岡本裕一朗『ヘーゲルと現代思想の臨界』

ヘーゲルと言えば、18、19世紀、つまり、江戸時代の、ドイツの哲学者、である(高校の倫理の教科書にでてくる)。ちょうど、フランス革命やナポレオンと同時代の人になる。
こんな昔の人がなんだと言うんだ、というのが正直なところであるが、早い話、いろいろなところで、あいもかわらず、この人の議論が、ついて回っている、というのが、現在も変わっていない、ということのようだ。最近であっても、難しい議論になると、なんやかんやで、ヘーゲルとのなにがしかが、批評されていたりする。
たとえば、フェミニズムと言って、ちょっと難しめの議論を眺めてみよう、として、(この前名前だけは紹介した)ジュディス・バトラーを見てみると、そもそも、彼女のバックグラウンドは、ヘーゲル哲学研究者だったりする。
もちろん、理由はある。それは、共産主義社会主義の教祖みたいな存在である、マルクスが、ある意味、ヘーゲル哲学の拡張のような形で、『資本論』など、多くの議論をしたから。つい最近まで、世界は、冷戦と言って、こういった勢力を無視することはできなかった。そのある意味、ネタ元だと言うんですから、注目しないわけにいかない。
さて、今回の記事ですが、ここで、この、最も難解と言われる、ヘーゲル哲学の、ちょー簡単、読解、をやってみたいと思います(気持ちだけ、さっして下さい)。
そうは言っても、なにから、とっかかればいいのでしょう。まずは、彼の著作とされているものがどれなのかを、知る必要があるでしょう。と、図書館でも行きますと、ものすごい数の全集が現れます。
ところが、安心めされ。彼が生前に書いたとされる本は、『精神現象学』、『論理学』、『エンチクロペディー』、『法哲学』、しかない。しかも、『エンチクロペディー』は、今全集にあるような厖大なものじゃなくて、あくまで、大学の講義用のメモを、一般向けに出版した程度のものだそうだ(議論対象から省略)。その他、大量に全集にあるものは、細かな論文と、彼が突然、コレラだかで他界した後、大学の弟子たちが、授業のノートなどを、いろいろつなげて、本にしたものにすぎない(どこまでが、ヘーゲルなのか、判然としない)。
『論理学』については、カントで言うカテゴリーのそれぞれの有機的なつながりが整理されているとされているのですが、掲題の本では、専門家でさえ、まだこの本の総
体的な解釈も確定していない、というので、省略(『法哲学』については、最後に少しふれます)。
ということで、『精神現象学』ですが、始める前に、そもそも、彼の体系のプログラムが、どういったものだったか、をふりかえると、『精神現象学』を書いていた頃は:

これが、『エンチクロペディー』では:

  • 論理学
  • 自然哲学
  • 精神哲学(上記、精神現象学、はここに少しだけ含まれる)

つまり、この本は有名なんですが、晩年は、彼の体系としては、放棄されているんですね。
さて、目次は:

  • 意識
  • 自己意識
  • 理性
  • 精神
  • 宗教
  • 絶対知

掲題の本によると、精神、宗教、は、もともとの構想になかったもの(自然哲学、精神哲学、に含まれるんですかね、論理学、の後の話)、ということなので、省略。
さて、この辺りから、本格的なテキスト読解を始めなければならないのですが、とにかく真面目に読んだら大変。たとえば、こんな感じである。

ここで思い出したいのは、『精神現象学』序文において、ヘーゲルが命題形式で議論することを批判していたことだ。「神が存在である」という「主語 - 述語」から、「主語」を消して(「......は存在である」)、「述語だけで展開しなくてはならない----こうヘーゲルは強調している。この点は、『小論理学』でも明言されている。

内容をひたすら思想の形式において規定する論理の世界においては、これらの思考規定を、神とか、あるいはより漠然とした絶対者とかが主語となっている命題の述語とするのは、余計なことであるのみならず、そうした仕方は、思想そのものの本性とは別な基準を思いおこさせるという欠点をもっている。(ヘーゲル『小論理学』)

ヘーゲル自身としては、「絶対者は存在である」とか、「絶対者は本質である」という命題ではなく「存在」や「本質」だけを問題にしたかったわけである。「......は存在である」という場合、主語に何が置かれてもいいのだ。それなのに、ヘーゲルどうして「絶対者の定義」などと語ったのだろうか。
ここで、神学的な表現を使うとき、ヘーゲルが譲歩的な言い回しをすることに注意したい。「創造以前の神の叙述である」と断定するのではなく、「神の叙述と表現することができる」と語られる。あるいは、「絶対者の諸定義である」と言いきるのではなく、「絶対者の諸定義と見ることができる」と述べられる。いずれも、「できる」が使われ、「そう言いたければ言ってもかまわない」という言い方である。したがって、この表現をマジに受け取って、「神の叙述である」とか、「絶対者の定義である」と積極的に語るのは、止めた方がいい。

ヘーゲルは、もともと、キリスト教神学を勉強していたのが、哲学に移ってきた人ですから、そういったキリスト教神学的な、秘術的な、慣習もよく分かってないと、うまく理解できないのかもしれませんね。
そんな感じですので、真面目に正面から突撃するのは、いったん、あきらめましょう。そこで、まず、上記の目次の上から三つについてですが:

  • 意識------これは「対象」意識とでもいうべきもので、ここでは、意識はもっぱら自分の外にある物体や自然に目を向けて、それらの対象の真理(対象とは真実には何であるか)を求めようとする。もろもろの自然現象を統一的に説明する「法則」を打ち立てようとする科学の態度も、ここに含まれる。この意識の特徴は、対象を意識からまったく独立したもの、とみなしている点にある。
  • 自己意識------次のタイプが、自己意識である。自己意識は、自分の外なる対象ではなく、もっぱら「自己」を意識する。自己意識は、観察したり思考したりするような理論的態度ではなく、自己の自立性と自由とを実現しようとして他者や自然に関わっていく、実践的な態度をとる。
  • 理性------最後のタイプが、理性である。理性は対象意識と自己意識との統一であって、対象のなかに自己を見出そうとする意識である。理性は最終的には、社会制度という対象が自分の存在と深く結びついていることを洞察することになる。

完全解読 ヘーゲル『精神現象学』 (講談社選書メチエ)

完全解読 ヘーゲル『精神現象学』 (講談社選書メチエ)

ちなみに、意識、の章は三つに分かれている。

  • 感覚的確信------これは最低次の認識である。さまざまな色や形の感覚が豊かに与えられている点ではとても豊かだが、そこに含まれる知としては「これがある」としか言えないような意識であって、きわめて貧しい。
  • 知覚------次の知覚は、対象を、さまざまな諸性質をもった「物」として認識する。つまり、一つの物(たとえば食塩)について、そこに白や辛さなどのさまざまな一般的諸性質を見出すのである。
  • 悟性------悟性は、もう目のまえにある具体的な物を対象としない。具体的な諸現象を生み出す「もと」になるもの、つまり「力」や「法則」を対象とする。

完全解読 ヘーゲル『精神現象学』 (講談社選書メチエ)

完全解読 ヘーゲル『精神現象学』 (講談社選書メチエ)

最後の章の、絶対知というのは、いわば、みんなが、同じ認識をもつ、みたいなものですから、おおよそ、彼の言いたいことが分かりました。
ここで、大事なポイントは、一般には、ヘーゲルは、カントの批判から、始めている、と言われることです。ヘーゲルの発言を追ってみると、基本的に、カントを認めているんですね。私は師カントを継承する、という立場でやっていると自称する(そのわりには、部分部分での、かみつき方はすごいものですが)。
では、ヘーゲルがカントが言わなかったことで、強調していることはなにか、となります。
まず、意識、の章ですが、ここは、出発点となる部分で、基本的に、カントの議論から始めている、と言える。ただ、注意がいるのは、感覚的確信、知覚、悟性、の順番で、概念的なものであるほど、価値が高い、としていることです。より直接的な、例えば、「固有名」のようなものは、彼にとって、その意味を、評価されることはない。
(というのは、先を見越して言ってしまえば、もともと、彼は、最終的な価値としては、絶対知、つまり、集団的な合意形成、の方に重点があるんですね。)
次の章ですが、ヘーゲルの、特徴と言えるものこそ、この、自己意識、となるでしょう。
ここで、有名な、主人と奴隷の論理、もでてきます。自己意識とは、たとえば、この例でいえば、奴隷にとっては、「主人はなんとかだ」という命題は、単純に相手がどうなのか、というより、奴隷としての自分に対する主人の状態をうんぬんしていることになり、「自己言及的」なんですね。つまり、単純に相手を観察して、ではすまなくなっていて、自分に関係して考察せざるをえなくなる。
いずれにしろ、こういった議論は、カントで言えば、『純粋理性批判』というより、『実践理性批判』であったが(しかし、実践理性は、道徳法則のようなものでしたから、こういうカテゴリー的な感じではない印象もありますね)、ヘーゲルでは、こうやって続けて議論の遡上に出てくる。
自分に関係するということは、これは「自由」の問題と言ってもいい。ヘーゲルはこれを、三つに分類します。

上の二つは説明はいいと思います。ただし、ヘーゲルはこの二つを、非常に価値の低いイズムと考えます(自己意識っていうレベルだけでこの二つを考えていることに、ちょっと悪意を感じなくもないですね。カントではこういう議論は見かけた記憶がないですね)。なぜなら、下世話に言えば、ストア主義、は自分のことばっかり考えているし、懐疑主義、は疑ってばかりということですから(ニヒリズムに関係してそうですね)、彼の最終目的の集団の合意形成の邪魔に思えるからでしょう。ただし、その存在感はあなどれないわけで、そういう意味で、一目置くという感じでしょうか。
問題は、最後の、不安の意識、というやつです。これが、次の、理性、へとつなぐ議論になるのですから、先ほどから言っている意味で、たんに後向きではいけないんですね。前の二つとは違い、この先、集団の合意形成が、「必ず成功する」ようなきっかけになるような理屈が提供されないといけない。

青年期的な絶対的「理想理念」への傾倒と熱中、「絶対的なもの」(理想)へ少しでも近づこうとすること、からはじまり、自分のうちに醜い「自己動機」を自覚していっそうの自己否定を試みること、人間における現実生活への欲望と美しい理想追求との間に解けない矛盾が横たわっているこの自覚、などを通して、結局自己意識は、この「絶対的なるもの」に届こうとする努力に挫折する、というプロセスが描かれる。

完全解読 ヘーゲル『精神現象学』 (講談社選書メチエ)

完全解読 ヘーゲル『精神現象学』 (講談社選書メチエ)

この辺りが、キリスト教神学に近いんですかね。キリスト教っぽい話がいっぱいでてくる。こういう大事なつなぎ目で、キリスト教神学のような、神秘的なロジックを使うところが、特徴ですね。
いずれにしろ、これは、自己意識の話でしたから、今度は、いろいろと、現実の世界と、自分がさまざまに関係していることに、自覚的になっていく段階が必要だと、きれいに整理されちゃう。それが、次の、理性、という章である。
ただ、あまりこの章については語ることはなくて、ようするに、自己意識みたいなものから、社会的な存在なんだと、目覚めていくいろいろな道具が書かれている、といった感じだろうか(そして、なんだかんだで、最後のみんなの認識の合致、つまり、絶対知、に到達、と)。
さて、終わってしまった。
いずれにしろ、こんな感じで、人間は社会的存在だね、っと、じゃあ、みんなの合意もきっとできる「はず」だ、と考えたくなるわけですが、どうも、世界中、あいかわらず、紛争続きで、うまくいっていないみたいですね。
何が悪いんだろう、と、ヘーゲルを必死に読んで、なにかの法則を見落としてる、と思ってみても、そんなものがあるなら、とっくにだれかが見つけてるのでしょう。
たとえば、掲題の本では、ジュディス・バトラーの(学位論文になるという)『欲望の主体』の議論にそって、フーコーヘーゲルの批判についての、彼女の議論を以下のように整理しています。

フーコーの「歴史」理解を見れば、フーコーが評価するのは、歴史的な「由来」を探究するニーチェ的な「系譜学」だと分かる。しかし、「系譜学」とは何だろうか。

由来の探究は何かを築くものではなく、まったくその逆である。人が不動だと認めていたものを危うくさせ、ひとが一つのものと考えていたものを断片化する。ひとがそれ自体と合致していると思っていたものの異質性を示すのである。(フーコーニーチェ、系譜学、歴史」)

歴史は、ヘーゲルが考えたように起源や目的において「同一性」へと回収されることはない。むしろ、「異質性」や「多様性」にさらされ、無数の「出来事」や「力のせめぎあい」が繰り広げられるのだ。
このように歴史を考えたとき、おそらくヘーゲル的な「主人 - 奴隷関係」も、別様に理解きるだろう。ヘーゲルが「主人 - 奴隷関係」を導入したのは、あくまでも「相互承認」へ向かう一段階としてであった。ところが、フーコーヘーゲル的な「相互承認」には不信感を表明するのだ。

人類は戦いから戦いへとゆっくり進歩を重ねるわけではないし、最後は普遍的な相互関係へと到達し、そこでは規則が戦争にとって代わる、などということはないのである。人類はそれらの暴力の一つ一つを規則の体系のうちに据え、それによって支配から支配へと進んでいくのである。(フーコーニーチェ、系譜学、歴史」)

バトラーはつぎのように言っている。

じっさい、フーコーデリダが語っている差異は、より包括的な同一性へと止揚されることはできない。同一性を措定しようとするどんな努力も、......差異によって必然的に掘り崩されるのだ。同一性が措定されるところでは、じっさいには、差異が止揚されているのではなく、むしろ隠蔽されているのである。(バトラー『欲望の主体』)

問題は、こうしたヘーゲル批判が、はたしてヘーゲルから「断絶」しているかどうかである。ところが、これにかんするバトラーの見解が面白い。

ヘーゲルからの「断絶」を語ることは、ほとんどいつも不可能である。というのも、ヘーゲルがまさに「断絶」を彼の弁証法の中心的な教義にしているからだ。(バトラー『欲望の主体』)

ようするに、ヘーゲルは、フーコーが批判して言っているほどまでに、ヘーゲルの言っていることとどこまで、違っているのか、ということになる。
上記のように、立派な弁証法で絶対知まで到達したみたいな説明にみえるけど、そんなに簡単じゃないわけなんですね。そして、そうそう難しそうだ、ということは、ヘーゲル自身も書いているようにも思える。

ヘーゲル弁証法」の中心となるのは「否定性」であって、この「否定性」こそは「同一性」を引き裂き、「差異」や「分裂」をもたらすからである。たとえば、ヘーゲルのつぎの文章は、その点を雄弁に語っているのではないだろうか。

精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂のうちに見出すときにのみである。......精神は、否定的なものを直視し、否定的なもののもとへ滞留することによってはじめて、このような威力なのである。(ヘーゲル精神現象学』)

さて、最後に、ヘーゲルの『法哲学』についても、一言だけ。

法哲学』は「近代世界」の立場に立ち、その本質を思想において捉えただけでなく、近代世界の問題をも提示している。この問題に対して、ヘーゲルが示唆した解決策は「立憲君主制国家」だった。この解決策を受け入れるかどうかは別にして、ヘーゲルが掴んだ近代世界の問題は、現在でもなお過ぎ去ってはいない。私たちは、ヘーゲルの問いかけにどう答えることができるだろうか。

ヘーゲルの『法哲学』は、上記の議論の流れから言うと、絶対知の実現とは、理想的国家(立憲君主制)の実現のことだったんだな、と読める、ということになりましょうか。
いずれにしろ、フランス革命を賞賛してきた「自由」の哲学者と思われてきた、ヘーゲルが、かなり、「個人より国家の方こそ重要」と読めるような本になっており、その転向がスキャンダラスに語られてきた面があるそうです。
ただ、掲題の本では、このように、『法哲学』は、ヘーゲルが、当時のドイツ(プロイセン)の、出版事情(言論弾圧が激しかった)を考慮して、譲歩してこう書かざるをえなかった、という立場ではなく、ベタにこれが、ヘーゲルの考えなんだ、というふうに整理している。
しかし、そう言われても、江戸時代ですからね。ドイツも、まだ、各封建諸侯が群雄割拠してた、神聖ローマ帝国でしたっけ、から、なんとか、プロイセン国家が、でき始めたんでしたかね。戦国武将が、そりゃあ、立憲君主制なんだろうな、と素朴には思ってしまいますけど(でも、こうやって、カントと比較すると、こっちは、永遠平和とかいって、国際連合のようなことを考えていて、この差が気にはなりますけど)。実際、ヘーゲルは当時の国内政治への言及がとても多いんだそうですね。そういう意味でも、どっちかと言うと、政治家タイプということなんですかね。
(いずれにしろ、上記の、立憲君主制国家、の一言だけしか掲題の本には書いてないので、この辺りを、もっとふくらませて説明してほしいかったですね。)
上記での問題提起とからめて考えると、今、世界中、さまざまな民族紛争が絶えない。そういったものの解決に、このヘーゲルの議論は、どういうふうに、適用できるのであろう、となるとのことのようです(たとえば、私的所有権、や、市民社会、というタームは、この『法哲学』で使われて、普及したんだそうです、などなど)。

ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち

ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち