けいおん、という「へんなの」

私がなぜ、このアニメといういわゆる「子供向け」のエンターテイメントに言及しようと思ったのかの、基本的な最初は、(ちょっと恥かしいが)「アニメという衝撃」という記事を書いてからであった。その内容は、それを見てもらえばいいとして、とにかく、そこから、ちょっとこういったエンターテイメントを見る「視点」が変わってしまった。
もちろん、世間の大人たちの姿勢は、そもそも、こういったものを見ようとすらしない。それは、当然といえば当然であろう。なぜならそれは、彼らのような「大人向け」ではないのだから。大人たちは、こういった「子供向け」エンターテイメントを、「いい年して」消費している大人を「病気」と診断する。こういった大人は、SMやフェティシズムにはまる、大人と同じように、
なんとしてでも、付き合ってはいけない
異常な世界の住人と整理するからだ。それは、例えば、ビジネスの世界を考えてもいいだろう。立派なプレゼンを行っているような「えらい」方が、こんな趣味に「はまってる」となったら、人格を疑い始め、だれも彼の言うことを真面目に聞かなくなるだろう。
つまり、アニメからの卒業とは、一つの現代社会が要求する、大人になるための、「通過儀礼」という、側面が厳然としてあるわけである。立派な社会人になるとは、そういった「だめだめ」じゃないということを仕事の現場で証明することである、と。
しかし、そういった反応はむしろ自然と言えるだろう。
たしかに、アニメの主人公は、ほぼ、子供が主人公であり、子供の視点で描かれる。それは、我々大人という子供を教育することを義務付けられている存在にとって、決して肯定することの許されない、むしろ、「矯正」して、その子供の「悪い癖」を直すことが、大人の使命と考えられる。
こういった読解コードは、非常に明瞭かつ判明である。反論の余地を許さない、完璧なものを感じる。
しかし、である。私は、例えば、なぜ、宮崎駿が、こうやって、今に至るまで、アニメを作り続けているのか、また、多くのアニメの制作に係わっている人たちが、「すべからく大人」であることに、気付いていくとき、根本的に、そういう見方が、だめ、だなと思うようになってきた。
これは、さきほどの以前に書いた記事でも書いたことだが、日本のアニメを特徴付けているものこそ、「どじっ子」という存在形態にあるのではないか。主人公たちは、とにかく、だめな子なのだ。いっつも、失敗ばかりする。失敗しては、怒られている。なぜ、大人である(日本アニメの)クリエーターたちは、「子供を主人公とする」物語を描こうとするとき、こういった特徴をもった子供の視点で描こうとするのだろうか。
こういった点に、日本のアニメのここ何年かの、隆盛の傾向を見ようとするとき、むしろ、そこには、なかなか興味深い、「マンダラ」が描かれているのかもしれない、と思うようになってきたわけです。
たとえば、ここ何年かの日本の「社会現象」に近いくらいの影響となった、二つのアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」と「けいおん」について、ここでは「あえて」考察してみたいのですが、そうすると、単純にこれを、
子供向けエンターテイメント
と分類し、ゾーニングすればすむようなものではないのではないか、という印象をもつ。
涼宮ハルヒの憂鬱」は、いわゆる、ライトノベルと呼ばれる小説を原作とする、一連のシリーズものであるが、やはり、なにはともあれ、この、涼宮ハルヒ、という少女の、ちょっと「変わった」慣習的な作法、性格を、「どこまで真面目に受け止めるか」というところから始まっているわけですね。まず、この作品を読むための「リテラシー」を身に付けるとは、一にも二にも、そこにかかっているわけですね。たとえば、日本の文学史において、

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

がありますが、こういった日本的マゾヒズム(最近はやりの通俗的な言葉で言えば「ツンデレ」)を、まず、「本気で」考えようとしない「程度の」リテラシーの人間には、そもそもこれは「読めない」わけです。
他方、「けいおん」の一大ブームとは、なんなのでしょうか。これは、現在も連載中の、4コマ的な漫画を原作とした、一連のテレビシリーズですが、原作を読むと、確かに、アニメは、かなり原作に忠実に作られているのですが、
なにかが違う。
原作は、とにかく、ただの4コマ漫画ですから、非常に薄っぺらい。他方の、このアニメは、なんと言ったらいいのか、妙に(抽象的に)「リアル」なわけです。
そのリアルさって、なんなんだろうと思って見てみると、とりあえず、最初の補助線として引けるものとして、唯(ゆい)と律(りつ)の二人の、「奇妙な性格」に焦点を当てられないだろうか。
そう思ってストーリーを見ると、この二人が明確に他の軽音部のメンバーと「違って描かれている」面として、この二人が「一人っ子」じゃない、ということがあるわけですね。
他の軽音部のメンバー、澪(みお)、むぎ、あずにゃん、は、それぞれ個性的なんだけど、どこか「しっかり」している。つまり、「独立自存」しているところがある。
他方、唯と律には、それぞれ、妹や弟の存在が示唆されている(律の弟が示唆されているのは、アニメの方だけなのだろうか。非常にここには、明確な意図を感じますよね)。
唯(ゆい)は、なんでもかんでも、妹の憂(うい)に、おんぶにだっこの性格で、とにかく、家にいるときも「だらしない」。回りの世話を、全て憂(うい)に任せちゃってる性格で、憂(うい)も、お姉ちゃんの世話をするのが楽しくて、仕方がないというような、
役割分担
になっている。
他方の、律(りつ)は、お姉ちゃん的性格というのか、なんでも率先して、つっぱしるところがあるけど、どこか「のり」で走ってるだけで、それ以上の深い考察がないようなところがある。
そういう意味で、この二人の、メンバーとのからみは、常に、この二人のどこか「ばかっぽさ」が、強調されるようなところがある。どこか、常識外れというか、肯定的な表現を使うなら、他人に「平気で」依存することに「躊躇しない」心の広さがある、とでも言えばいいのだろうか。
しかし、そういった傾向を見せる、二人の「変な感じ」は、仲のいい兄弟のいる子供の傾向を、典型的に現しているように思える。兄弟は、一つの家族の中、同じ屋根の下で暮す上で、それぞれの「ラベリング」、自分の役回りを囲い込んでいくところがある。二人の兄弟が同じように、「毎日、みんなの食器を洗う」習慣を持つことは、できないわけです(そんなことができるためには、食器が二倍必要ということになる)。物理的に、その家族という、小宇宙を秩序付けていくとは、それぞれの力のバランスが均衡していく、ということなんですね。
では、こういった子供は、なんらかの欠陥を伏在しているのだから、たんに「危険な困った存在」ということになるのか。単純にそうも言えない、というのが、このアニメをなんとも言えなく魅力的にしている理由だったりするのでしょう。
そもそも、現代社会とは「分業」社会と言える。資本主義とは、この分業を実現するためのシステムと言ってもいいくらいで、人々はこの、自らの「役割を生きる」という表現で、必要十分と言えないこともない。こういった社会のいい点は、自分は自分の専門に専念できることで、
他のさまざまな雑用
を他の方々に助けてもらえる、ということですね。それによって、「自由な時間」ができることによって、さらに、自分の専門を極めることもできるし、息抜きの時間も作れる。ある意味で、こういった「分業」こそが、現代のさまざまな「才能」を開化させてきた、と言えるわけですね。
そういった「共同作業」における、チームワークの姿が、こういった、さまざまな性格の子供たちが、一同に介する「部活動」という場面で、どういった、
自生的秩序
が生まれているか、そういった、おもしろさなんでしょうね。
最後に特に注意がいるのは、唯(ゆい)は、そういうわけで、非常におっとりとした性格として描かれているわけですが、一部では、どこか「知能の足りない子供」の傾向があるのではないか、みたいな、コメントが、さまざまなところで書かれる。しかし、アニメでも、まったく毎回、テストの点数が低いか、というと、そういう感じとして描かれていなかったりもする。そうした場合、彼女を単独で、どっちの側なのか、みたいな議論は、非常にミスリーディングに思えるわけですね。さっきから言っているように、現代は「分業」社会なのであって、各自がその分野で、それなりの才能を発揮できている状態を、まったく別の「ものさし」を、えらそうに、外からもってきて、お前は頭がおかしい、とか、狂ってる、とか、危険人物だとか、レッテルをはるような、鬼畜心理学者こそ、常識的心理状態を疑いたいものだ、ということなわけです。
たとえば、第2部第8話で、唯(ゆい)は、隣のおばあちゃんと、すれ違うとき、ちゃんと、あいさつをする。逆に言いたくなるわけですね、こんなよくできた子供、ほかにいるかな。彼女はその、おばあちゃん、に、ここのところ一生懸命とりくんでいる、バンドのギターの練習を、ほめられて、でれーっと、てれちゃう。ああ、また、アホの子、とか、そういうコメントが並ぶわけですけど、よく考えてみてください。彼女が幼稚園くらいの小さい頃から、彼女を近所で見守り、いろいろ面倒を見てくれていた、それからずっと、つきあい、のある、おばあちゃん、なわけですね。その、コミュニケーションは、
連続
しているわけです。彼女は、この、おばあちゃん、の前では、あの、幼稚園の小さかった頃の、
自分のまま
なわけです。非常に健全に育ってると思いますけね。