栗原剛『佐藤一斎』

私は、ちょっと前に、江戸時代の日本を、幕府や藩の「存在しない」、村「国家」群、と呼んだ。このことは、別に、ちょっと変わったことを言ってみたくて、かっこつけたということではない。たとえば、徳川幕府は、別に「政府」ではない。あれは、ただの「イエ」である。それは、大河ドラマ篤姫を見ていた人には、自明だろう。極端なまでに、ホームドラマになっていたが、あれくらい、極端な方が「実体」に合っている(ただし、考えもつかないくらい、「大きい」、というだけだ)。しかし、それだけであって、構造は、どこにでもある、イエそのもの、であった。つまり、徳川家であっても、すこし特殊な「村」の一種と考えていいことを意味する。
どうして、こういった構造になっているのだろうか。たとえば、家康が、関ヶ原の合戦で勝利を治め、この、徳川長期政権を確立していく過程で、彼は、まだ多くの不満をくすぶらせている、各藩の藩主に向かって、孟子の革命論を、とりあげて、「やれるものなら、革命をやって、この徳川に変わって、天下をとってみろ」と、たんかをきった(孟子の革命思想は、日本においては、天皇の「千代に八千代に」と矛盾するから、すこぶる、評判が悪いとなっていたが、それは、たかだか吉田松蔭レベルの議論であって、徳川家康や、本場の朱舜水を師とあおぐ水戸光圀レベルにまでなると、「やれるもんなら、やってみろ」となる)。
しかし、である。そもそも、東アジアにおける、天下国家とは、一体、なにを意味していたのであろうか。徳川政権は、この長期の安定、「平和」を実現したわけだが、実際には、彼らは、「なにもしていなかった」。むしろ、なにもしないことをやった、と言ってもいいくらいである。徹底して、村々の自主性にまかせ、やりたいように自治をやらせる。
多くの人は、こういう話は、聞けば聞くほど、どうしても、「受け入れられない」。こんなはずはない、きっと何か、自分を安心させてくれる、からくり、があるはずだ。自分たちの、近代欧米の常識を、すりこまれた、現代人には、なぜ、これほどの、放任で「うまくいく」のかが理解できない。なぜ、中央集権的な国家官僚機構による、コントロールが存在していないのに、うまくまわるのか。
この問題は、実は、もう少し違った視点からも、言うことができる。

一斎は、貧民救済のために挙兵し自刃した中斎のように、特別目立つ事績を歴史に残したわけではない。しかし彼は、実に七十余りの大名諸侯から招聘や諮問を受けたと同時に、序論で述べた通り、渡辺華山・佐久間象山・安積艮斎・大橋訥庵・中村敬宇など、幕末から維新にわたって広く活躍した多くの人材をも、その門下に輩出した。

佐藤一斎は、江戸後期を生きた、最も、代表的な、儒官であった(あの、大塩平八郎は、一斎に自分の行動をどう思うか、とうかがっているくらいなわけですね)。多くの藩が、彼を招聘しようとしたし、多くの幕末を代表する、儒者は、彼の弟子筋にあたる。私も前に注目した、佐久間象山を代表として、そうですが、それ以上に、幕末の志士は、だれもが、佐藤一斎を読んで生きていた。
しかし、どうですか。この『言志四録』は。えんえんと、一斎の、朱子学的な内省。自分の心の話しか書いてない。自分の心をどうやって、静かな状態にし続けることができるか。
これは、なんなのだろう。
かりにも、当時の政治のトップのような人ですよね。その人の語ることが、こういった心の話ばかり、というのは、どういうことなのでしょう。
しかし、東アジアの政治は、ずっとこれだったとも言える。中国では、始皇帝の政治の反省以降、ずっと、孔子を頂点とした、儒教を中心とした政治を行ってきた。しかし、それはまったく変化をしない、ということではない。宋の時代から、流行し、その後一貫して主流となった、朱子学は、挑戦的なまでに、道教、仏教のエッセンスを儒教に取り入れる。
しかし、唯一、儒教が、こういったものと明らかに違った点がある。それは、積極的な政治参加を美徳としたことなんですね。政治で名を上げることは、名誉なんだ、と。俗世での成功に意味を与えたのが、儒教だった。その朱子学のテキストは、はっきり言えば、道徳の本なのかもしれませんが、これが、基準とでも言いましょうか、言わば、「慣習法」、として機能してきた、ということなんですね。
つまり、こういったことは、なにを意味しているのだろう。

佐藤一斎儒学者であったが、同時に幕末に生きた一個の武士として、まさにこの、自己の独立を説いていた。

士は独立自信を貴ぶ。[言一二一]
士は当に己に在る者を恃むべし。動転驚地、極大の事業も、亦都べて一己より締造す。[言一一九]

といった言葉は、これをよく示している。

なんですか、これは。これのどこが、「奴隷」ですか。完全に、唯我独尊。
そもそも、私たちは、明治政府や、戦後アメリ進駐軍に、徹底的にすりこまれた、日本や東アジア、の伝統文化「野蛮」説に完全に、やられてきた。東アジアは、こういったように、非常に高レベルの、学問的伝統をもってやっていた。欧米の、政治思想、自由や平等も、「あっという間に」彼ら儒者は、「理解」したんです。あの、西洋科学でさえ、これの意味していることを、これだけの短期間で、吸収してしまう。むしろ、こちらの方こそ、恐しいまでの、学的レベルの高さが、至らしめた地点なんじゃないですかね。
私が何を言いたいか。本当に、日本人は「進歩」したんですか? ということですね。江戸農業にしても、徹底して、肥溜めを使って、有機農業をやっていた。そりゃあ、今の野菜なんて比べものにならないくらい、栄養があったでしょう。今はどうですか。みんな、海に流してしまう。それが、「ケガレ」ですか。ずいぶん、清潔なもんですね。そして、村「国家」は、「直接民主主義」そのもの、ですよ。それが今はなんですか。日本政府という、なんだか分からない、お祭りの幹事連中に、さまざまな、利益関係者が群がって、何人かで、間接「民主主義」で決めちゃいました、って、おい、俺はなんにも言ってねーぞ、そんなものに「民主主義」なんて名前付けんじゃねー、って。
(彼らが、明らかに、弱かった側面は、間違いなく、経済や数学ですね。まだ、そういうリテラシーが、徹底して、究明されていなかった(でも、そうは言っても、アダム・スミスマルクスがいつの時代の人かと考えれば、無理もないでしょう)。そして、そのことが、江戸幕府の終焉、明治政府の誕生とも、深く関わっていたことは確かだった。どこの国でも、時代は、これを繰り返して来たと言えなくもない。国家は、さんざん放漫経営をして、最後に何をやるか。国家「倒産」という名の、借金踏み倒し、である。日本では、明治維新、そして、敗戦、ですね。満鉄の株券は、ただの紙っぺらになりました。しかし、これは、なんでもいいわけです。ちょっとした、きっかけさえあれば、なんでもいい。これこそ、日本の今の赤字国債依存の果てに、待っている姿であり、国家の「本質」、なんですね。)
江戸時代に、今にさらに近いような「インフラ」が提供される素地があったなら、どんな世界が展開されていたでしょうか。彼らの、自由教育の慣習は、「寺子屋」という、ネットワークを実現していたが、これがもっと、発展して、多くの人々に、さらに、「高度な」学問・研究的な素地を提供していたかもしれない。
さて、今の私たちと、どっちが、ほめられたものでしょうね。

佐藤一斎 -克己の思想 (再発見 日本の哲学)

佐藤一斎 -克己の思想 (再発見 日本の哲学)