加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

昨日の、ニュースステーションで、アメリカのスマートグリッド戦略の、簡単な紹介があった。
とにかく、言えることは、自然発電は、発電が、極端に、天候に依存するため、それ相応の、電力網を構想しなければ、「効率」化しない、ということのようであった。ある時間帯に、風もやみ太陽は地球の下に隠れ、おとなしくなったと思ったら、逆になり、大量の電気が急に発生しても、そんなに、世界中で急に発生した電気が、一度に流れても大丈夫な送電網になっていない。ここには、なんらかの、アイデアが必要である。
このことは、自然発電を市場に乗せるには、最初から、ある種の、アイデアがなければ、「極大化」できないことが、最初から分かっていた、ことを意味する。
スマートグリッドは、もう一つの側面がある。これによって、人々は、電気を自分が今、どれくらい使っているのかを、時々刻々と意識するようになる。
電気は、たんに電気ではない。この情報化社会においては、あらゆるものは、情報とセットにしてしか、考えられない。電気もこれからは常に情報とセットで流れるようになる。
あと、今日のニュースを見ていたら、あいかわらず、待機児童、の話が、改善していないという話であった。もちろん、安易に、規制もなく、好きにやらせたら、それなりの事故もあるのかもしれない。しかし、おかしいでしょう。あきらかに、ここには、なんらかの、裏の力が働いているのだろうか。今ある、託児所の、収入を安定させるには、それくらいの、受給ギャップがあった方がうまみがある勢力がいるということなのだろうか。医者不足も、救急患者の、たらい回し、もそうだが、みなさんは、どう思われるだろうか。
人間の知恵というのは、どこか、欠陥があるということなのだろうか。これくらいの問題にも、なんらの処方箋を与えられない。たとえば、一回、完全自由化してみる、というのはだめなのだろうか。そうすれば、それぞれ、能力のある所ない所で、市場淘汰されるだろう。私には分からないが...。
さて、時事ネタはこれくらいにして、掲題の本であるが、ちょっとびっくりした。感動しました。
(最初に言っておきますが、この本は、相当に、内容が豊富です。とても、全部の自分の興味深かった部分を、考えることはしていません。)
著者である東大の教授が、普段は、大学生、大学院生を教えているのだが、たまたま機会があって、都内の高校の歴史がかなり好きなそういう同好会のようなところにいる高校生、20人くらいに向けて、日本の近代の歴史を、講義する、という内容になっています。
まず、おもしろいのが、著者は、たしかに、高校生向けに、歴史を紹介する、というスタンスである。つまり、非常に末端に対して、研究する、という感じではありません。瑣末な議論より、全体を掴んでいこう、という姿勢がわかります。高校生という、専門知識はまだ、共有されていない、子供たち。しかし、彼らは、言わば、歴史オタクですから、ミョーに知っています。しかし、その知識は、なんと言うんでしょうか。あの味気ない、高校の歴史の、さまざまな、知識を、片っ端から、頭に詰め込んでいる、という感じでしょうか。
そこに、著者は、どんな、レクチャー、をもってくるのか。
日本の、近現代史は、一種の、「タブー」である。
ずっと、そうであった。
高校の日本史、世界史、といっても、だいたい、近現代史、に行く前に、時間がなくて、終わってしまう。勝手の独学してろ、ですからね。
また、戦後の、GHQによる、占領政策は、完全な言論統制、であった。別に、それが悪いと言うつもりはない。この本にもあるように、戦争とは、相手国の「社会契約」の書換えにどうしても行き着くのだから。すると、戦中に多くの人が話していた言葉は、使われなくなり、だれも、ひき継がなくなる。ある「喪失」が起きる。
(これを、例えば、アニメ「DARKER THAN BLACK」でいう「記憶の消去」と対応させて考えてみてもいい。いわば、終戦直後に、日本人は全員、ある「記憶の消去」をされた、そう考えてみてもいい。そして、それが、憲法改正、であり、教科書の墨塗り、なのでしょう。)
しかし、その後の世代が、それを受け入れるかどうかは、その後の世代が選ぶことのはずだ。
日本の明治開国は、二つのアポリアから、始まっている、と著者は言う。
一つは、もちろん、不平等条約、である。この条約の解消のために、日本は実に長い年月を必要とした。日清戦争の勝利で一方が解消され(治外法権)、もう一方は日露戦争の勝利によってであった(関税自主権の欠如)。これほど、長くかかったこと、また、この解消が、戦争によってしかなされえなかったことは気になる点である。
もう一つは、山県有朋に対する、(以前も紹介した)シュタイン先生の、ご託宣にある。

ロシアが朝鮮半島に下りてきて、東海岸の元山(げんざん)のあたりに港をつくることができたとすれば、極東艦隊の根拠地となってしまう。しかもここはリアス式海岸で非常に深く、大きな船が安全に泊まれる。シュタイン先生は実際に名前を挙げているのですが、日本海に面した元山沖の永興港というところをロシアが艦隊の基地にしてしまったら、ここは暖かく凍らない海ですから、対岸の新潟などは本当に近く感じられる。

ロシアの、鉄道が、もし、ウラジオストック辺りで、終っているなら、それほど、怖くはなかった。あの辺りは、港が冬になれば凍るし。しかし、もし、朝鮮半島をロシアにとられたなら、どうなったであろう。ロシアからの鉄道を朝鮮半島まで引き、一気に、軍隊を鉄道で、朝鮮半島まで運ぶ。そして、あの朝鮮半島のいりくんだ、港に、大量のロシア艦隊を並べる(ここで、鉄道、というテクノロジーが登場することは、注目に値する。シュタイン先生は、実際、欧州での、多くの鉄道を使った戦争を見ていた)。
つまり、日本にとっての、安全保障を、どのように具体化するか、であった。
掲題の本でも指摘されているが、日本の植民地政策は、第一次世界大戦までは、おおむね、軍事的な、要衝、を抑える意味が強かったという、世界的にも、めずらしい特徴があった(第一次世界大戦での、ドイツ領侵攻もそうだ)。
では、問題は、なんなのでしょう。もちろん、これだけのことの実現に、「戦争」は割に合うか、だったのでしょう。戦争は、空前絶後の、資金の浪費なしには、勝利になりません。つまり、「もと」が取れない、ことこそ問題なのです。
もと、がとれなかったとき、その不満の矛先は、どこに向かうでしょう。
あと、私は、もう一つの問題があると思います。それは、日本の朝鮮半島支配が、世界の他の欧米の植民地と比べても、かなり、残虐な側面があった、と、国際連盟の場や、アメリカの議会で、さかんに、語られていた、ことでした。
なぜ、日本は、朝鮮に、もっと、「友好」的に、なれなかったのでしょうか。もっと言えば、あらゆる意味で、彼らに、自治を、徹底的に認めるものでなかったならば、その正当性は、決して得られなかったのではないか(そしてそれは、中国についても言えます)。

政府には長州藩、それから薩摩藩、土佐、肥前も加えると四つ、幕末の雄藩だけが、結局、政府ポストを独占している。だから、民党である自由党や改進党のメンバーは、金も頭脳もあっても、藩閥政府の内部に食い込めない。
今だったら国家公務員の一種試験など、試験による官僚の任用がなされていますし、内閣の大臣になろうとすれば、その半数は国会議員から選ばれるから、国会議員を狙っておけば大臣にだってなれる。けれども当時、このような政党を基礎とする議院内閣制や国家の試験制度ができる前の人事は、藩閥政府が握っていました。それで福沢は、朝鮮が日本の自由になるなら、つまり日本の勢力圏に入れば、その新たな領土に対して、今こそ、政党員が新天地に出かけていってポストを取ったらどうか、こういいます。実際、日清戦争後には台湾が割譲され、朝鮮に対する日本の影響力は格段に大きくなりました。台湾総督府ができ、その後、日露戦争を経て朝鮮総督府もできる。これは、数千人規模の新しいポストがきるということです。

日本の人権派は、こういったように、どこか、後めたい、強行派に、足を向けて寝れないような、そんなひ弱さを感じます。彼らが、人権派をきどれたのは、言ってみれば、彼らが、「貴族」的な身分を手に入れた後だったから、なのかもしれません。
しかし、そのことを、考察するにも、今、自明に思われている、「民主化」が、実に、長い時間をかけて、実現してきたという点を抑えておく必要があります(普通選挙の実現までの道のりを言っています)。そして、常に、その時々で、その「意図」していたところは、そう単純ではなかったことです。

戦争には勝ったはずなのに、ロシア、ドイツ、フランスが文句をつけたからといって中国に遼東半島を返さなければならなくなった。これは戦争には強くても、外交は弱かったせいだ。政府が弱腰なために、国民が血を流して得たものを勝手に返してしまった。政府がそういう勝手なことをできてしまうのは、国民に選挙権が十分にないからだ、との考えを抱いたというわけです。
宣戦講和の権利は内閣、もしくは国務大臣の輔弼によって天皇が行なう。で、議会において、外交についてはあまり議論ができない。法律で抑えることもできない。予算で抑えることもできない。議会はいろいろと制限はあるけれども、しかし、国民の意見を反映させる手段は議会にしかないのだから、少なくとも、国民にあまねく選挙権を持たせて政府に対する圧力の大きさを大きくするしかないのではないか。こう考えるわけですね。

おそらく、この視点こそ、(いい意味でもわるい意味でも)重要でしょう。国民は、国家をコントロールできなかった。
さて、日本がなぜ、この戦争に負けたのか。
たとえば、石原莞爾は、日本の、軍が常に暴走していく、構造を決定的にした、満州事変の、当事者であり、当時も、最も有名な、軍人でした。国民的な人気も高く、彼は、その国民の、戦争欲求に、答える形で、実行に移します。

石原の報告は二つの主張からなっていますね。一つは、日本とアメリカがそれぞれの陣営に分かれて、航空機決戦を行なうのが世界最終戦争であると。そして二つ目は、対ソ戦のためには、中国を根拠地として中国の資源を利用すれば、二十年でも三十年でも持久戦争ができる、このような考えを主張しています。

同じ時期、石原が陸軍大学校で講義したノートが残っているのですが、ここでも石原は、持久戦争というのはナポレオンがいったように、「戦争で戦争を養う」、つまり占領した先の地域で徴税し、物資や兵器は現地で手に入れ、そこで、「自活」すればよい、とも述べています。

では、この、石原の、兵站論は、なぜ、うまくいかなかったのか。彼は、満州における、現地中国人による、「自治」を主張しましたが(たしか)、実態は、完全な、傀儡政権でした。それは、朝鮮半島も同じですね。彼らは、本質的に最後まで、日本に敵対する勢力であったし、最後まで、日本へのゲリラ戦を続けた。
さて、日本がなぜ、この戦争に負けたのか。
それは、負け、しかありえなかったから、なんですね。それは、日本軍が、優秀じゃなかったから、ではない。つまり、長期戦になったなら、どっちにしろ、日本もドイツも勝てなかった(以下は胡適ちう人の発言だそうですが、この前の、毛沢東の引用と酷似してますね)。

中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり、次の三つを覚悟しなければならない。第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。第二に、河北、山東、チャハル、綏遠(すいえん)、山西、河南(かなん)といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない。我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、二、三年以内に次の結果が期待できるだろう。[中略]満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。
(「世界化する戦争と中国の「国際的解決」戦略」石田憲編『膨張する帝国 拡散する帝国』所収(東京大学出版会))

(この辺りから、もう少し、庶民の実情を見ていきましょう。)
いずれにしろ、国民はこの戦争の全体像を知らされることは、ありませんでした。もちろん、地元の新聞には、地元でだれが亡くなったのか、は分かるようになっています(葬式は重要ですから)。しかし、各地方紙に書かれている死者を合わせて、日本全国で、どれくらいの人が、亡くなっているのかは、各地方紙を見ていても、まったく分かるようになっていません。
なにも知らない国民は、国の推奨に乗せられて、満州に移民をしていきます。終戦時、相当な人数になっていました。しかし、彼らは、本当に、こんなところに来たかったのでしょうか。

飯田周辺は養蚕がさかんでアメリカ向けの良質な生糸を生産する地域として有名であいたが、世界恐慌による糸価の暴落で農家経済は打撃をこうむりました。そうしたなかで、三〇年代半ばから、養蚕から他の作物への転業がうまくすすんだ村では、移民が少なかったことが検証されています。転業がうまくすすまなかった村というのは平坦な土地が狭く、山がちの地域が多かったのですが、そのような地域では、国や農林省などが一九三八年から推進する、満州分村移民の募集に積極的に応募する、というよりは、応募させられてしまうのですね。

しかし、ごぞんじのように、ソ連の侵攻によって、多くの人が、捕虜として、ソ連の労働者として、連行されます(一部、軍関係者が、こういった、庶民と「引き換え」に、つまり、庶民を売って、日本に帰還したのでは、という話はよく言われますね(
そうじゃなくて、賠償のかわり、って話だったか...。ちょっといいかげんなことを書きすぎだ、日本への帰還事業が、想像を絶する、つらさ、だったことは想像に難くないわけですね。
そして、なんと言っても、最後は、この、食糧問題、でしょう。

戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つだと思います。敗戦間近の頃の国民の摂取カロリーは、一九三三年時点の六割に落ちていた。四〇年段階で農民が41%もいた日本で、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。日本の農業は労働集約型です。そのような国なのに、農民には徴集猶予がほとんどありませんでした。工場の熟練労働者などには猶予があったのですが。肥料の使い方や害虫の防ぎ方など農業生産を支えるノウハウを持つ農学校出の人たちをも、国は全部兵隊にしてしまった。すると、技術も知識もない人たちによって農業が担われるので、四四、四五年と農業生産は落ちまくる。政府が農民のなかにも技術者はいるのだと気づいて徴集猶予を始めるのは四四年です。これでは遅い。

以前も言いましたが、ナチス・ドイツ、がどれだけ、食糧問題にとりくんでいたか。終戦近くまで、国民は、かなりの食糧を手にしていたそうである。こう考えてくると、日本のナショナリズムは、むしろ、戦中にあったのかすら疑いたくなる。
最後になりますが、日本が、この戦争をどうやって終わらそうとしていたのか、に注目しましょう。しかし、それに対する、正式な答えとして残っているものは、以下のような、まさに「幼児」的な、レベルの回答でした。

さらに、四一年十月十八日に東条英機が首相となると、東条は、「対米英蘭蒋(蒋とは蒋介石、つまり中国のこと)戦争終末促進に関する腹案」という文書を、陸海軍の課長級の人々につくるように命ずる。これが戦争を終わらせる計画ですよ、と天皇の前で説明するための材料をつくらせる。ただ、この腹案の内容というのは、他力本願の極致でした。このときすでに戦争をしていたドイツとソ連の間を日本が仲介して独ソ和平を実現させ、ソ連との戦争を中止したドイツの戦力を対イギリス戦に集中させることで、まずはイギリスを屈服させることができる、イギリスが屈服すれば、アメリカの継戦への意欲が薄まるだろうから、戦争が終わると。すべてがドイツ頼みなのです。また、イギリスが屈服すれば、アメリカも戦争を続けたいと思わないはずということで、希望的観測をいくえにも積み重ねた論理でした。

なぜ、この答えが、「むごたらしい」か。言うまでもありません。他人依存なんです。他人が自分が思っているように、ふるまってくれるはずだ。もっと言えば、世界はこーなるはずだ、ですね(なぜなら、自分がそう願っているから)。希望するのは結構ですが、その希望が実現しないから、自分たちで道を切開くんでしょう。その自分たちの能動的なアクションを書くことが「終わらせる」の意味でしょう。
ようするに、そうやって言えるようなレベルでは、何もなかったから、こうやって、言い訳に終始したんだけど、自分たちの、「本気」度は分かってくれるはず、分かってくれるよね...。
日本がなにをやっていたのか、やっぱり分からない、って、こういう感じに、結局は、どうしてもなるのが、なんとも、どうも...。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ