菊澤研宗『戦略の不条理』

経営学」、というものが、長く、ビジネススクールなどで、教えられてきた。
(例えば、古典的なその思想を代表する人として、著者は、エリック・ウィンスロー・テーラーの名前をあげる。)
この、アメリカや日本における、高度成長期に発展した、(工学的な)学問においては、まず重要なことは、「物流」の制御であった。どうやって、物と人を物理的に配置し、利益をあげる経営を行うか。
しかし、経済は、そういうものだけで、動いているのではない、ということが、この、世界中が、「恒常的」に不況となる時代において、さかんに言われるようになってくる。
著者は、その議論の入口として、「戦争」に注目する。たとえば、戦略(strategy)という言葉がある。これは、(日本語にするとあまり感じないが、)完全な「戦争用語」である。日本では、戦後、この「戦争用語」というのがなくなった。
どういう意味か。
軍事戦略研究、という分野が、完全に、なくなった、ということなのだ。戦前、戦中までは、日本中の最高の知性を集めて、研究されていたものこそ、この「軍事戦略」だった。陸軍中野学校を始め、エリートとは、軍人を意味していた。その彼ら軍人の消滅と同時に、日本にはこの部分の「知」も消滅した、という表現が正しいであろう。
この違いは、あまりにも、決定的であった。戦後は、そういう意味で、この分野において、完全な、「痴呆」状態だったと言えなくもない。
しかし、前にも言ったように、経済とは「戦争」である。別の意味で。
「村」「国家」としての、各企業は、一つの、「侵略国家」として、世界市場に、「侵略」をしかける(私が、なぜ、企業を、村共同体国家、と考えるかは前に書いた)。そういった場合に、どうして、孫子の兵法から、クラウゼビッツの戦争論から、この程度の「常識」的な「軍事戦略」のイロハすら知らずに、「突撃」できようか。
例えば、著者は、少し、こみいった議論を、この本の最初でしている。

太平洋戦争中、陸軍の青年将校として戦った山本七平は戦後『孫子』を読み、脳天を叩かれた思いがしたと、著書『孫子の読み方』で述べています。それはどういう意味だったのでしょうか。
彼はその理由として、『孫子』の兵法が、太平洋戦争中に旧日本軍が戦勝の必須条件としていた「愛国心」にも「滅私奉公」にも「必勝の信念」にも触れていない点を挙げています。しかし、もっと驚いたのは、『孫子』では、部下に対して超人的な自発的努力や精神的能力の発揮や並外れた勤勉ささえ要求していないし、あてにもしていないところでした。『孫子』では、まったくの自然体で戦いに臨むことだと主張しているというのです。

しかし、旧日本軍は本当に空虚な実体のない幻想や観念にとらわれて行動していたのでしょうか。それは全くナンセンスな行動だったのでしょうか。実は、私はそう思っていません。私は、食べ物や鉄の武器や弾丸と同じように、「観念」や「幻想」や「価値」も実体として存在していると考えるからです。
たしかに、観念や幻想や価値などというものは手で触れることもつかむことも、そして目で見ることもできません。しかし、それらはわれわれ人間が発明し発見した知識と同じく、それ自体が実在しているのです。そして、実はこのような観念や幻想や価値の実在について、『孫子』の兵法でも述べられているのです。
戦い上手な人は、敵の戦う精神が強いときには戦いを避け、士気が衰えたときに攻撃する。つまり、「その鋭気を避けて惰気を撃つ」。そして、敵を包囲したら逃げ道をつくり、窮地に追い込んだ敵はその気力が強いので、これを攻撃してはならないということ、つまり孫子の言葉を借りると「囲師(いし)には必ず闕(か)き、窮寇(きゅうこう)には迫ることなかれ」ということです。
要するに、山本七平孫子を読むに当たって、旧日本軍の精神主義を忌み嫌うあまり、人間の動物敵欲求という物理的世界の観点のみから理解し、『孫子』にみられる「精神」、「観念」、「価値」の重要性を見落としてしまったのです。

なかなか、おもしろいことになってますね。
山本七平といえば、「空気の研究」や、例の、イザヤ・ベンダンサンとの関係で、保守派の、大家のように、出版界で扱われてきた人で、(私も、何回か、ここで、ふれた記憶がありますが、)著者は、その彼に「喧嘩」を売ったわけですね。「あんたは旧日本軍のすばらしさをなんにもわかっちゃいねーな」。元青年将校の論客を相手に、戦争を知らない、戦後生まれが、セッキョー始めちゃったよ(一時期、防衛大の教授だそうで、トーゼンってやつですかね)。
例えば、最初に書いた議論に戻れば、こういう光景は、今までも、何度も見てきた。経済やマーケティング、特に、株価の変動が多分に、人々の「気分」に左右される...。
だったら、心の学問が必要なんじゃねーかな。
それが、「新しい学問」だと。そして、こういった議論から、さまざまに、「心理学」の知見を、「経営学」に導入していこうとする。
いわゆる、「心理学主義」。
しかしね。こんなことのレベルなら、昔から、だれだって、ずーっと言ってたことじゃないですかね。むしろ、今のこの、困難な事態は、その「人文社会科学」の知見が、どこまで「科学」たりえているのか、というところだったんじゃないですかね。「心理学」においては、さまざまに「人間」を使った「実験」を行うが、むしろ、この「帰納法」が、どこまでも「お笑い」レベルだからこそ、みんな、どーしたものか、となっていたんじゃなかったですかね。
著者は、「日本軍はすばらしい」と言っておきながら、山本七平が終生とりくんだ、「なぜ日本はこの戦争に負けたのか」、に対しての回答はしない。日本軍の戦略、すっげーじゃねーか。...だから、その「すばらしー」を続けたら負けるって、それ何? 山本七平は、反語として、日本の精神「だけ」主義、を皮肉っただけなのでしょう。ようするに、著者は、議論のレベルをあえて、混同しているんですね。それによって、大家、故・山本七平、を「だし」にして、自分の議論に「はく」をつけようということなんですかね。
そう考えてくると、むしろ、著者のこの「悟りすました」お説教、に対する、みょーな自信こそ、どっから来てるのだろう、となる。
それはもちろん、最初に言った、「経営学」である。
好景気のときは、なんにせよ、あらゆることが「成功」する。
やれば。
しかし、不況になると、どーもうまくいかない。すると、それには「原因」が求められる。原因がないと「困る」んですね(責任も問えないわけだから)。好景気のときは、「原因などどーでもよく」成功を言祝いでたくせにね。
昔の経営学は、素朴に物や人を配置すれば、勝手に儲かると思っていた(これを、ここでは、「素朴経営学」、と呼ぼう)。しかし、うまくいかない。どーしよ。うまくいかないことを、ずっと教えていても、生徒にそっぽ向かれるしな。
しかし、よく考えてみれば、この「素朴経営学」。大変、によくできた、「科学」なんですね。だって、人間の心理を「そこまで考慮しなくても」ここまでのことが言えるんですから。それは、まさに、人文科学において、空前絶後の「成功」を達成した、「経済学」、マネタリズム、のことを言っていると言ってもいい。
むしろ、議論は逆なんですね。人間の心理を、どこまで、考慮しないで、どこまでのことが言えるのか。科学はそうやって、進歩してきた。人間は、矛盾した行動をとる存在であるし、平気で自分を「だまし」てまで目的を達成しようとする、どころか、平気で「自己言及」という、神をも恐れぬ、「反則」をする。
つまり、常にそこにあったのは、「政治力学」なんです。
科学がまず目指したものこそ、この人間の「政治」の、科学からの追放だったわけですね。(そこがうまくいかなかった、東アジアにおいては、科学の進歩で、西洋に大きく遅れをとったとみなされるわけですが、逆に、この政治と科学をバランスよく意識した、非常に含蓄のある、言葉が多く生まれ続けてきた、と言えなくもない)。
心理学主義は、一種の、科学に、「屋上屋根」をさらすような行為と言っていい。もちろん、そういう未来は暗いと言いたいわけではない。だが、言ってみてるほど、革命的でもない。昔の賢者は、案外、もっと過激なことを言っていたものだ。
案外、学問は、ずっと同じところを回っているような姿をみせる。なんとか、昔からある議論を「整理」したい。そういう意志が、これからも、ずっと続くということなのでしょう。

戦略の不条理 なぜ合理的な行動は失敗するのか (光文社新書)

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