佐藤嘉幸『新自由主義と権力』

この本では、まず、フーコーの『監視と処罰』の権力論を、新自由主義、とのからみで『生政治の誕生』に準拠して整理する。その後、ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』にある、その新自由主義において、課題となった、主体、の対抗手段の問題、を検討する。最後に、本来の主題に近い、ジュディス・バトラー(『権力の心的な生』)の、服従化 = 主体化、の整理を、まとめとして提示する。こういった、実に、ポスト・モダンな、本である。
別に、こういった「主体 = 従属」を、自分に関係ない、と言うつもりはないのであるが、もっと、なんと言えばいいのか、直近の課題のようなもの、そちらの整理の方に、どうしても関心が大きくある(よって、この本の第一部のフーコーの権力論しか、ここでは、とりあげない)。
本論に入る前に、前段で、少し、その周辺について、書いてみよう。
資本主義における、各生産主体の間の、競争、とはどのように構成されているか。まずは、当然、発明、という市場独占の時期があるだろう。しかし、その期間は長くない。同様のアイデアを真似た、類似の製品との競争となる。しかし、一次生産物が、どこでも、差がないわけだから、その競争が次に来るのは、加工工程の優劣となる。しかし、こういった、テクノロジーによる競争もすぐに終わる(どこも同じような開発手法となる)。その後、各生産主体が、どのような、競争に、突入するか。
言うまでもないだろう。
低賃金競争。
最近見た、マイケル・ムーアの映画での、問題提起は、彼が子供の頃、労働者は、驚くほど、裕福であった、という事実から、出発する。
しかし、ここ何十年かの間に、労働者が裕福でない、事態へと推移した。そして、その過程は、まさに、グローバル化、であった。アメリカの労働者が、衰退する過程と並行して、敗戦国、日本の、労働者の富裕化が起きていた。しかし、その日本も、今では、恒常的なデフレ、である。そもそもの、労働市場、のパイの縮小、が著しい。労働者はいても、仕事、そのものがない(もともと、輸出型産業は、その生産拠点の移動によって、地域の盛衰が移動してきた...)。BRICs のような、さらなる周縁に、労働環境の「移動」がみられ、それらの地域の、労働者の現在の富裕化傾向となっている。
資本主義における、労働者とは、富を生み出す存在とされるが、そこでの最大の問題は、人件費、つまり、労働者そのものの、コスト、となる。つまり、いかに、低賃金労働、を手に入れるか。そして、資本は、低賃金労働を求めて、世界中を、さまようことになる。
掲題の本で、新自由主義、と呼ばれているものとは、極論すれば、グローバル化と呼ばれている何か、のことなのであろう。だが、グローバル化は、目的ではなくて、一つの現象にすぎない。むしろ、目指されていたことは常に、消費者の利益の最大化、だったはずです。ところが、消費者とは誰でしょう? 消費者とは、多くは、商人(販売者)であり、生産者であり、つまり、労働者であった。
消費のための、利便性の最大化が実現されることは、別に、各個人に、消費をするための、手段の最大化を実現していることにはならない。
つまり、ここには、最初から、ある種の、レトリックによる、幻惑、もっと言えば、詐欺的な、言説イメージが駆使されている、と言えるのかもしれない。
マイケル・ムーアの言う、まさに1%が、ほとんどすべての、「消費をするための手段」を独占している事態、への違和感は、この辺りに起因しているのだろう。
「消費のための利便性の最大化」の、手段として、「低賃金労働市場」、の究極化が漸次実現されるとは、どういうことか。
このことを考察するには、もう一度、資本主義、がどういった運動であったのかを、振り返る必要があります。
ここから、掲題の本の、文脈に沿って、考えてみたいと思います。
(著者の言う)新自由主義とはなんなのか。著者は、そのきっかけとして、オイル・ショック、をあげる。

一九七〇年代の二度のオイル・ショックは経済状況を悪化させ、税収の大幅な低下、社会保障支出の増大による財政赤字の増大を招き、福祉国家の土台となる財源そのものを掘り崩していた。

マイケル・ムーアの映画にもあったように、終戦直後からの、ルーズベルトであっても、ああいった、国民福祉の最大化こそ、アメリカが目指すべきもの、とまさに「ケインズ」的な目標を語っていた。そして、戦後、社会主義国の福祉政策に、押される形で、資本主義勢力も、多くの福祉政策を推進してきた。
しかし、その流れを一変させたものこそ、オイル・ショック、であった。それまで、企業は、原材料を、感覚としては、ほとんど「ただ(無料)」に近いくらいに考えていたのではないか。ところが、オイル・ショックは、その認識を一変させた。ビジネスは、原材料の高騰、値段の高止まり、によって、ビジネス活動を開始することが、リスク、そのものに変わる。問題は、各企業はそのリスクを、どのように、ヘッジしていったのか、である。
もちろん、それは、各企業それぞれが、解決したわけではない。その解決は、言わば、「国家的解決」とでも言うものであった。

ここで重要なことは、いま述べたような計画主義者の言う「計画」への反対と、凝り固まった「自由放任」への主張とを、混同してはならないということである。自由主義者の主張は、諸個人の活動を調和的に働かせる手段として、競争が持つ諸力を最大限に活用すべきだということであって、現に存在するものをただ放任しておけばよいということではない。自由主義の主張は、どんな分野であれ、有効な競争が作り出されることが可能であるなら、それはどんなやり型にもまして、諸個人の活動をうまく発展させていく、という確信に基づいている。(ハイエク『隷属への道』)

ハイエクによれば、新自由主義とは決して古典的自由主義の言う「自由放任」を原理とするものではない(「現に存在するものをただ放任しておけばよいということではない」)。それはむしろ、市場の中に「有効な競争」、つまり「諸個人の活動を相互調整し」、「社会を組織化する原理」としての競争を作り出すものである。

ここで、著者が、自由主義でなく、わざわざ、新自由主義、と言っている意味が分かる。自由と言うと、私たちは、放任、と考えないだろうか(ああ、好きにやっていいんだな)。しかし、ちまた、に溢れている自由主義は、別の名前で呼ばれる。
競争。
大事なことは、自由ではない、競争、なのである。よって、問題は、どのように競争を生み出し、維持するか、にある。

競争がその機能を十分に発揮していくためには、通貨、市場、情報伝達網といった特定の制度----そのうちのいくつかは、民間企業によっては決して十分に提供されえないものである----を適切に組織化していく必要があるだけでなく、とりわけ適切な法制度[legal system]、すなわち、競争を維持し、できるだけ効果的に働かせるよう考案された法制度が確立されていなけれならない。(ハイエク『隷属への道』)

おもしろいですね。新自由主義では、たしかに、国家は、福祉などによる国民生活への介入に抑制的である。ところが、国家は、「別の形」で、激しく国民生活に介入する。
以前に、民法は、国民間の、プロトコルのようなものとして、国家による介入を、抑制するというようなことを書いたが、この、民法や商法を、政府は、各商取引が、レギュレートされるようなものに、積極的に、「記述」し運用する。なぜ、国民は、競争しているのか。それは、商法が、国民がなにかをしようとすると、必ず「競争」になるように、レギュレートしているから、とも言える。
さて、話が複雑になってきた。そもそも、自由化とは、規制緩和を言っていたのではなかったか。だとするなら、フーコーの議論は、なにかを勘違いしているのか。
いやそうではない。日本においても、アメリカにおいても、規制緩和の後には、その規制緩和を「破る」ふとどき者を、取締る、規制の法律が大量にできることになる。そして、その規制緩和を「破る」存在を、厳しく取締ることになる。逆に言えば、さまざまな法律によって、国民は、必ず「競争」を強いられるように、規制される。はたして、これは自由なのだろうか。
では、競争とは、なんだろう。以前、ゲーム理論について少し書いたが、競争とは、戦争で言えば、まさに、ガチンコである。お互いが、総力戦によって、正面からガチでぶつかりあい、雌雄を決する。もちろん、お互いの消耗は激しいが、このチキンレースによって、鼻の差で逃げ切れれば(それは、消費者にとっても、よいものが選ばれたという理屈だ)、市場を独占できる。いずれにしろ、ここで目指されているのは「競争力」である。競争力の強い強者を育てることは、国家の税金収入の安定、外貨の安定的獲得、につながる。
いずれにしろ、政府はさらに、国民の生活に、違った形ではあれ、介入する姿勢をみせるということでしたが、具体的には、国民にとって、どういう傾向となって現れているか。

新自由主義的統治は完全雇用というケインズ主義的目標を採用しない。そのとき失業者とは「移動中の労働者」、すなわち「収益のない仕事からより収益の高い仕事へと移行中の労働者」と解釈される。ここから生じるのは、新自由主義的統治が、こうした労働の「フレキシビリティ」(労働移動の可能性)を生み出すために、ある程度の失業を容認する、という事態である。

ケインズ福祉国家は、税制措置や社会保障という手段による所得の再分配によって、購買力の維持を目標としていた。しかし、新自由主義的統治において、所得の再分配という目標は採用されない。福祉国家的統治における各人の相対的な平等化といった理念は、生活最低限度の所得のみを保障するという理念に取って代わられる。

つまり、フーコーは何が言いたいのだろうか。この新自由主義の世界においては、国家は、個人と違った形ではあるが、別の「主体」として、たち上がってきている(それまでの、国家は、まだ、素朴であった)。しかし、国家は、より、包括的とでも言いますか、言わば、ルールを使う形で、外枠から、国民生活に、「干渉」してきます。国民は、どんなに嫌がってみても、この「競争」の網を逃れることができません。なぜなら、法によって、「競争しろ」と強いられているからです。それは、別の言い方をすれば、国家が一つの「主体」として、立ち上がってきており、各個人の「主体」に、その国家の「主体」が侵食を始めている事態なんだ、という、(彼らしい、ストア主義的な)見方となっているわけです。
さて、もう一度最初に戻って、なぜ、国家がこういった、新自由主義、を採用してきたか、を考えてみましょう。もちろん、それは、各国家ごとの、「競争」に強いられて、です。各国は、自国の税収が外貨獲得の、競争力の維持を目指すならば、いまさら、ケインズ時代の、福祉に戻るわけにはいかず、新自由主義を生きるしかなかった。各国は、自国の法律を、企業寄りにすれば、多くの有望な企業を集められ、多くの税収を見込めることは分かっています。しかし、それは、国民の生活をおびやかすものとなる。だとするなら、どういう態度にでるか。
おそらく考えていることは、21世紀の新しい「植民地主義」のようなものかもしれない。国内企業には、徹底して、海外の発展途上国の企業へのアウトソーシングを要請する。そういった海外の企業がある国には、まだ、十分な、社会保障が整備されていない。その隙間を利用して、海外労働者を、低賃金労働として、使うことによって、実を取ろうとする。この、新しい「植民地主義」の特徴は、相手国が必ずしも、損をしないが、明らかに、国内産業の衰退を招くことと、相手国は、したたかに振る舞ってくるだろう、ということです。気をつけて、振る舞っていても、相手国では、対抗的に、競合企業が立ち上がってくる。自国の競争力の維持は、短期的になる可能性がある。また、相手国が自国と同じルールでいつまでもいるとは限らない。さまざまに、ゲリラ的に、保護貿易的振る舞いをしてくるであろう。
しかし、それ以上に、この新自由主義が、強烈な不況に襲われたときの、振る舞いが、(今まさに、)気になるところであろう。上記にもあるように、失業者とは、新自由主義においては、「必要不可欠」な存在、のことを言っている。これらの存在によって、従業員の給料を低く抑えられるわけであり、決して、「いなくなっては困る」のだ。つまり、慢性的な失業こそ、企業にとって望むところ、なわけです。そう考えたとき、日本は、バブルの崩壊からずっと、不況であった。日本の不況は、おそらく、世界の景気が回復しようと(失業状態ということでは)、もう変わることはないと言っても、間違ってはいないと極論してもいいのであろう。
マイケル・ムーアは、資本主義ではなく、民主主義、と言った。しかし、一国内の、民主主義は、国民福祉(、または、保護貿易)、つまり、ケインズ的な財源のジレンマに陥ることを意味し、マクロ経済的な、アナクロニズムとなりかねない(つまり、国家的な、最貧国化、だ)。
さて、日本の民主党、である。
現政権は、事前に言っていたような、革命的なお金の配分の変更による、税収の確保を、実現できていない。なぜか。
官僚を「敵」と定義したなら、政治はできない、からだ。
もともと、労働組合を支持母体の中心とする限り、公務員を敵にできない。事業仕分け、と言っても、ごく表面的な一部を、パフォーマンス的に、テレビの前でつついてみたレベルにすぎないわけで、今まであった、シーリングとどこまで、前進しているかは、あやしい。
そういう意味でも、彼らが饒舌に国民を舌先で投票箱に入れさせた、政策を実現するには、なんらかの形で、大幅な税収増を実現するしかなったことは、言うまでもない。
しかし、それについて、何をするのか、その言質を取った人は一人もいないのではないか。なんらかの景気策によって、税収増を実現する、という話を聞いたことがある人がいるだろうか。しかし、そうでないとすると、あとは、増税しかない。しかし、国民生活がこれだけ、逼迫している状況で、増税など、できるであろうか(しかし、これだけの税収の落ち込みに直面して、さまざまな控除の廃止など、実質増税か各所で起きるだろうが)。それもない、とすると、その後に待っている事態とは何であろう。
しかし、不況による税収減など、だれが考えても予想していたわけだが、民主党の政策は、どれも、税収増でも起きない限り、やれそうもないものばかりだった。
これは、何を意味しているのであろう。
この状況で、しかしながら、彼らには、景気を浮揚させる、政策アイデアが「一つ」もない。実際、自民党と同等、の景気対策をやることになっているようだ(あれだけ、自民党型の景気対策を批判していた人たちは、どうなっているのか)。しかし、何度も言っているように、それに変わるアイデアが「ない」のだ。自民党のマネをしないということは、景気対策を「やらない」と言うのと同値くらいに思っているのだろう。
こうやって、民主党のパフォーマンスは、一見、国民の目には、はなばなしく見えていたところで、やっていることは、「いつもの自民党と同等」となるであろう。
もちろん、保守派中心の政党から、人権派中心の政党、に変わったのだから、周辺的な政策は、どんどん、人権尊重になっていくのかもしれないが、どうでしょうね。全然、そんな話も聞こえてきませんね。それどころじゃないのでしょうね、不況で。

新自由主義と権力―フーコーから現在性の哲学へ

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