ベル

人間は人間をどう見ているのだろう。
この質問の意味は、こうだ。
人は、ある人に、惹かれる。恋愛でもいい。もっと別の、理由でもいい。学問的な、師匠と弟子でもいいだろう。フロイトにとっての、ユングのように。しかし、弟子というものは、多くの場合がそうであるが、あるちょっとした、認識の齟齬によって、師匠を「簡単に」軽蔑する。そして、離反、していく。
ユングにとって、それは、フロイトの「ユダヤ」性、であった。フロイトが「最後まで」偶像崇拝の禁止、を捨てない、かたくなさを、彼は師匠の「限界」と受け止める。そして、ユングは、「その先」へ行く。つまり、彼は、夢分析の、その先に、人類の心世界の、「深層」。それぞれの心は、実は、ライプニッツの言う、窓のない部屋、ではなかったんだ。実はそこには、「隠し窓」があった。深い奥底では、だれもが「つながっていた」。その象徴界を「発見」する。
今でも、ユングは、大人気である(私も、若い頃、彼の自伝を読んだものだ)。確かに、オカルトチックで、このイメージこそ、人類の通底しているものを見付けた、というんだから、どこか、人類平和を実現してくれるような、そんな夢を与えるもののように思える。しかし、そこで、よく考える必要がある。彼が、そう言っている、象徴とは何か。多くの場合、キリスト教社会で、一般に受け入れられてきた、神話・伝承のイメージであり、そこが出発点になっていることだ。彼にとって、西洋的な神話世界は、子供の頃から、親しんだものであり、世界には、これに似た話も多い。だとするなら、この僕たちが、子供の頃から、なれ親しんできた、この神話には、もっと「深い」意味があるのではないか。
しかし、どうでしょう。彼に、私たち東アジアの「生活」を想像することなどできるでしょうか(サイードの言う、オリエンタリズムとは、こういうことなのでしょう)。西洋社会に、まるで、「寄生虫」のようにしか、生きられなかった、ユダヤ人の世界観を想像できたのでしょうか。つまり、そこには「他者」がいないんです(少なくとも言えることは、非常に、偶像崇拝的だということです)。
ちょっと、話がそれましたが、そのように、弟子にとっての、師匠への、まなざし、は、多くの場合、アンビバレントなものに、なりがちとなる。愛と憎しみは、実に簡単に反転する。彼が好き、という、まるで熱病のようなその感情は、容易に、自分を理解しようとしない、相手への憎しみとなる(自分だったら、自分のことを、すぐ理解しちゃいますからね)。いずれにしろ、恋愛には、そんな熱病のような、特徴がある。
しかし、不思議なもので、人間には、これとは、まったく、反対の傾向がある。

興味深いことに、それは、フロイトがヒューモアにかんして述べたことと完全に合致している。

誰かが他人にたいしてヒューモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出る。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。
(「ヒューモア」高橋義孝訳、『フロイト著作集』3)

ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)

ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)

子供は、ヘーゲルが言ったように、自らの、進化論的な、自己展開を通して、自らの、精神世界を、展開していく(これが、観念論的な、人間理解となる)。しかし、子供の世界において、自分と、その「外の世界」は、まだ未分化。子供は、その「自分しかいないはず」の世界において、他者が自分のあらゆる、欠点、だめな部分を指摘してくると思い、それを、非常に重大な事態と受け取りがち、となる(なぜなら、それは、自分が危険だと言っているのと、違うとは、受け取らない段階だからだ)。
ところが、そんなことはないのである。
意外なものだが、基本的に、他人は、自分に「無関心」なものなのである。人は、他人がどうあるかに、「本質的に」関心がない。みんな「勝手に」自分のことをやっているものなのだ(そして、そのことに、気付き、微笑む人こそ、大人である、親、母親、の役目となる)。
...ずいぶんと、長い、前置きになってしまったものだ。
いつものように、BUMP について書きたかっただけなんでが。

話したい事は 山程あるけど
なかなか言葉になっちゃくれないよ
話せたとしても 伝えられるのは
いつでも 本音の少し手前
(BUMP OF CHECKEN「ベル」)

彼は彼女が、ちょっと気になるんでしょうね。もっと、いろいろ話してみたい。思っていることを言ってみたい。少し気になりかけている。好きになりかけている? でも、この、電車に揺られる毎日、ですからね。性格も暗くなるさ。

目を閉じると思い出す
「元気?」って たずねる 君の声
僕のことなんか ひとつも知らないくせに
僕のことなんか 明日は 忘れるくせに
そのひとことが 優し過ぎた
優し過ぎて 言葉もでなくて
(BUMP OF CHECKEN「ベル」)

こんなひねくれた自分だけど、なんでかわかんないけど、どうせ自分なんか、なんの関心ももたれてない、自分がどんなやつかもわかってないってのに、ていうより、なんにも知らないのに、ていうより、もう自分のことなんて覚えてすらいないのに、それなのに、...。なんで、そんなこと言うんだよ!
(私は、意外と、文化人類学というのは、ここのところ、興味がある。人間は、意外と、非科学的なことを行っているものだ。あいさつ、もそうだし、いろいろな、成人式などの、式典もそうだ。そういった、通過儀礼的なものは、自然科学的には、まったく不要に思われるが、歴史的に、さまざまに機能してきた。きっと謙虚になった方がいい。)