金谷治『易の話』

この、昔に書かれた、易経の紹介本を読んでいて、ある、インスピレーションが浮かんできた。もちろん、世間の人には、ぴんとこない話をまた、してしまうのだろうが、どう思われようとかまわない。関係ない。
儒教に興味をもち始めてから、しきりに思ってきたことがある。孟子性善説、四徳にもあるように、儒教は、よく、仁や義と同列に「礼」を並べる。
しかし、どうも、ぴんとこないわけです。つまり、仁と義はいいんです。これは、私の論語読解と対応している。私の考えでは、論語は、「すべて」この二つに収斂している。この二つさえあれば、孔子の言いたいことは、すべて尽せる、そう思っているわけです(こういう読み方の、「最初に」道を開いた人として、日本の伊藤仁斎を意識しているわけですが)。
そうすると、ちょっと、「困った」ことになるわけです。礼というのを、どーしたらいいのか。論語を読んでいても、なんとも、補足的な役割にしか思えてこない。
もちろん、政治システム的に、礼の統治が重要とか、そういうことが言いたいのなら、勝手に言ってればいいが、私は、上記のように、論語は、仁と義、で尽きている、という考えの延長で述べているわけです。すると、礼という、あまりにも「わざとらしい」こんなものに、なんの価値? となるわけです。
ここで思うわけです。どうも、儒教において、ある、「ごった煮」が起きているのではないか。自然科学的に言うなら、仁と義、は一つの独立した「分野」なのだろう。そこに、礼が「寄生」させられている、そう考えられる。
しかし、これには、猛烈な違和感があるわけです。上記の評価は、不満足である。つまり、これは、むしろ、これ独自の、まったく、「独立した」、分野として考えられる可能性はないのであろうか。
そんな、私の思い付き、を、インスピレートしたものこそ、易経、でした。
儒教は、宋の時代に、朱熹によって、朱子学として、体系化されます。これが、その後の、科挙という公務員試験のベースとなっていくそうですが、この学問の、体系を、四書五経と言います。論語は、四書の一つとなりますが、易経は、五経の一つとなります。
易経は、周易とも言いまして、周代に体系化された、占いの一つです。人によっては、なぜ占いが学問なのか? と思う人もいることでしょう。
しかし、その発想は「逆」です。占いは、人類が、現代に至る過程において、さまざまに、重要な役割を担ってきました。特に、農耕文化との関係が言われます。人々が重要な選択を迫られるとき、天の声に耳を傾けることは、アニミズム的にも、意味があったのでしょう。そして、重要なことは、例えば、天文学や、気象学、灌漑土木工学の知が、数学によって、当時においても、一部、特権階級に独占されていたとき、その、数の、理解は、占いと、紙一重に思われていたことでしょう。どちらにしろ、「よく分からないが、計算(占い)すると合う」と言っているわけだから。
最も、占いが、中国文明において、隆盛を誇った時代こそ、あの「神話時代」殷王朝、と言われています。

殷王朝は神政時代である。そこでは、祭祀、狩猟、軍事といった国家行事のすべてについて、また十日ごとの区切りの吉凶や稔りの豊凶、それに天候などについても、すべて神意をうらなった上で、事を決した。その神意をうらなう方法が卜である。亀卜ともいわれるように、それは亀の腹甲を用いるが、また多くは牛の肩甲骨である。それを磨いて一点を掘りくぼめ、火であぶって熱をそこに集中させると、甲骨はそれを中心として表面に亀裂を生じる。

しかし、時代が下っていきますと、亀甲占いは、衰退していき、それに変わる形で、周易が、認知されていきます。
周易は、占いであることは、間違いないのですが、言わば、これは、学問と占いの「中間」に位置している、というような表現が、ふさわしいのかもしれません。私たちはここに、「原初の哲学」をみることでしょう。
もちろん、易は、六回、コイントス、すれば、占えるという意味では、あまりにも、シンプルすぎる、と言えますし、そういう意味では、「だれにでもできます」。しかし、問題は、その「解釈」です。その結果は、なにを言っているのか。これが、一筋縄ではいかないんですね。そこに、多くの言葉が重ねられます。すると、今度は、それらの言葉が、「何を言っているのか」、つまり、また、解釈を強いられます。つまり、次第に、占いは哲学的になっていった、ということなんですね。
さて、最初の話に戻りましょう。私がここで、注目するのは、「最も運気が強い」乾(かん)の卦の「文言伝」についてです。

四徳のうち、元は物を生ずる元(はじめ)、人間の道徳でいえば最高至善の仁に当るから、善の長である。亨は物を生育し通達させるはたらき、道徳でいえばその理想的秩序の集中的表現たる礼に当るから、嘉の会、嘉(よろ)しきことの会(あつ)まりである。利は物の生育を遂げさせ各々その宜しきを得さしめるはたらき、道徳でいえば義であってしかもその調和を得た状態、貞は物の生育を成就充足させるはたらき、道徳でいえば智にあたり、智は物事を成しとげるための根幹である。

易経〈上〉 (岩波文庫)

易経〈上〉 (岩波文庫)

これが、あの有名な、「乾、元亨利貞」の、儒教的な解釈になっているわけです。
よく、言葉というのは、こういうことが起きます。一つの言葉に、「ある理由で」別の言葉が「繋げ」られる。もちろん、こういったことは、恣意的な、無理のある場合が多いものですが、そういったことは「自然法」的な言語アプローチからは、その区別は無意味です。なにより、その結合が、世間に一般的に認知されていったとき、それは、たんなる、表現上の話ではないからです。だれにでも、通じるなにかであるなら、それは、もう一つの現実であるはずなのです。
上記でおもしろいのは、その「礼」の解釈ですね。もともと、礼とは、あらゆる万物が、その「あるがままの方に向っていく姿」を言うわけです。本来はそういうものであり、最初に、それを記した人は、あくまで、人々がそういった方向に流れていく姿を記した、という方が正しかった(「礼記」ですね)。ところが、歴史が進むにつれて、むしろ、人は、この、礼に「従わなければならない」となっていく。しかし、それでは、本末転倒なんですね。礼は、もともと、自然に沸き起こっていくものであったし、自然な流れそのものだったわけなのです。
どうも、とりとめのない話になってしまった。とにかくも、論語が言いたいことの、伏流に、もう一つの考えを示唆できただけでも(しかも、それを、占いとからめて話せたなんて、素敵だ)、今回はよしとします。
論語の中から、もう一つの「なにか」を、つかみだす...。)

易の話 (講談社学術文庫)

易の話 (講談社学術文庫)