ロバート・スキデルスキー『なにがケインズを復活させたのか?』

リーマン・ブラザーズの破綻に始まった、世界金融の大収縮は、結局のところ、世界中の国々によって、非常に早い速度で、次々と財政出動を行われる形になったようだ。
アメリカでは、保険会社は、国民の老後の年金にあまりに影響が大きいため、潰せない、ということのようだ。私は、それはそれで、一つの見識だと思わなくもないが、ということは、ようするに、「公的機関」の性格を著しくもっている、ってことですよね。そうだとするなら、そういったものと、一般的な私的経済活動を、等し並みに考えることは、フェアじゃないってことでしょう。たとえば、銀行や保険会社が、その豊富な財源を利用して、さまざまな、多角的経営を始めたら、どういうことになるでしょうか。そして、バブルがはじけた、とかいって、そういった組織に「だけ」じゃぶじゃぶ公的資金をつぎこんだのが、日本の失われた10年(だか、20年だか、30年だか、...)でしたね。庶民の、なけなしの財布は、「小さいから潰しちまえ」、でも銀行や保険会社は、「大きすぎて潰せねーよー」。だったら、最初っから、よけーなことすんじゃねーよ。
いずれにしろ、公的機関的な性格の大きいセクターには、どうしたって、パブリック・サーバント的な、自己抑制的な存在であることが求められている、ってことですよね。それが嫌なら、できるだけ、国家から距離を置けるような部類の、経済活動をなさったら、どうでしょう、ってことでしょう。
ちょっと、議論がそれてしまいましたが、ようするに、著者の主張は、これら一連の事態は、また、改めて、ケインズ、が見直されることを意味した、ということのようだ。
それにしても、この本を読むと(まだ、読んでいる途中だが)、そもそもケインズのなにが問題なのかが、さっぱり分からなくなる。
ケインズこそ、アメリカを代表する、人類最高の(部類の)、圧倒的知性そのもの、ではないか。

イギリスでもそうだが、アメリカではとくに、ケインズは一種の社会主義者だとみられている。これは間違いである。ケインズは国有化を主張していないし、規制すらあまり主張していない。資本主義を礼賛するようにはなっていないが、資本主義を葬り去ろうとしたのでないのは確かだ。さまざまな欠陥があるものの、現実には最善の経済制度であり、希少性の世界から豊かさの世界へ、労苦から良い生活へ移行するのに必要な段階だとみていた。
ケインズは恒常的な財政赤字の唱道者だともみられている。「赤字は問題ではない」。これはケインズの言葉ではない。2003年に、ジョージ・W・ブッシュ政権の大統領経済諮問委員会のグレン・ハバード委員長が述べた言葉だ。読者にとって意外だろうが、ケインズは財政収支について、通常は黒字にすべきだと考えていた。アメリカ史上、とくに大きな財政赤字をだしたのは、反ケインズ主義、自由市場原理を主張した共和党の大統領である。過去30年に唯一、保守的な財政政策を採用したのは民主党ビル・クリントン大統領であった。
ケインズ増税と放漫経営の狂信派ではない。最晩年には、政府が国民所得の25パーセント以上をとる状態が良いことなのかと疑問を呈している。
さらに、失業はすべて総需要の不足によるものだとは考えていなかった。失業のうちかなりの部分が賃金と物価の硬直性によるものだとみていた点で、ミルトン・フリードマンに近い。だが、賃金と物価の硬直性が1930年代に問題だとはみていなかった。そして興奮の時期を除けば、つねに需要不足による失業があり、ここから、政府が需要拡大策をとる必要が生まれると考えていた。
ケインズはインフレ論者ではなかった。物価の安定が重要だとみており、経済学者として活動した時期のかなりにわたって、中央政府通貨供給量伸び率を制限することで物価の安定を達成できると考えていた。この点でもフリードマンに近かったのである。しかし、物価の下落と生産の減少に歯止めがきかなくなっているとき、インフレを懸念するのはどうかしているともみていた。

早い話、ケインズは、常識人ってことでしょ。経済学者「らしくないんですね」。

ポール・クルーグマンはこうした[大きな政府批判を鬼の首でも取ったように言う保守派の]主張に怒りをぶちまけており、保守派の議論は1920年代の「財務省の見方」の焼き直しだと指摘している。

ジョン・メイナード・ケインズの業績のうち基本的な要素をひとつだけあげるとするなら、それはセーの法則を打破したことだ。供給がかならず需要を生み出すという主張をくつがえしたのである。ケインズは、支出と所得が等しい点、そして貯蓄と投資が等しい点から、経済の資源を完全に使えるだけの支出がつねにあるとはいえないし、完全雇用状態であれば経済が生み出すはずの貯蓄を使えるだけの投資がつねにあるとはいえないことを示した。
この点を認識したことは、経済理論上の素晴らしい業績である。だからこそ、ユージン点ファーマらがケインズの結論に反対しているのではなく......ケインズの議論全体をどうみてもまったく知らないことに気づいて、深く失望している。

そして、「だれも、ケインズを知らない」ってわけです。
極端な経済の大収縮は、あまりに、大きな影響を、特に、貧しい生活をしている人たちに与える(そうであるなら、政策の方針が、そういったバブルの抑制、賢い選択(賢者の行動)にあるべき、というのは、当然主張されるべきことであろう)。
しかし、それは、本当に、経済構造の変換によるものなのだろうか。普通の場合においては、多くのケースはそうであろう。しかし、それは、それなりのスパンで、漸次的に移行していくものであろう。多くの人たちは、少しずつ、今何が起きているのかに、気付いていく。
なかなか、モノが売れない。店を出しても、お客さんが来てくれない。ああ、なにかが変わり始めているんだな。自分もその変化の意味を早くキャッチして、合理的選択を迫られているのかもしれない...。
ところが、ときとして、「非常識なまでの」極端な経済の大収縮というのが、起きる。こういったものは、そういった経済構造の問題とすべきではないのではないか。多くは、政策の問題であり、多くは、投機家による、ゆさぶりであり、多くは、バブルであり...。
現代の投機マネーは、まさに、ブラックショールズの方程式のように、ある、安定的な分布(正規分布)に基いて、人々が行動している、とされている、その欺瞞をついて、稼いでいると言っていいと思う。早い話、その安定性が、ぶっこわれれば、こわれるほど、「もうかる」。価格が、極端に乱高下するなら、その差異をしつこくつつけば、確実にもうかることぐらい、子供でも分かるだろう。
しかし、こんなことは、言うまでもないことであるが、こういう事態は、実に、当たり前のように起きるわけだ。一番早い例が、政府の不規則行動である。政府中枢には、圧倒的な、この国を左右する情報がつまっている。この情報の密度は、パンピーとは、天と地の差がある。
おかしいな。
そんなに、経済アクターそれぞれで、確率空間の情報量が違っているだと。そんなお互いが、同じ、確率過程の「はずがないではないか」。

ケインズ派が市場の失敗の主な源泉として研究してきたのは、「非対称的情報」である。内部者は外部者に対して情報面で有利な立場にある。融資を受けようとする顧客は銀行よりも自分の債務不履行リスクについてよく知っている。生命保険を掛けようとする消費者は保険会社より自分の健康状態をよく知っている。こうした状況で効率的な取引を行うのは難しい。内部者が情報面で有利な立場を利用して騙すのではないかと警戒して、外部者は低い価格しか支払おうとせず、そのため内部者は質の低いものだけを売ろうとする。市場参加者の望みがどうであれ、質の低い財とサービスだけが取引される。

サブプライムローンにしても、早い話、あれは、貧乏人に、マイホームを与える、アメリカンドリーム福祉政策として、多くの人たちが認識していたはずだったのに、経済合理主義バカは、これが「合理的行動」だと、「自らを欺いた」。

ケインズ派のモデルは今回の危機であらわれた事実にかなりよく一致しているように思える。たとえば、銀行が融資を行った相手には、返済がまったくできない借り手が入っていたといった事実である。そのモデルの欠陥は、ローンの借り手や保険の買い手など、誰かが完全な情報をもっていると想定していることだ。ところが今回の危機では、不確実性という問題があり、導く側も導かれる側も将来を理解できていなかったことが明らかになった。非対称的情報による危機ではなく、対称的な無知による危機だったのである。タレブが指摘しているように、銀行幹部は貪欲だっただけでなく、「驚くほど自己欺瞞に熟達していた」のである。

ようするに、その程度の、「理論しかもっていなかった連中だった」ということなのだろう。
もちろん、こういった、ブラックスワンについては、ケインズを、ここ最近、口汚くののしっている、池田さんのブログでも、とりあげられていて(
screenshot
)、いろいろ多岐に渡った議論が紹介されていて、いつも、いろいろ気付かせられるなあと思いつつ、うーん、さて、じゃあ、ケインズの何が問題なんだろうと考えると、さっぱり分からなくなるって、こういう私は、バカでマヌケなパンピーってやつでしょうか。

なにがケインズを復活させたのか?

なにがケインズを復活させたのか?