太田尚樹『東条英機』

東条英機といえば、戦中末期、ほとんどの、要職のトップに君臨した、他の国々の人々のだれもが、日本の「独裁者」と思っていた人である。しかし、この本を読むと、えんえんと書いてあるのが、いかに彼が「凡庸」であったか、である。
この違いはなんなのだろう。
私たちは、東条をどのように考えたらいいのであろうか。
彼が決定的に台頭したのは、2.26事件だそうだが、そこで、天皇は、あらかたの、側近を失う。その後で、天皇の側近となる存在として、選ばれていく。天皇にとっても、彼のばか正直なまでに、天皇への帰依を語る姿は、御しやすい存在に思えたのかもしれない。
ただ、彼には、もう一つの顔があった。彼は、もともと、満州で、かなり、アヘンにからむ、闇の取引に関わっていたという。その辺りの記述が詳しいのが、この本の特徴である(いろいろ、眠っていた資料が近年、発見されているのだそうです)。
民間寄りの人物として、甘粕正彦、そして、軍側では、東条や岸信介、などを中心として、かなりの規模で行われていたというのだ。

その収入はどれほどであったのか。満州国建国の昭和七年(一九三二)から、十四年(一九三九)まで八年間だけに限っていえば、満州国の阿片による歳入は年々ほぼ倍増で、十四年には十倍の一億二千万円に膨れ上がる。
この中の一部が関東軍に回されたが、満州国を通さずに直接入ってきた部分も大きいから、歳入の実態はかなりのものだったことは想像がつく。

その後、昭和十四年の統計では、岸の指導で産業は拡大しているが、それでも国家予算の六分の一が、阿片による歳入であった。

もちろん、阿片は、国際法違反であり、彼らは、世間に隠れて、このビジネスをしていたことになる。東条は、たんに、凡庸であるから、エアポケットに入って、実力者になったわけではない。お金という、バックグラウンドを持っていたからなのである。日本の政治の歴史を見ても、影の実力者は常に、お金をバックに使ってきたものである。
ちなみに、なぜこの事実を、多くの人が知らないのかと言うと、早い話、東京裁判で、この事実は、裁かれなかったんだそうです。その理由は、もちろん、イギリスを中心として、多くの戦勝国自身が、中国で、阿片取引をやって、もうけていたからですね。
ところで、この、阿片のとりひきについては、非常に興味深い、傾向を示していた。

最後の第三のタイプは、日本軍が万里の長城北側に広がる蒙彊地区から買い上げたり、戦闘の過程で没収した阿片を、占領地の中国人に売る方式である。
売り捌くのは、大陸浪人や「支那ゴロ」といわれる人たちで、中国側にも販売ルートが通じていたことを意味している。しかも、日本側から相手側上層部に、秘密裏に、あるときは公然と、献金される仕組みである。
先にも言及したように、日中あい撃つの戦争中といっても、阿片を通して双方が底辺で繋がっており、日本側から莫大な軍資金が相手側に渡されていたという、奇妙な関係が成立していたことは、驚くほかはない。

もちろん、彼らは、イギリスとも、懇親に、ビジネスをやったのでしょう。常に国際関係とはそういうもので、どんなに、世界中の国々が対立しているように見えても、上の上の上層部の上澄みくらいまで行くと、みんな、「ビジネス・仲間」。
しかし、そんな日本が、あそこまで、戦争を続けられたのの、かなりの部分は、この、アヘン・ビジネスによる、巨万の富が大きかったのでしょう。
しかし、もし、これほどの、ビジネスモデルを、一手に独占している一部の人にとって、戦争をやめることは、この、権益を放棄することを意味するわけです。だとするなら、彼らに、中国からの、撤退という選択肢がありえなかったことは、自明ではないでしょうか。しかし、多くの先進国は、中国側に、ついていきます。
なぜでしょう。もちろん、日本によって中国を「独占」されることには、うまみがないからですね。
この事態は、上記の独占している人にとって、どのように考えられるのでしょうか。
日本はその後、奇妙な自滅を演じていくことになります。
松岡洋右の国連脱退、松岡洋右の日独伊三国同盟(日本の意図はこれによるソ連の牽制だったはずですが、すぐに、ドイツはソ連に進行するわけですね。たとえば、今、反米を語る保守は、これをどう評価するんでしょうね)、東条を中心としての南部仏印進駐(これによって、アメリカ、は日本の在米資産の凍結、石油の対日輸出全面禁止、という、今の、北朝鮮みたいなことになるわけですね)、山本五十六真珠湾攻撃、...。
私も、あまり、極論は嫌なのだが、どうしても、上記の事態が、上記の「アヘン人脈」による、なんとしても、「中国撤退」だけは避けたいの、一心だけで、行動しているようにしか見えないわけですね。
毛沢東も言っているように、日本は、普通に考えれば、「まず中国に勝目はなかった」。

日華事変が勃発した翌年の昭和十三年五月、毛沢東は「持久戦論」でこう述べている。
「日本は一見すると強いが、国が小さく資源も乏しく、兵力が少ない。中国は弱いが国土が広大で資源に恵まれ、人口も兵力も多く、長期戦に持ちこたえることができる。
現在、日本は主要な都市や交通路を占領しているが、広大な土地の中で全住民を味方にして広範な遊撃戦を展開し、持久戦を堅持しながら戦略的反攻をとる中国が最後の勝利を収めることになる」
昭和十三年五月といえば、「徐州徐州と人馬は進む」で有名な徐州作戦のさなかで、蒋介石軍が日本軍の前に敗退を重ねていた頃である。
それを横目で見ながら密かに勝利を確信した毛沢東は、「孫子の兵法」の「敵を知り己を知れば百戦あやうからず」を実践していたのである。

私には、どうしても、日本が本気でこの戦争に勝とうとしていたのかが、疑われてならない(もちろん、一人一人の兵隊は、心底それを願って生きていたことを疑っているわけじゃない)。もし、本気で勝とうとするなら、こういった、ジリジリと自分たちが追い込まれていく事態を、なぜ、忍従するだけなのでしょう。
つまり、私は、たとえこうなったとしても、日本がこの、阿片の大地を手放して、国に帰ることに比べれば、ずっと「おいしい」、そう考えていた連中がいた、という事実だけなんじゃないですかね。こうやって、一秒でも、時間のばしをしているうちに、なんとか「手打」にもっていけたら...。
しかし、日本は、戦争末期、完全にアメリカにその「手打」が通用しなかった。それを「恨む」のは勝手だが、問題は日本に「アメリカに申し開きのできるような」正義があったのか、のはずです(そもそも、アジア解放をうたった、日本のこのアジア進出は、欧米による、阿片戦争、への対抗的意義によってだったはずですよね。それが、彼ら以上に、必死になって、アジアを阿片漬け、でしょう。アメリカ以前に「日本自身に申し開き」はできたんですかね)。
あらゆることは、「政治」です。負けた、と思った時からこそ、政治は始まる。敗戦によって、満州の権益を剥奪され、...。それで、彼らの、阿片ビジネスは、完全な敗者なのでしょう。しかし、そんなことは、庶民には、なんの関係もない。日本が滅びたわけじゃねーんだし、実際、アメリカは、日本を生き延びさせた。
そんなところで、「あきらめる」ような不純な動機で行動していた連中は、最初から政治に関係してもらうべきじゃなかったのでしょう...。

東条英機 阿片の闇 満州の夢

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