稲葉剛『ハウジングプア』

著者は、家がないことこそ、すべての問題の元凶である、と言う。
お金がないことも、本質的でない。食事にありつけないことも、本質的でない。なによりも、屋根の下で寝られない、家の中で暮らせないことが問題なんだ、と。
たしかに、考えてみれば、こうやって、屋根の下で、ふとんに入って寝れるということは、体を冷やさない、夜風で、体を痛めない、必要なことなのかもしれない。
だとするなら、なぜ、他方で、そういう生活を「選ぶ」人たちがいるのか。いや、こういう言い方は、ミスリーデイングなのかもしれない。彼らは、仕方なく、そういう生活をせざるをえなかった、それしかなかったんだ、と。
だとするなら、我々がやるべきことは、簡単である。彼らに、寝床を提供すればいい。たかだか、それだけの社会的費用、どうして出せないことがあろうか。

私は低所得者の誰もがこうした住宅にアクセスできる社会にしていきたいと考えている。
これは夢物語であろうか?
東京で民間の賃貸借住宅に暮す者にとっては、上記の条件は夢物語のように聞こえるかもしれない。しかし、同じ東京でも都営住宅に入居している低所得者の場合、家賃は二万円以下に抑えられている。
問題は公的な住宅の供給量が圧倒的に少ないことにある。

しかし、この本が言いたいことは、そういうことだったとしても、私が言いたいのは、そういうことではない。いや、もっと言えば、そういう側面を、たとえ認めたとしても、いずれにしろ、そういう生活を、この都会の街の中で、生きてきて、今もそういう人がいる、ということなのだ。
彼らは、なにを考えているのだろう。今までの、生活での、人間関係にうまくいかなったことを、悔やんでいるのだろうか。もう今では、そういった昔のことも受け入れているのだろうか。
近代社会の特徴は、ダブルバインドと言われる。社会は、まったく、反対のメッセージを発し続ける。あれをやれ、と言いながら、彼らの行動は、それをやるな、を意味する態度を示す。一体、どっちが正しいのか。区別がつかない、いや、どっちも正しいし、どっちも間違っている。こういう場面に直面して、人は「足を前に進めることができなくなる」。
借金で、火だるまになり、奥さんや子供、を養っていけなくなった、男たちは、彼らの元から去ることを選ぶ。その方が、彼らのこれからの人生にとって、いいと思うから。自分がこの借金と一緒にいなくなり、彼らには、また、彼らを優しくしてくれる、大切な人が現れてくれるはずだ。
しかし、彼らはそれでいいんだとしても、それで、お前はどうするんだ。どこへ行くんだ。
こういう人たちは、そういう意味では、半分、自殺的生活をしているということになるのだろう。家をもたず、夜の寒空の下、雨露をしのぎしのぎ、朝を待つ毎日。
しかし、これは、アナルコ・キャピタリスト的には、どう言えるのだろう。なぜ、家に住まなければいけないんだ。いや、これは、一種の、「先祖返り」なのだ。
彼らは、まさに、「縄文式」の生活に回帰したのだ。
むしろ、そのこと、その「必然性」を、その透徹した諦念の眼差しに読みとる必要がある。その、灰色の瞳に。

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