平松伸二『ブラック・エンジェルズ』

西洋文明において、善と悪、という対立軸は、自明のものと、受け取られる。
アニメの、ポケモン、がアメリカにおいて、さまざまにストーリーを変えられて放送されたというのも、もっと、善悪が分かりやすいように「しなければならな」かったからと言われている。
掲題の、昔の、週間少年ジャンプ、の漫画では、徹底的に弱者が、その場面場面での、強者による、暴力に翻弄され、次々と、命を失なっていく。それを見ている読者は、この、なんともしようのない、不条理な暴力に、義憤にかられ、それを、主人公の、雪藤にオーバーラップさせる。
(もちろん、こういった作品は、水戸黄門を始め多くあるし、この作品自体、必殺仕事人、との酷似が激しい。言ってみれば、忍者物、または、スパイ物、ですね。「DARKER THAN BLACK」もその一種でしょうか。)
しかし、そこにおいて、一つだけ、明確に忘却されている視点がある。主人公の雪藤の心情である。彼は、読者のカタルシスを実現するために、あえて、自らの手を汚す役割を引き受けるが、彼がそのことによって、どのような苦しみを感じることになるかは注意して読まなければ、意識にものぼらないだろう。
文化人類学の知見は、そのことを、スケープゴート、という言葉であらわす。各部族は、自部族の中で、ある「例外的な」役割を演じる、個人を、たちあげていく。それは、いわば、その共同体が、うまく「活性」化されながら、存続していくために、どうしても必要とされる、調整弁のようなものだ。この、スケープゴートは、さまざまな、「別名」をもって、さまざまな場面で、その役割をになう。
折口信夫の言う、貴種流離譚もそうだろう。
殺人という、一般にその共同体において、忌み嫌われる行為は、本来なら、だれもそれに手を染めたくないはずである。どんな、恨みを買うことになるかも分からない。そうしたとき、そのスケープゴートは、その「英雄」的行為によって、多くの礼賛を受ける一方で、そういった「穢れ」を身にまとう存在として、忌避される存在ともなる。つまり、英雄と被差別者は、常に、表裏一体であったことは、強調してもし過ぎることはないのだろう。
こういった事態に対し、ハイデッガーは、「あえて引き受ける存在」としての、主体的な人間の確立を宣言するのだが、もちろんそれは、ナチスのその後の敗戦となる経緯を意味したわけだが、これに反して、日本の死刑制度においては、だれが首吊りの下の台をはずしたかが、一見、分からないようになっている。つまり、多くの死刑執行人が選ばれて、みんなが、同時にそのボタンを押すことで、ルーレット式に、だれかの、その行為が直接の原因であることは間違いないのだけれど、それが、誰だったかは、分からない、そんな仕掛けになっているのだそうである。つまり、こういった「姑息」な仕掛けに頼らなければ、死刑、一つ実現できない現代は、ハイデッガーの言う「主体的に選ぶ人間」のイメージから、ずいぶんと、後退してんじゃないか、と揶揄もしてみたくなるわけだ。
過激な、自由主義者は、裁判制度から、警察制度、はたまた、軍隊制度も、「民営化」すべきではないか、と言う。その視点の重要なポイントは、もちろん「効率化」である。国家による、運営が、さまざまに、非効率な運営に帰着するなら、民営化して「競争」させることによって、その問題の「担保」とするしかないであろう。しかしそのとき、多くの人たちは、ある「混乱」に陥る。民間企業に死刑宣告って、民間人に殺害されるのと、何が違うの? 民間警察に、拘束され、牢屋に入れられるって、民間人に、拉致監禁されるのと何が違うの? しかし、ここにはある、混乱がある。最初に書いたように、これは、巨大な官僚組織が、逃がれることのない、非効率、無駄使いの問題を議論していたはずだ。実際、今でも、裁判制度、警察制度、軍隊制度、のさまざまな、機能は、実際、民間にアウトソーシングすることで、効率化、を実現しているわけで、そうであるなら、「全部」か一部かの違いしかないことに気付かないといけない。
むしろこの問題は、今まで、思っていた、善悪の価値基準が揺さぶられることによって、人々は「不安」になる、ということなのだろう。善悪の判断は、「神にも近い」はるか上に鎮座まします、雅なお方に、仰がなければ、世間様の、おしめしがつかない...。その辺の、ぼんくれの、せがれが、右だ左だと、こっちの人生を左右されたら、かなわない...。
前から言っているように、教師も、弁護士も、裁判官も、(本来の意味での)聖職者では「ない」。彼らは、ある「国家資格」に基いて、行動することで、その資格を与えられている。
つまり、そこにあるのは、(慣習法を含めた)法、に基づく、秩序形成なんですね。
私たちは、いいかげん、その「おかみ」としての国に、なんらかの幻想を抱くのをやめるべきなのであろう。私たちが、その、「おかみ」国幻想、から、脱却するとき、それこそ、アメリカ合衆国において、「国家など存在しない」(つまり、あるのは、各州国家、だけ)となるのであろう。そして、その後で始めて、そういった機関とは、一体なにを行うためにある、システムなのか、を考えるきっかけ、となるのだろう。
いずれにしろ、人を殺すことでしか解決がないのなら、それは、人類の敗北とも言える。究極的には、その悪は、人類を根絶やしにしない限り、無くならないと言っているのと同じだからである。
では、その辺りを、ゲーム理論は、どのように説明しているのだろうか。それは、実際、道教的な世界観に酷似したものとなり、数学的に記述できる(リチャード・ドーキンス『利己的遺伝子』では、実にスリリングに記述してあった)。全構成員がもし、全員、「博愛主義者」であったとしよう。そして、だれも、他人が悪を行うと想定しないで行動しているとき、ある一人が自らの戦略として、「悪」を選んだなら、彼の戦略は、ことごとく、成功するであろう。そして「悪」の勢力が、全体を席巻するように、なっていく(遺伝的プログラミングだ)。しかし、話はこれで終わらない。そうやって、悪が勢力を拡大していくと、今度は、「だれもがどろぼう」と思うことの方が当たり前になる。すると、奇妙なことに、ある逆転が起き始める。あれほど、なにもかも、うまくいっていた、悪の戦略が、全然、おいしくなくなっていく。なぜなら、敵も悪の戦略で自分に挑んでくるからだ。お互いガチンコを始めると、どちらも深刻なダメージを毎回受けることになる。彼らは、彼ら同士で、どこまでも、「疲弊」していくことになる。
つまり、どういうことか。どっちにしろ、世界には、なんらかの「静止点」であふれている、ということなのだ。
しかし、その静止点も、必ずしも、ずっと、静止点、であるわけではない。マルクスが指摘するように、原始的蓄積。テクノロジーの発展などを通して、絶えず、その均衡は、揺さぶられ、人類は今に至る(つまり、弁証法だ)。
もし、無敵の兵器を、デスノート、のように発明したと思う人がいるなら、その人は、徹底して、悪の選択を選び始めるかもしれない。しかし、その究極的な最終形態、が現れたとしたなら、その後の世界とは、どうなるだろう。
核兵器こそ、それに相当するもの、と指摘したのが、「ヒロシマ・ノート」の作家、大江健三郎だったのだろう。その、最終兵器を人類が持ってしまった「後の」世界とは、それまでの世界とは、どう違うのだろうか。それは、「戦争の不可能性」を意味する。もう、人類は、それまでの意味での、素朴に「敵味方」によって行う戦争は、不可能となった。もし、お互いが相手の滅亡を目指して、死力を尽せば、「簡単に」実現できるだけでなく、自分たちも「簡単に」殲滅される、からである。ボタンさえ押せば。もうそこには、それまでの、ホメロスイリアスから、なにからの、英雄たちの、死を賭けた「殺し合い」は、存在したとしても、もうそれを「戦争」とは呼べなくなったのである。
世界は、より、政治的になった。
しかし、実際は、近年においても、イラクやアフガンでの、アメリカの行為を始め、武力衝突は収まる気配がないではないか。もちろん、そうなのであるが、それは、どちらかと言うと、この、21世紀における、あらたな、「植民地政策」のようなものと考えるべきものなのであろう。アメリカは、もちろん、国内向けには、戦争の「意匠」を使って、国民の戦意昂揚を行ったものだが、実際起きていたことは、(アメリカ側から見れば)軍隊を使って、「警察行為」をしている、という表現の方が、正しい。
もちろん、ここで、人類が何世紀も続けてきた、善悪の議論に決着をつけるとかそういうことを言っているわけではない(もちろん、人類が続く限り、人々の争いが無くなることはない)。ただ、最初の、ゲーム理論に戻るなら、ある日、悪を選択したその、ユダ。彼の行為によって、亡くなった人の、命は、もう蘇えることはないのである。彼は、そういう意味で、ゲームオーバー。どんなに、リセットして再開したくても、かなわない。しかし、たんに、彼が生き延びるだけなら、多少の食料が用意されれば、そういう生き方はできたであろう。そうすれば、彼の知識から、知恵から、もしかしたら、彼の遺伝子からが、それなりに、人類の生の存続に貢献するものであったかもしれない(そうであれば、人類にとって、いや、この人類を乗り物(ヴィークル)とする、この利己的遺伝子、にとっても有利な選択でありえたかもしれない)。
荻生徂徠は、個性、ということを言う。彼が政治を行う上で、それぞれの人には、いろいろ欠点がありつつも、他人にはない、特徴をもっているものだ。彼は、その欠点によって、全否定するのではなく、それぞれの、その利点をうまく、その場所にあてはめることで、最大の効率を目指す。これを、丸山眞男は、近代の芽生え、という。もちろん、彼は、戦中日本を揶揄しているのである。
戦中日本は、いわば、金太郎飴、であった。みんな、口をそろえて、非国民、人非人国賊、そう言って、自分の理解できない、出る杭、の芽をつぶしてきた。しかし、そうやって、純潔、純粋培養された、集団は、意外に、つぶしがきかないものだ。
たとえ、相手が敵であったとしても、その敵の「個性」を使ってでも、目的を実現してみせる。それくらいの、度量がなければ、政治はできない。
もちろん、先ほども書いたように、人は死んだら、ゲームオーバー。その私怨は決して、なにものによっても、あがなわれることはない(人生は常に一回性なんですね)。
そうであっても、人類がもし、食料の問題にそれなりにめどをつけられたとして、その後、これくらいの世界観をもつことは、それほど難しいことなのだろうか(私には分からない...)。