佐藤忠男『草の根の軍国主義』

前回、ヘーゲルについて、とりあげました。
彼の主張の後半を、ずいぶん、乱暴に省略しました。ではそこには、どんなことが書かれていたと考えればいいのであろうか。
いわば、人が人と関わっていく、さまざまな「型」が列挙されていたんだと思います。
ヘーゲルは、カントの「カテゴリー」を、もっと広い、さまざまな人間の活動の場面に対しても、拡張していったんじゃないか、と思います。
その場合に、一つのアプローチがありました。それは、ヘーゲルの、『精神現象学』の緒論で、説明されているものです。
観念論において、世界と、自分は、ある意味区別されない。しかし、その「精神の認識」(概念と対象の間)には、明らかに、そうは一致することはない。つまり、差異があります。ということは、どういう事態を意味しているのか。
ヘーゲルは、なんの説明もなく、そこに「運動」がある、と言うのです。
なんで、こんな変な言い方をしているのでしょうか。
これは、古くは、古代ギリシアの哲学者デモクリトスの原子論を想定してるんじゃないか、と思わせるものとされます。クリナメン、といいまして、この世界の原子は、基本的にみんな、まっすぐ、同じ動きをしているのですが、ときどき、ぴょこ、っと、ずれるやつがあらわれる(偏奇)。まあ、そういう世界観ということですね(昔、中沢新一の本で、ずいぶん関心させられたことを思い出します)。
つまり、彼のこの積極的な哲学においては、ある矛盾、パラドックスとの直面は、すぐにそこに、「運動」が始まる、というヴィジョンがあります。つまり、運動によって、さまざまに、変体(進化)していくことで、人類社会は進歩して、最終的な、理想世界、に向かうということなんでしょうが、いずれにしろ、このダイナミックなヴィジョンは、生き生きとして、いろいろなイメージを喚起するわけです。
そうやって、彼の議論には、さまざまに変化していくものを含んで、この人間の活動のさまざまな側面を、型、カテゴリーとして、抽象化して、議論の遡上にあげていこう、という意欲が感じられます。もちろん、文学も積極的にとりあげられています(ゲーテの『ファウスト』など)。
その場合、二つの重要なアスペクトがあります。一つは、個人が、生まれてから、赤ん坊、子供、成人、老人、となっていく、その心理的な成長の面。もう一つが、歴史ですね。古代ギリシア、ローマ、があって、ルネサンスがあって、フランス革命があって、みたいな人類社会の「発展」というわけです。
この二つの比喩というのは、大変におもしろい例だと思われます。実際、私たちの、この世界を考えるときでも、何度も直面する、アポリアと言えると思います。
たとえば、私たちは、簡単に、「大人」としての振る舞い、とか、理性的な大人、だったら、だれでも理解できる、というようなことを言いますが、大人は最初から大人ではありません。何も知らなかった、子供が、さざまな経験を経て、大人になる、とされている。いったい、どうやって、子供は大人に変わっていくんでしょうね。
同じような問題に直面しているのが、「歴史学」です。
例えば、終戦前の、日本、について、考えてみましょう。しかし、昔の日本を考えるとは、どういうことなのでしょうか。
私たちは、戦後、生まれて、こうやって、大人になりました。そして、その間に、いろいろなことを経験し学びました。そして、いろいろな認識を身に付けました。しかし、戦前の人たちは、戦後憲法を知りませんし、冷戦も知りません。そうしたとき、一つの疑問が沸きます。私たちの常識や、正義感を、単純に過去の人に適用するのは、公正さに欠けるんじゃないか。
私たちは、単純に、戦争は悪いことだよな、と思います。しかし、それは戦後に多くの経験によって学ばれた良識なのかもしれません。しかし、戦前の人たちは「まだ」そういった経験「前」なのです。
日本の歴史は、ちょっと前まで、江戸時代。武士が刀をぶらさげてた時代です。そして、あっという間に、明治、大正、昭和初期。私たちから見て、まだ、彼らが「野蛮」に見えることは、「しょうがなかった」ことなのかもしれない、とは思えないでしょうか。
(これは、個人の心理についても同じです。子供の頃、貧しく、親がいるのかも分からないように生きてきた人が、不良たちといつもワルばっかりやって、大人になったとして、本当にそれはその個人の責任なのでしょうか。私たち裕福な家族の中で、ぬくぬく育ってきたから、余裕があったから、すりこめられえた、道徳なのかもしれません。)
なにが言いたいか、わかってもらえるでしょうか。
しかし、そうやって、身も蓋もなく言ってしまうと、今度は、「なにも言えない」ということになってしまいます。事実、社会科学は、そういった傾向があります。ある対象を調べれば調べるほど、いろいろな、その相互関係が分かってくることで、「やっぱ、過去から人間が引き継いできた叡智は、奥が深けーや。現代人の浅はかな、さかしら心で、うぶな左翼人権優等生ぶりっこ、なんか言ってると、道を誤つこと、間違いなしだ。そうなってくると、もー、分かったようなことなんか言えねー。この状況を前にして、しょーがなかった、と言わない方がどーかしている」。こんな感じです。
そうなると、もー、なんでもありーの、です。人を殺そうが、他国を侵略しようが、なにをしようが、しょーがねー、になっちゃいます。
どーしたらいーんでしょう。
カントだと、その辺りは、ちょっと、ドライ、に見えます。だれかが、食べ物を、盗みました。でもその人は、こういう人だったのかもしれません。何日も、仕事を求めて、さ迷ったのに、どこも、雇ってくれません。お金も、とうとう、尽きてしまっていました。あと、何日か、食事にありつけなかったら、本当に飢えて死んでたでしょう。しかし、カントの、道徳律においては、それは、盗み、という「犯罪」であることには変わらない、となるわけです(それが、形式、というものですから)。
ヘーゲルはもしかしたら、こういった四角四面な、カントの説明に、物足りなさを感じていたのかもしれません。たとえば、上記のようなことが国家のレベルで起きることが、「革命」です。フランス革命に熱狂した彼が考える思想は、こういったものを含んだ「法則」を考えることだったのかもしれません。
一つの考えとしては、やはり、「他者」論、ですかね。
他者は、まるで「事件」のように、私たちの目の前に、「突然」現れます。そして、私たちに語りかけてきます。私たちには、たしかに、過去のことは分かりません。しかし、その当時の人たちも、多くの発言を残しているわけです。その言葉に、耳を傾けることは、最初でしょう。
もちろん、当時の人たちが生きているなら、その当時を振り返って語ってもらうことは、貴重な発言となるでしょう。

あの戦争中、誰も他人に、あなたは天皇を神だと信じていますか? などと聞くことはできなかったし、してはいけなかったからです。そんな質問をするということは、それに疑問を持つ者もいるはずだということを意味します。およそ日本人たる者、みんなが天皇を神と信じているはずだということに、とにかくタテマエとしてはそうなっていたあの時代に、軽々しくそういう態度を召すのははなはだ危険でした。

小学校の六年生のときだったと思うのですが、思春期でセックスの知識に目覚めて友達と盛んに情報交換をしていました。子どもは男と女の性行為から生まれる、と知って驚いて、どちらからともなく、「天皇陛下もか?」と言いました。私は言葉の弾みで「そうだ」と言って、なんだか体がすくみました。そしてその夜一晩、得体の知れない恐怖に襲われまた。そんなことを考えること自体が不敬で、私は不忠者、非国民なのではないか、と怖れおののいたのです。そして翌日から数日、理由は何も言わずにその友達と絶交しました。

掲題の著者は、終戦を、14歳で迎えたそうである。ここには、おもしろい認識が語られています。ようするに、そういうことをだれも語らないのです。今まで生まれてから、だれも語っているのを見たことがない。そういう状況で成長してきて、どこまで、自分の心の中の内なる理性を信じられるのでしょうか(こういった場合には、民主主義は弱い。多数決こそ、真理だとされたら、科学はいらなくなる)。
いずれにしろ、こういう、戦前を知っている方が、終戦、とその後の歴史を生きてこられて、今どう思われているのかは、興味深い。

まず書き出しが------
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」
で、建国と道徳の家元は悠久の昔から皇室だったと宣言します。
次いで------
「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ」
と、徳目の第一に忠、第二に孝をあげ、あと主要な徳目を並べたうえで------
「以て天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と続く文章で、以上の徳目を守る目的は皇室の運勢をますます盛んにすることに他ならないと強調しています。すなわち、夫婦が仲良くすることも、学問を習うことも、すべては忠義のためであるというのが教育勅語の主張であるわけです。
明治十五年の「幼学網要」から明治二十三年の教育勅語までの間に、忠と孝の徳目の位階序列に逆転が生じています。「幼学網要」ではそこに並べられた徳目が基本的には中国の孔孟の教えによるものであることは自明のことでした。しかしこんどは、全ての道徳は皇祖皇宗から発信された教えだ、ということになったわけです。親に孝行しなけれならないと思ったとき、これは孔子様の教えだからと思う必要はない、皇室から発した日本本来の道徳だと思え、ということになったわけです。中国からの思想的独立宣言のような意味があったと思います。ナショナリズムの宣言かもしれません。もちろん勅語といっても明治天皇が直接執筆したわけではなく、政府高官を含めた何人かの人々の協議で練りあげた苦心の文章で、一種の文化革命だったでしょう。

日本に、革命はあった。しかしそれは、江戸城無血開城でも、明治維新でもない。教育勅語、の発布、という、文化大革命、だったのだ。そこまで言えるのかもしれません。実際に、教科書には、儒教から借りてきた、用語が頻出しているのに、孔孟など、中国の高名な儒家の名は、一つもでてこないという事態が続くのだそうです(日露戦争の頃は、アメリカ人も出てこないくらいだったそうです)。
日本の歴史において、この、教育勅語、こそ、本当の(筆による)暴力的な、国民の精神大改造、だったのでしょう(ですから、おそらくこれからも、何度もこの教育勅語の復活を目指す運動が立ち上がってくるんじゃないでしょうか)。

また、これは戦争中の日本の戦争映画と共通することですが、個人的なヒロイズムをあまり強調しないということが重要な点ではないかと思います。日本人は天皇の名の下で戦った。それは天皇の意志の実現のための戦いであって、個人的な名誉心のための戦いであってはならないという意識がそこにはありました。

日中戦争を描くときになると、ヒロイズムはぐっとひかえて、ただみんな、戦友同士が助け合ってひたすら苦難に耐えるという描き方になったのではないでしょうか。アメリカは個人の自由ということを建国の国是とする国柄なので、戦争映画でも、これこそ兵士個人個人の自由な意志によるヒロイズムの発揮のまたとない機会であるとすることが常識になっています。

戦中には、日本にも、多くの映画が作られた。しかし、その戦争礼賛を思わせるフィルムは、ことごとく、今は残っていない。簡単な概要を記した、メモがあるくらいだ、という。しかし、それらの映画を、アメリ進駐軍は、日本人を研究する材料として、研究したレポートがある、という。しかし、その分析は、彼らにとっては、驚くべきものであったようである。まるで、反戦映画。
つまり、いくら見ていても、いっかな、ヒーローが現れない。だれも、戦果をあげ、胸に勲章をぶらさげて、えらそうに、ふんぞり返っていない。ただただ、多くの戦士たちが、じみーに、えんえん、苦労し続け、それをみんなで助け合って、耐えて耐えて、気付いたら、映画が終わっている。
国民は、こういう映画の何を見ていたのであろうか。はっきりしていることは、みんなが「平等」に苦労していること、である。だれか一人が楽しているとか、この苦労を抜け出せて「あがれた」とか、そういうことがない。おそらく、戦争中を支配していたのは、この「平等観」だったのだと思います。
苦しかった。
実際、多くの人が自己を犠牲にして、命を投げ出すこともあった。でも、「みんな」がそうだったんです。みんな、同じレベルで、同じ苦しみを体験して、みんな同じレベルで、自己を犠牲にすることを目的に生きていた、一命をとりとめたのも、「たまたま身命を賭する機会がなかったにすぎない」。
そういう、平等、の感覚こそ、日本があそこまで長く戦争を続けられた理由なのでしょう。実際、東条英機を含めて、だれもが、凡庸ですよね。歴史的な、カリスマ演説をしたなんて、聞いたことがない(そのかわり、恐るべきまでに最後まで、過激だったのは、新聞とラジオ、という「匿名メディア」ですね。これが日本の特徴ですね)。
(こういう平等の感覚は、立派と思うかもしれません。しかし、逆に言うと、別に、貴族などの、やんごとない身分でもないのに、ずるをしてる人や、裕福な人への、天上知らずの、嫉妬、ルサンチマン、にとらわれやすい。また、容易に、自分より、身分の低い、被差別者、被植民地国民への、侮蔑に、変わりやすい、ということなんですね。)

主人の浅野がやったことは「不調法至極」で、それによって切腹を命じられていたことに自分たちは不服を言うのではない。ただ武士同士の争いなら勝手にやらせてもらったらよかったのに、途中で止められてさぞ無念だったろう。その主人の無念の思いを晴らすために吉良殿を討つ。
つまり、主人がやりたくてやれなかったことを家来が代行する。それだけです。もちろん本当の腹は幕府によって藩を解散させられてしまったことの不満に違いないでしょう。それで彼らは武士という特権的な身分を失なった。武士は名誉ある特権階級です。その名誉をとつぜんのこんな事件ぐらいで失なうというのは残念無念で、武士の一分が立たない。この無念さを晴らしたいということが本心であるにきまっていますが、その本心を言ってしまったら彼らの行動は幕府への公然たる犯行になり。抹殺されてしまうにきまっています。ところがこれを、無念の思いを残して死んだ主人のその遺恨を晴らすためだ、と言えば、武士のモラルとしての忠義の発露ということによって、幕府への反逆、幕府の裁定への異議申し立てという本心を表向き隠すことができる。そういうことだったのではないでしょうか。

忠臣蔵は、ずっと日本では、人気であったのだが、その理由は定かでない。なぜ、こんなにずっと熱狂をもって迎えられてきたのか。
やってることは、国家への反逆、にすぎません。しかしそれを、主人がやりたいと思いながら果たせずに亡くなっていった、それを、果たしてあげたい、という、忠義の思いがあまりに強すぎて、やってしまった、ということにしてしまう。
しかし、こういうことにすると、助かるのは、むしろ、国家の方、なんですね。国家に反逆するような恐しい集団が、自分たちの中にいたんだ、とすると、あまりに角が立ちすぎます。また、自分たちの、お家とりつぶし、がやり過ぎだったんじゃないか、という批判が方々で生まれる可能性だってある。しかし、それを、彼らはただ、忠義のあまり逸脱してしまったということにできたなら、その心がけは立派ということで、ガチで理念のぶつかり合いにして、どっちが真に正しいか、の議論を避けられる。あとは、「国家の温情で」彼ら自身に、切腹によって、名誉の自殺をさせてやれば、彼らの自尊心も満たされて、「だれも損になりません」(もちろん、吉良上野介の一党にとっては、その後、演劇などで、あることないこと、悪人として、言われ続けるわけですが、だれも気にしない。これが、いじめ、の構造、というわけですが)。
ここでは、別の、言語ゲームに議論が移されている、と言えると思います。
武士の特権階級が剥奪されることの是非が問われていたはずが、それとなんの関係もない「忠誠心」をめぐる話に、すり変えられている。
これを通して、掲題の本の著者が言いたいことは分かると思います。
教育勅語、という文化大革命
ここで、何が、変えられたか。孝より価値あるものとして忠とされ、しかも、その他のあらゆる徳目の目的までが、ただただ、君が代、にある通り、皇室のますますの発展(国体)のため「だけ」なんだと変えられた。
これはたんに、その形式的にみれば、たいした変化はないと言えるかもしれません。どっちにしろ、立派な徳をまっとうするなら。しかし、それを「当時の人」たちが、どう受けとっていたのか、が大事です。
国民はどんな、残虐非道なことを、世界中でやろうと、その自分の行為と面と向かって、死ぬまで、対決しなければいけない、と考えなくなるのではないか(どんなにそれが、自分の私利私欲を含んでいたとしても)。ただただ忠の一心で、といいわけがたつ。自分の行為から目を避けられる。逃げられる。
命令され、その通り行動して、でもそれについて、「なにも考えない」。
今後も、この構造は、何度も繰り返すのでしょう。

草の根の軍国主義

草の根の軍国主義