という、局限状況に照してみるとき、はっきり言えることは、その会社が倒産しようがしまいが、その会社の、それぞれの、小集団が担っていた、需要に対する供給のニーズが消えるわけではない、ということである。ということは、やる気さえあるなら、そういった、小集団は、同じように、仕事をやっていくだろう、ということである。
つまり、大事なことは、イノベーションとか創造性とか、そういう、意味不明用語ではなく、あくまで、需要に対する供給なのだ。たとえば、今、日本中で多くの人が仕事がなくて困っている。困っているということは、そこに「ニーズ」があることを意味する。もちろん、仕事がないって言ってるくらいですから、彼らを助ける事業を起こしても、もうからないかもしれないが、少なくともはっきりしていることは、そこに「ニーズ」があるということだ。もしかしたら、ロングテールを使って、それなりのビジネスにできるかもしれないし、逆に、こういった福祉的な活動は、企業だって、広告、スポンサー的に重宝するかもしれない。
よく、日本人はリスクが嫌いだ、とか言う。だから、株を買いたくないんだ、と。しかし、これほど、現実を直視しない議論はない。中小企業の社長は、だれでも、多額の借金をしている。しかも、家族から親戚からあらゆる人間関係を「担保」にして、だ。テレビをつければ、昼間っから、やってるのは、外資の、保険サービスのコマーシャルだが、彼らは、自国では死んでもやらない、「自殺保険」を日本人には売りつける(海外では、自殺に生命保険は給付されないというが、その辺りはくわしくない)。ということはどういうことか。生命保険の「正当性」はあやしい、ということだ。多くの子供たちは、お父さんが死なないでくれたら、ただ、それだけで、もうほかにはなにもいらないんだ、と、どんなに泣き叫ぼうと、もう父親は、彼らに迷惑をかけずに、多額の保険金だけを残し、あの世の人となることを選ぶ(江藤淳が言ったように、どうも日本は、今でも、アメリ進駐軍に支配されているようだ)。

小泉首相が座長になっている政府の経済財政諮問会議は2001年9月、構造改革の手順を示す改革工程表なるものを発表したが、大企業の構造改革に関連したものとしてあげられているのは銀行の不良再建処理だけである。そのなかで次のように言う。
「RCC(整理回収機構)による企業再建を円滑化するため、日本政策投資銀行等による再建途上の融資等の活用を図る。日本政策投資銀行、民間投資家、RCC等に対し、企業再建ファンドの設立・参加を促す等により、中小企業も含め、企業再建に積極的に取り組むよう要請する」(『日本経済新聞』2001年9月21日)
日本政策投資銀行は元の日本開発銀行北海道東北開発公庫が統合したものであるが、この特殊法人のカネを使って企業の再建を支援するというのである。廃止するといっている特殊法人を使って、大企業を保護するというのだから、これはまさに戦後一貫して行なってきた政府による大企業保護策以外のなにものでもない。これで構造改革とはよく言えたものだ。

なぜ、そういった、企業人の「個体化」が重要だと考えるのか。多くの個人が、経営に参加していく、そういった、協同組合的な、小集団には、各自の、「自主性」が芽生える。「自分が」このマーケットの中へ、この「暗闇」の中へ、跳躍していく、という皮膚感覚、リアリティを与える。組織は、大きいか小さいか、ではない。組織を構成する、エージェント、が主体的かどうか。
お前は組織の歯車じゃない。「お前が」組織なんだ。
しかし、そんなことは、別に、少しも新しいことではない。昔から言われていることだ(つまり、分業はインフラとは別だ、ということなんですかね)。
私たちに、今、必要なのは。「反時代的考察」...。

倒産はこわくない (岩波アクティブ新書)

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