クリストファー・ラッシュ『エリートの反逆』

1994年に亡くなったアメリカの歴史学者。彼の遺作ということらしい。
この本のタイトルは、英語の原題の直訳そのままなのだが、ようするに、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』をもじったものになっている。
オルテガの時代のスペインをどのように考えたらいいのか、難しいですけど、彼の基本的な姿勢は、ポピュリズム批判であり、貴族主義=エリート主義、ということになるのだろう。

大衆的人間は自分が完全であると思う。選ばれた人間が自分を完全だた感ずるためには、とりわけ虚栄心が強くなければならない。自分の完全さを信ずることは、かれの体質には向かないし、かれの本来の性格からは出てこない。そうではなくて、その信念は虚栄心から来るのであって、かれ自身にとっても、それは虚構の、幻想的な、疑わしい性質をもっている。
そこで、虚栄心の強い人は他人を必要とし、他人のなかに、自分について自分でもちたい観念の確証を求めるのである。そこで、この病的な状態においてすら、いいかえれば、虚栄心で「盲目」になっているときですら、高貴な人間は、本当に自分が完全だと感ずることができないのだ。
それに反し、われらの時代の凡庸な人間、つまり新たなアダムには、自分の完璧性を疑うという気が起こらない。その自信のほどは、ちょうどアダムのように、楽園的である。生得の、魂の密閉性が、自分の不完全さを発見するための前提条件、つまり、他人との比較を不可能にしてしまうのである。比較するとは、しばらく自己から離れて、隣人のところに身を移すことである。しかし、凡庸な心は移動----崇高なウポーツ----ができない。
したがって、愚かな者と炯眼の士とのあいだに永遠に存在する差異と同じものを、ここに見るのである。炯眼の人は、自分が愚か者とつねに紙一重であることを知って驚く。だから、目前のばかげたことを避けようと努力するし、その努力のなかに知性が存する。それにたいし、愚か者は、自分のことを疑ってみない。自分がきわめて分別があるように思う。ばかが自分の愚かさのなかであぐらをかくあの羨むべき平静さは、ここから生まれるのである。住んでいる穴から外へひきだしようのない昆虫みたいなもので、愚か者をその愚行から解き放ち、しばらくでもその暗闇から出して、いつもの愚かな見方を、もっと鋭い見方と比較してみるように強制する方法はないのである。愚か者は終生そうであって、抜け穴がない。
だからこそアナトール・フランスは、愚か者は邪悪な人間よりも始末が悪い、といったのだ。つまり、邪悪な人間はときどき邪悪でなくなるが、愚か者死ぬまで治らないからだ。

大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

ただ、このオルテガの本は思ったより、なかなか読みにくい。なぜかといえば、当然、彼自身が生きたその時代の雰囲気と彼が対決しているからなのだろう。本の最初で、街に「大量の」人が、各施設に見かけられるようになった。昔の、貴族政治においては、そういった施設には、数えるほどの人しかいなかったが、それなりに、優秀な政治が営まれていたはずだが、今は、とにかく、
見渡せば、人人人。
これはなんなのか。明らかに、以前とは違った人たちが街のこういった場所を逍遥闊歩するようになっている。つまり、オルテガの言う「大衆」である。
結局、オルテガの大衆批判は、ニーチェの大衆批判と同型に思える。ニーチェが、現代人の典型として、新聞を読むことに見出したわけだが、そういった感性は、おそらく継承されているのだろう。
そこで、掲題の本なのだが、ところが掲題の著者の「現代」の見立ては違っている。大衆に問題がある、という一点に関しては、オルテガの「大衆の反逆」の認識を継承する。ところが、そのオールタナティブとして存在するはずだった、「エリート」とは、
一体どこにいるのだ。
著者にとって、問題は一点。「エリート」なるものが、この現代において、「どこを探しても」いないことだった。
つまり、この掲題の本の題名は、完全な皮肉なのである。オルテガによる、大衆批判、ポピュリズム批判によって、
エリートの反逆
が始まったように思える。エリートたちが、自分たちの正当性をこのポピュリズムの時代に、再度、立ち上げようとしているようにみえる。ところが、まったく反対なのである。
著者に言わせれば、それはエリートではない。エリートを自称している、もう一つの、大衆、なのである。問題は、エリートが、政治をしていないことではなく、エリートと呼ばれている人たちがこの現代においては、ただの「大衆」にすぎない、ということになる。

「明日[あるいは世界]は、それがあたかも自然発生的で無尽蔵の生長力をあたえられているかのごとく、もっと豊かに、もっと潤沢に、もっと完璧になるであろうという確信のもと」、漫然と生きている。大衆は自分の安寧にしか関心をもたず、「無制限の可能性」や「完全な自由」が得られる未来を待ち望んでいる。大衆の多くの欠陥はのうちには、「女性に接するときのロマンスの欠如」も含まれている。そもそもそれ自体が高い要求を人間に課す理想としてのエロス的な愛などというものは、大衆に何の関心もひかない。身体に対する大衆の態度はひどく実際的である。大衆は身体的健康への崇拝をつくり出し、身体を良好な状態にたもって長寿を約束してくれる健康法に熱中する。しかしながらオルテガの記述によれば、大衆の精神を特徴づけているのは、何と言っても「自分たち以外のすべてに対する極端な嫌悪感」である。何者にも感嘆することなく、また何者にも敬意をいだくことのできない大衆は、「人類史のわがままっ子」である。
私が言いたいのは、こうした精神の習慣はすべて今日では、社会の下層あるいは中層よりも上層の特徴となっているということである。

著者は、言う。オルテガが描いたような、貴族、エリート、は現代においては、むしろ、中下層階級においてこそ、見出される、と。
これは、どういうことなのだろうか。
それは、この本における、著者の「歴史学者的な」分析のなかに描かれている、と言っていいかもしれない。歴史学とは、連続の学問である。過去から、アメリカ人がどのような慣習において生きてきたのか。その連続と延長に今の私たちがいる。私たちは、どんなに背伸びをしても、限度がある、ということである。
もちろん、背伸び、をすることは、「進歩的」で大切なことであるのだろうが、困ったことに、それは、著者の見立てでは、「大衆」の特徴、ということになってしまう。
こういった事態を、どのように考えたらいいのだろうか。
例えば、オルテガは上記の本で以下のように言う。

群集という概念は、量的であり、視覚的である。本来の意味を変えずに、この概念を社会学用語に翻訳してみると、社会大衆という概念が見つかる。社会はつねに、少数者と大衆という、二つの要素の動的な統一体である。少数者は、特別有能な、個人または個人の集団である。大衆とは、格別、資質に恵まれない人々の集合である。だから、大衆ということばを、たんに、また主として、「労働大衆」という意味に解してはならない。大衆とは「平均人」である。それゆえ、たんに量的だったもの----群集----が、質的な特性をもったものに変わる。すなわち、それは、質を共通にするものであり、社会の無宿者であり、他人から自分を区別するのではなく、共通の型をみずから繰り返す人間である。

大衆の反逆 (中公クラシックス)

オルテガが大衆を、「平均人」と言うとき、私にはこれは、ニコラス・ルーマンの「縮減」というアイデアを思い出す(そういったタイトルの本

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

がありましたね)。
ルーマンの縮減のアイデアは、たんに、この環境のエントロピーを社会システムとして、単純化してしまえばすむ、ということではなかった。単純化するには、その「ほかでありえた」オールタナティブを含意している必要がある(それが「意味」なのだろう)。)
私たちは、どうしても、この現代において、大衆「がなんなのか」を理解しなければならないのだが、ところが問題は、私たちが大衆を空想しようとすると、どうしても「平均人」になってしまう。すると、どうしても大衆批判が巷に吹き荒れることになる。しかし、それを「平均」と言った時点で、大衆とエリートの区別はなくなる。
掲題の著者が、エリートがエリートでないと言うとき、それは、右翼や左翼の問題としても考えられるのかもしれない。現代は、知識人階層が、すべからく、
左翼
なんだと思う。もしくは、転向左翼か、自称左翼嫌いの左翼か、右翼になりたい左翼か、右翼的な言説を自分でも言ってみてる左翼か、...。
実際、現代の自称右翼的知識人の言っていることは、ほとんど、左翼の「プロレタリア独裁」と区別がつかない。でも、よく考えてみれば、それは当然の話で、基本的に、学校で成績がよくて、こういった問題形式に回答を用意するのが「得意」な人たちなのだから、知識中心主義的というか、左翼的な優秀な「科学的なバランス感覚」をもっていないはずはないわけだから。
この本は、エリート問題を論じている、というより、アメリ保守主義を擁護する、共同体主義の立場をとる。なぜ、著者がそういう立場をとるのかには、上記の議論からもよく分かるだろう。歴史学者としての立場もあるのだろうが、そもそも、著者は、現代はすべからく、「大衆」だというのですからね。もう、著者がそのオールタナティブになるしかない、ということなのだろう。

エリートの反逆―現代民主主義の病い

エリートの反逆―現代民主主義の病い