ピエール・ルミュー『無政府国家への道』

最近は、自由主義は、すこぶる、評判がわるい。彼らのせいで、こんな不況になってしまって、どーしてくれるんだ、って。
しかし、経済とは、循環するものですから、好景気のときもあれば、不況のときもある。ある経済学者は、経済とは、ネズミ講、だと言った人がいたが、そうであるなら、こういう事態にいつかなることは、だれもが知っていたはずだ。
多くの中小企業が、あらゆるものを、担保にして、起業するのは、「好景気だから」いいのである。ほとんどのケースが、好景気であれば、成功するのだから。しかし、ひとたび、不況となると、あらゆるビジネスモデルは、その前提から、成り立たなくなる。お前が身ぐるみはがされて、奥さんや子供と離れて暮さなくちゃならなかったのの、全ての責任は、この「不況」だ、となる。しかし、いつかは、こうなることくらい、だれだって分かってたはずじゃないのか。その上で、今さら、見苦しく、泣き叫んで、どーするんだ。
あの、竹中さんの言っていたことだって、一理ある。みんな、自分の利益のために、毎日生活してるじゃないか。自分のお金を一円でも稼ごうと。それを、ある人が、この国の法律を自分に有利にして、もうけてやろう、と思ったからって、どうして、それが咎められなきゃならないことなんだ。そうやって、彼は、「議論を尽して、公開でやればいーだろ」と開き直るのだが、ロビー活動、つまり、「間接」民主主義なんですよね。長く、うだうだ公開で話しさえすれば、正当性が得られると思っている。
そうやって考えてくると、どうも、民主主義っていうのは、無理なんだな、と思ってしまう。「大きすぎて、潰せない」。それは、企業だけではない。この国家もそうだ。
大きすぎるんだから、しょーがないじゃないか。
そんな、「大人」たちの、説教が、日本中から、聞こえてきそうだ。
自由主義者も、民主主義者も、結局、何が足りないのだろう。

個人が選べるさまざまな選択肢は時としてすべて不快なものであったり、憎むべきものであったりする、というのが世の出来事である。利用できる選択の幅は時として、他のものよりも望ましい選択肢であるが、依然としてある面で不快であるような選択肢を取るよう個人に強いるだろう。カネを稼がないよりましであるが、働くことはしばしば不快なことである。だが、自殺という常に(あるいはほとんど常に)可能な選択肢を選ばないとすると必ず、利用できるその他の選択肢の少なくとも一つは、結局、純満足を生む、ということが証明される。一つの不快な選択肢の選択を強制されるよりも、多くの不快な選択肢のなかから選択できるほうがよい。また、もし他人の強制の犠牲になる人が明らかに自由でないとしたら、まだ強制的干渉なしに自分の不都合を最小化できる人は依然として自由である。
それは、まさしく自由は飢えで死ぬ自由を含んでいる、ということである。自由とパン、すなわち自由と繁栄は同義でない----飢えが自由よりもしばしば隷属と結びつけられているにもかかわらず、である。当世風の型にはまった考えから脱却するために、自由には危険が伴うということ、自由は物質敵平等を生まないということ、自由はまた飢えて死ぬ危険をも含むということ、を認識しなければならない。

彼らは、どっちにしろ、私に言わせれば、「同じ穴のムジナ」にすぎない。この「大きすぎる」国家に、巣喰う、寄生虫、にすぎない。マネタリストも、マルクス主義者も。
私は、最近流行の「社会学」とやらを専攻している学生は、この本を読んでないから、恥かしげもなく、そんな名前を自称できるのだろう、と思っている。この本は、はっきり書いている。「社会は存在しない」。それは、どういう意味か。人間は、物象化と言って、あらゆるものを、実体化せずにいられない。天国という抽象に耐えられずに、教会を作ったように。そしてこれは、究極的には、「擬人化」に行きつく。ひとたび、「社会」が「ある」と言ったとたん、これは、擬人化され、ヘーゲルの言う国家のように、「有機体」化する。人間は、この「社会」を構成する、一つのパーツにすぎない。だったら、そのパーツが「壊疽」を起こしたら、切断は、やむなし、ですか。
柳田國男の言う、「民俗学」でなんでいけないんでしょうね。フィールドワークこそ、篤胤から続く、学問スタイルですよね。これこそ、精神分析での、「診察」、患者との対関係にあたる、全ての源泉だと思うんですけどね。

無政府国家への道―自由主義から無政府資本主義へ

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