池田信夫『希望を捨てる勇気』

日本のバブルは、何十年か前に、はじけたが、「世界」のバブルは、つい最近、はじけた。それが、リーマンショックであった。

高度成長期は誰にでもチャンスはあり、一生懸命働けば報われるという希望があったが、もう椅子取りゲームの音楽は終わった。いま正社員という椅子に座っている老人はずっとそれにしがみつき、そこからあぶれた若者は一生フリーターとして漂流するしかない。
この状況から労働組合と連帯しようという方向と、赤木氏のように「戦争」を求める方向の二つに分かれる。前者のほうが建設的にみえるが、実はその先には何もない。彼らが連帯を求めている労組は、椅子にしがみついている人々だから、同情して仮説住宅を世話してくれるが、決して席を空けてはくれないのだ。この椅子取りゲーム自体をひっくり返すしかない、という赤木氏のほうが本質をとらえている。
今われわれが直面しているのは循環的な不況ではなく、かつて啄木が垣間見たような大きな変化の始まりかもしれない。それは成長から停滞、そして衰退という、どんな国もたどったサイクルの最後の局面だ。それに適応して生活を切り詰めれば、質素で「地球にやさしい生活ができる。日本は欧州のように落ち着いた、しかし格差の固定された階級社会になるだろう。ほとんどの文明は、そのように成熟したのだ。明日は今日よりよくなるという希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない。幸か不幸か、若者はそれを学び始めているようにみえる。

ここで著者は、かなり確信犯的に発言している。若者は別に、主体的に、そうなることを選んだわけではない。彼らは、学んだのではなく、最初からこうだっただけで、単に、生きるために、現状に「適応」し続けているだけだ。
私は、この、赤木さんの発言は、現代の、ラスコーリニコフ、だと思っている(または、ラスコーリニコフ「きどり」だ)。しかし、それは、彼だけでなくて、たくさんいる。言ってみれば、近代経済学者、マネタリストの言う「経済人」とは、ラスコーリニコフの「世界」に生きること、を(あらゆる「断念」の後に)選ぶということなのかもしれない。
いずれにしろ、今では、みんな、保守的な後向きなことしか言わない。
株をやっている(日本企業の株を持っている)人にとっては、日本の企業の業績が少しでも厳しくなるのではないか、という、日本政府による、外への「メッセージ」そのものに反対なんだと思う。つまり、そういった「直接的」なものは、すぐに、株価に反映する。すぐ、というのは恐しいものだ。一瞬で、自分の財産の何割かが、ふっとぶ。これを不条理と思わない人はいないだろう(それは、江戸時代の武士階級が、一瞬にして、浮浪人にされたこととも似ている)。リーマンショックのとき、日本の多くの株主や企業が、この株価の下落の「保証」をしてくれ、と自民党に要求していたが、それは今、民主党の福祉政策に期待している人たちと似ていなくもない。
池田さんの言う、自分探しを止めた若者が、「大人」になるとはどういうことなのだろう。つまり、若者たちがその、少ない、なけなしの、初任給、安月給で、この国の企業の株を買い支え始めること、それが「大人」になることなんだ、と。そうすれは、この国の株価は、安定する。そしてなによりも、だれもが、この国の企業の株価が下がるような、ネガティブなメッセージを発することはしなくなるだろう。そうすれば、きっと、株価が下がることはない(そうであれば、安心して眠れるんだけどな...)。これは、ある意味、韓国の、IMF危機、のときに、起きた現象と似ていなくもない。
詐欺師に残っている、最後に騙せる、人こそ、「子供たち」だ。子供たちは、聖域であるからこそ、未盗掘の宝の山に見える。ポルノにしても、最後はチャイルド・アビュースに向かうからこそ、どこの国でも、ここだけは、聖域として、社会が守ろうとしている。しかし、詐欺師にしていみれば、そういう「例外」を語ることこそ、意味がない。それが、自由主義というものだろう。子供こそ、一番洗脳しやすいカモとなる(自然界と同じように)。教育機関はさかんに、子供に「絶望」というメッセージを発し続けて、現状を受け入れることへとマンドコントロールしていく。
だから時代は、常に、暴力革命は、若者たちから始まってきた。今の、タリバンを、欧米対中東と思っている人は、ナイーヴであろう。これは、一種の、富裕対貧困、のはずだ。若者には、お金がなくても、ありあまっている、エネルギーがある。もともと、経済とは、暴力や略奪をあきらめた人たちの次なる手段だったはずだ。まず、暴力に向かうのは、たぶん当然なのだろう。それに対して、たんなる、「説教」は、彼らのガン無視にあうだけだろう。では、彼らに対し、勝ち誇ったような、優越感を示していればいいのか。またはこの本のように、「気持ち悪い」共感を示していればいいのか。
なぜ、日本の個人資産が、日本企業の株式投資にまわらないのか。

日本人のポートフォリオが異常にリスク回避的で貯蓄過剰になっているという問題は、私の学生のころからゼミのテーマだったが、いまだに変わらず、原因もはっきりしない。(......)
その一つの原因は、資本効率の低さである。日本の上場企業の平均ROEは、主要国でも最低レベルだ。したがって「需要不足」の最大の原因は、経済財政白書も指摘するように、日本型企業システムの非効率性という構造的な問題だ。

今も分からない、とは、池田さんも正直なものだ。
池田さんの経済に対する、ヴィジョンを一言で言えば、「これだけ大きなマーケットをコントロールできるのは、唯一、価格メカニズム、だけだ」という信念と言えるかもしれない。
(バブル以降、日本でもうかっている企業は、外資系か海外と貿易をやってる企業くらいで、日本全体が、そういう企業から「たかって」生きていると言っていい状態だ。日本の、ITは、まったく、輸出商品になっていない。もし、中国の僻地に工場をもって行くだけで、人件費が、十分の一、百分の一、になるなら、どうして、やらないだろう。株主に、おこられちゃう。)
マネタリストにとって、この価格メカニズムこそ、水戸黄門の印籠よろしく、生物学における「進化論」となる。この普遍的な法則は、まさに、道教のように、順応し、受け入れて生きることこそ「自然」となる。
しかし、問題は、こういった、価格メカニズムが、人類の発展にとって「無敵」なのか、にある。
グローバル経済は、大きな、経済格差を生み出すだろう。なぜ、こうなるのか。そもそも、価格とは、対関係において、意味のあるものだったはずだ。それを、地球規模に拡大することは、かなり強引な印象を受ける。長く、世界の基軸通貨は、アメリカドルであった。そのため、アメリカは、紙を印刷すればするほど、いくらでも、「価値」を生みだせた。まさに、錬金術であった。しかし、世界中の国々は、ここ何年か、貿易通貨として、アメリカドル以外を使い始めている(それだけ、サブプライムローン問題は、世界のアメリカへの信用を低下させたわけだ)。より、「地域」化が進んでいく予兆ととれないだろうか。
この究極的な姿は、実は、すでに過去の日本にあった。

日本では封建領主の支配力が弱く、農村の惣とよばれる生産・軍事共同体の自立性が強かった。これは中国や朝鮮のように絶えず異民族の侵略と戦わなければならなかった国家に比べて、海に隔てられて平和が長く続いた日本のコミュニティの特徴だ。このため中央集権的な国家の力が弱く、メンバーの合意による「自生的秩序」が安定していたことが、日本の繁栄の基礎と考えられている。
江戸時代には農村にも市場経済が浸透したが、このような経済システムにも領主は介入せず、農産物の流通が自由に行われた。生産の増加に応じて所得も増えるようになる。生産性向上のインセンティブが高まった。経済活動の単位は惣のサブシステムとしての家で、これは血縁共同体ではなく、「一族郎党」を含む機能的な集団だった。

そういう意味では、日本には、国(幕府)も、藩も、なかった、と極論していい。あったのは、村共同体、だけだ。村だけが、自律的な「国家」として、生産から、軍事(一揆で使う道具レベルですが)、他の村との、流通貨幣、を統御していた(この村「国家」は、社会主義国であった。つまり、失業が、ありえなかった。だれもが「共有物」としての農地を耕し、その産物にありつけた)。
もちろん、「定年」などあるわけない(年金問題を一瞬で解決する方法は、あまりにも「簡単」だ。みんな、「死ぬまで」働けばいい。なんで、こんな当たり前のことを誰も言わないのだろう)。
では、このシステムは、一体、どうなってしまったのか。実は、現代においても、この日本に「生きている」。

こうした中心のない分散ネットワークは企業にもみられ、日本の大企業の取締役会は各事業部の利益代表の集まりで、社長はそのまとめ役だ。各事業部の関係も下請けとの取引も、非公式のネットワークによって自律的に行なわれ、中央で命令を下す指導者はいない。この構造は偶然、工程が複雑で相互依存性の強い知識集約型の製造業と親和性が高かったため、自動車・電機・精密機械において突出した優位性を発揮した。

しかし、特に、ソフトウェア産業などにおいては、徹底した、プロトコル化がはかられ、上記のような、さまざまに複雑な工程を、バランスを保ちながら、「和」によって、結果を生み出していくような、難しさは不要になっていってる傾向がみられる、という。一見、各自がばらばらに作業をしているようでありながら、それぞれの生産物は、この「プロトコル」によって、規約化され、「疎に」結合される。
コンピューターの世界ほど、寡占の激しい分野はない、グーグルは、世界中の文字情報を「すべて」データベース化しようという野心のもと、活動している企業だ。早晩、グーグルがもっていない文字情報は「存在しない」時代がくるであろう。つまり、「グーグルが」世界、となる時代、がくる。
この本は、どこか、村上龍の経済本、と似ている(そういえば、宮台さんにも、絶望どーのこーの本、がありましたね)。共通しているのは、専門家以外の人が、こういった(経済という)専門分野を勉強し、公的に発言しようとすると、こういった「バランス」を気にした「常識的な」議論になる、ということではないだろうか。
この本の問題は、この本の内容がどうこうではない。この本が、あまりに「時代的」であることなのだろう。

希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学

希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学