ヘルマン・オームス『徳川ビレッジ』

(いやあ、読み始める前は、ここまでおもしろいと思いませんでしたね。恐るべし、ブルデュー社会学。こんな、1ページめくるたびに、ぞくぞくする本は久しぶりでした。私はこの本を読んで、完全に社会学を見直してしまった。すばらしい学問だ!)
オームスといえば、「徳川イデオロギー」を書いた、だれもが知っている方だと思うのだが、その著者が新刊ということで書いたこの本は、それとは、ずいぶんと違っている。前著は、徳川時代の思想を中心として、徳川幕府の思想的なバックボーンを迫る内容であったが、今回の作品は民俗学的といいますか、徳川時代の村社会を、社会学的に迫るもので、まったく違っている。
その辺りについては、当然著者自身が自覚していることなのですが、著者は社会学ピエール・ブルデューの手法にかなり自覚的に書いた、と言っている。たしかに、ブルデューの生成論的構造主義の「非常に成功した」応用例となっているのではないだろうか。
おそらく、多くの方々が思っていることなのであろうが、常日頃、日本のテレビの時代劇で描かれる、江戸時代は、なぜ、
町民
しかでてこないのだろうか。おさむらいさんと町の商人の娘が出会い、いい雰囲気になる、こんな話ばかりだ(まるで、蝶々婦人=オリエンタリズム)。私は、この傾向を決定づけたのは、作家の藤沢周平なのではないか、と疑っている。彼の描く江戸の風景は、ほぼすべての作品が、下級武士か、街の商人や家内制手工業を営む、大工のような人たちである。
もちろん、藤沢周平にも、庄内藩を描いた、歴史記述的なものもありますが、ほとんど例外と言っていい。たしかに、彼は、無力な底辺に生きる人々のリアルを描いたのだろうが、彼が描いたのは、むしろ、「現代」の恩義や愛じゃないだろうか。彼はむしろ、堂々と、現代の感情を、江戸の舞台を借りて、そこにもってきて、描いたんだと思う(そういう意味では、彼は間違いなく左翼だ)。
では、なぜ農民を描かないのか。それは、間違いなく現代人には、なかなかその全体を理解できないような、差別的な構造を、農村社会は伏在していたからであろう。

この変化の重要性を把握するためには、村の高度に構造化された社会的・政治的ヒエラルキーを理解しなければならない。まず百姓と百姓でないものたちとの間には、社会全体の支配者と被支配者との間の区別に匹敵するほどの大きな区別があった。職人や医者、その他の非百姓の人口は徳川時代全般を通じて増加していたが、地方に居住する人の数もしだいに増えていった。しかしこれらの非百姓たちは、帳面の上では一段身分の低いものとして記されている。彼らはすべて同居人か下人として登録されている。

非百姓は村のなかの二級の村民であったが、百姓がこの階層に転落することもあった。百姓の最下層にいるのは土地も財産もなく、まったくの小作である水呑百姓で、その数はどんどん増えていった。その次は抱百姓で、彼は自律的な土地所有者であったが、本家や家系の長、保護者などの「抱親」に対する、現実のあるいは虚構の「抱」として政治的依存関係のなあに編入されていた。このようにして五人組と交差し、重なり合ったりもする家筋や分家筋が構成されたのである。土地を所有するすべての百姓は、移植者さえどこかの家系に属していた。

村の議会は本百姓で構成されており、すべての家系の長は本百姓であった。領主の目から見れば、彼らは年貢の配達人である。土地を所有するこの二種の百姓----抱百姓と本百姓----は、しばしば多くの扶養人を抱えていた。

こういった複雑な階級社会を形成していた、農村社会のリアルを描いた、時代劇を私は今だかつて見たことがないのだが、それは、私が勉強不足だということなのだろうか。しかし、少なくとも、テレビをつけてやってるような、時代劇はその欠片もないことは確かだろう。
もちろん、そういった階級社会を過去の日本として描くことは、近年のPC(ポリティカルコレクトネス)からも、難しいのかもしれない。こういったものを描こうとすれば、どうしたって、下層階級の人たちと百姓との交流を描かなければならない。最近の近代人にはもうその時点でアウトなのだろう。
しかし、そんなことでどうすのだろうか。私の立場から言わせてもらうなら、すべての歴史はその「連続」性にこそ、ある。もし日本が、徳川時代の、農村的なリアルを描くことなく、真実を隠蔽し続けるなら、それは一つの歴史の連続性に対する敵対行為として、
日本の連続性
を破壊する行為と言えるだろう。言うまでもないことであるが、彼らがたんなる、差別的な存在であるはずがない。そんなような想像は、むしろ、過去の先輩たちへの侮辱行為そのものだろう。
江戸時代の、農村。
ここには何があったのか。現代思想に興味をもつような若者たちが、この日本の私たちの
ルーツ
に興味をもち、各地域の文献をひもとき、文化をつくっていってくれることが、まず、自分たちへの誇りとなるのではないかと思うのだが(今の日本人の「ほとんど」がそのルーツは、農民なんですよ。分かってます?)
なぜ、この本が成功しているのか。
それは、この本の導入部となる、具体例。18世紀の半ば、信濃の北佐久の村に生きた、
けん
という女性に完全にスポットをあてて、研究を始めたことである。これによって読者は、
一気に、徳川時代の村社会に放り込まれる。
けん、という女性が、このとき、こう考えて、こういう行動をして...。
だめだ。
いかにこれが、だめかが読まれると分かると思います。そもそも、その江戸時代の農村社会が、どういった
セカイ
なのかが、同じ日本人なのに、さっぱり、「知らない」からです。手がかり「すらない」。こういう事態に対して、一体、何ができるのだろう。それが、
ブルデュー社会学
なんですね。地方史家であり、学校教師の、尾崎行也によって発掘され、つまびらかにされた、「けん」という女性を、今度は、著者によって、ブルデュー社会学によって構造化された、江戸システムにおいて、布置されることによって、一体これがどういったコスモロジーとなっているのかを分明にする。
「けん」の父親は、彼女が生まれたときに亡くなり、そのとき、兄の新蔵は19歳であった(ちなみに、姉の「いね」は口べらしで、他の村に行っている)。嫁ぎ先からこの村に戻ってきて(帳面に名前が復活)、兄が失踪(帳面からの名前の抹消)して、その2年後、母親が死に、彼女は25歳で、たった一人になる。
ここで、重要な変化が起きる、母の死まで、彼女の家族は、けんの亡くなった父親の弟で彼女の叔父にあたる源太夫の家の「抱」。つまり、抱百姓、と記帳されていたが(つまり、分家)、それ以降、叔父の家に編入され、彼女は彼の名の下に登録される。つまり、身分の移動が起きるんですね。
彼女は二度目の結婚も、ほとんど続くことなく離婚になるのだが、ここで重要なのは、その間に彼女は、同居人から、再度、(彼女のイエのもう一つの家系の重左衛門の)抱百姓に戻っていることである。
彼女が、こうやって叔父の源太夫の元から距離をおき、1757年。彼女が45歳という、もう、当時のおばあちゃんに近くなる頃、ある口書を、村役場に提出する。その内容が衝撃的である。17年前に失踪した、「けん」の兄の新蔵は、殺されたんだ、というものでった。これでなぜ、彼女が源太夫から距離をおこうとしたのかが分かる。兄の殺害に源太夫が係わっていたという主張だからである。ある名主の殺害命令にもともと殺意をもっていた源太夫が、共同で兄を殺した。
ここで重要なことは、江戸時代の農村は、少しもアナーキーでなかったことです。完全に「私刑」は認められていませんでした。特に、殺人はすべからくとりしまられていたんですね。

歴史家の水本邦彦は、さまざまな司法権のレベルにおいて、村人による暴行や殺害などの制裁を禁止する17世紀の法律を一覧表にしている。代官たちにその領地で適用するように出された幕府の法律、各藩の藩主が出した法律、そして幕府が定めた村法などである。村のレベルで許されていたもっとも重い刑罰は追放であった。

殺人がどれだけ重い罪であったか。それが、公然と村役場に訴えられたら、それは、たちどころに、中央の知れるところになるでしょう。なまはんかな結論をだすわけにはいかなくなります。
このストーリーの重要なポイントは、明らかに、村の人々はだれもが、新蔵を殺したのが源太夫だというのを、みんな知っているわけです。もちろん、新蔵は、若い頃、江戸で学んだことや、自分たちのイエがほとんど農業をするための土地もなかったことで、馬喰(馬の売買)や博打などに手を出し、問題の多かった男だったのでしょう。しかし、それは彼女「けん」にとって、なにほどのことだったか、ということでしょう。
この物語は、たんに生まれたときから、家の土地や資産も少なかった、貧しいイエの没落の物語でしかないんだと思いますが、これになぜ、こういった外国人の方が注目するのか。自明ですね。これは、明らかに、ギリシア悲劇を代表する、ソポクレスの「アンチゴネー」の世界そのものなんですね(こちらでは、兄の墓が問題でしたが)。
以下、ちょっと「けん」の告発文を眺めてみましょう。

当年兄新蔵拾七年(忌)ニ罷成候ニ付、願出申候、忠右衛門殿ニうらミ山々ニ御座候、くるい(曲輪)を寄、村中を寄、御相談ニくわしく言付被成、とが(咎)なき壱間(軒)前之百姓をころされ候、とが御御座候ハ、母へなりとも、私へなりとも、いさい(委細)の義、くるいより御知セ被成被下候筈、とが無御座候故、此方江無沙汰被成、ああしていて、何様の事いたし候かと、うた(疑)ぐり御座候而、ころされ、何分ニも此義ハ十七年此方、くやしミ事ハ、山山に御座候得とも、今年迄心内に指置、此義ぼたい(菩提)と願申候、ほたいの義ハ、手前子孫へむくひ(報い)かかり不申様ニ、何分にも此方之ぞんし寄イ、ほたい御とひ(訪)可被成候、寛保元年酉ノ十一月六日、其節くるハ新左衛門殿より人を被遺候、私まいり候て、いさい(委細)の義承候処、新左衛門殿被申候ハ、名手殿之言付にて、其元の兄新蔵を、うちころし申候、仍而其方にてほたいをとへと被申候、宿へかへり、母と右之いさいを噺申候所へ、八わた(幡)宿姉もまいり候而、何分にも御公儀様江御うつたい(訴え)申候而、御さいきやう(裁許)致候と申候へとも、私ハよう(幼)少、母ハしょせん(所詮)身ニあまり、らん(乱)気に罷成候ゆへ、今年までうちすて申候。
太夫との、此義に付うらミ山山に御座候、八幡宿妹むこ甚五右衛門か馬なくし候故、代金取ニまいり申候節、母はとちらも子の義御座候ゆへ、取上不申候所ニ、源太夫との取上、代金を被遣候、其節馬方を何分にも成不申候といふ、くるハ連判の証文をとられ候、其うへ寛保元年酉閏三月十六日、手前之馬をあつけ、うれなくし候とて、宿へ寄不申候、内(家)へより付んとすれハ、をち(叔父)源太夫殿、うちころさんと申候、扨又他国参度思ひ候にハ、年寄の母壱人御座候故、見届度思ひ候て、あちらこちらとせし処に、市山の手前の畑ヶくろ(畔)に居申候処を、各々方大勢にて追出シ、寛保元年酉十月晦日呉(暮)合ニ百沢(ももさわ)の大橋のむかいにて、うちころされ候ハひつちやう(必定)御座候、しよて(初手)のぼう(棒)新左衛門殿、此人にうらミ山々に御座候、拾七年此方ゆるし置申候、何のとがなきものを、わけて名主殿言付けられ候が、追逃シにもする筈、同団右衛門殿ぼうあてられ候ハ、其とかかけ申候、長九郎殿・直右衛門殿・伊兵衛殿・吉左衛門殿、村中之事ハ、此方ニ而ハ存不申、立被寄候中間ニて御存御座可有候......

此方ぼだい(菩提)の義と申は、皆々様手前子孫へむくひ(報ひ)かかり不申様に、何分にも此方の存寄に御とむらひ可被成候。ぼだいの義は、善光寺にて此世あらんかぎりの日ぱい(牌)すへ、同善光寺にて四拾九つかれ、又は高野山にてこの世あらんかぎりの日ぱいすへられ、此世あらんかぎりの常とうめう(燈明)を付られたり、ぼだい寺梅渓院にて此世あらんかぎりの永代千部をよまれ候、皆々左様に被成候はば、施主には、私なり申候。善光寺へは私もぼだい致候間、其方より金子被持セ、拙者義も其節同道可致候。高野山へは、女行れぬ道に御座候由、六右衛門名代遣し可申候、其方より右如人に金子為持、右様は致し申候へ共、各々方御心無御座候はば、是非とは不申候。皆々様御寄合御相談にて、存寄に可被成候、左様御座候へは、此方にてもぞんじ寄にいたし可申候、もし御徳心御座候はば、忠右衛門殿・源太夫殿・新左衛門殿・団右衛門殿・宇平司殿より證文を取申候、左様御心得得被成候、此方より下書遣可申候、長九郎殿・残惣役人方よりも、證文可被遣候、これも此方より下書遣申候、くるい(郭)にてうみ無御座候は、重左衛門殿・兵八殿・役人の内にては忠助殿にうらみ無御座候、村の内其場へ立寄ぬ方、ぼだい金御無用可被成候、言(申)す事外には無御座候、仍て如件

こういった感情的な文書というのはめずらしいのだそうです(それだけ、一般的な記述のスタイルを逸脱している)。それだけに、当時の農村の方々の直接の感情を記述しているものとしても貴重なんだそうです。「けん」はもちろん文字が読めなかった。ほとんどの日本の農村の方々は、文字の読み書きができなかったわけですね。しかし、彼らは明らかに、自分たちのこの周辺の世界を理解し、積極的に働きかける。彼女の村には、当然、本百姓がいて、5人組があり、村掟があるし、各藩や幕府が作る村法がある。本百姓は、この地域の村の戸籍を役場に報告する。「けん」が抱百姓から、同居人に移れば報告する。「けん」の視線にだって、明らかに、村役場を通して、この国のパワーポリティクス、権力構造の延長が見えているわけですね。
別にこのことは、日本固有の事態ではありません。世界中のほとんどの人たちが、つい最近まで、農民でしたし、農家には、多くの「差別的な」身分制が、隠然と、つい最近まで続いていた。著者は以下のように述べます。

母は父と同じくベルギーの農家の出身である。ある意味で、私たちのほとんどは農民の子孫である。なんとか小ブルジョワジーに手が届いても、たいていは農民の臭いがする。われわれの多くの過去が流れ込んでいるのはそこである。まるで家に戻ったかのようにあざやかに思い出すのは、私が母に自分の研究について話したときのことである。母はそれに対して興奮気味にこう語った。「そう、私は本百姓の家の出身なの。でもお父さんはそうじゃないわ。彼は kossaat なの。小さな農民で、本物の農民ではないの。馬を一頭しかもっていなかったのよ」。辞書によれば、私が聞いたことも見たこともなかったこのフラマン語は、少なくとも一二世紀までブラバント地方の農民たちの間で、身分と階級の徴表として使われていたものだそうである。一瞬にして、過去が私のうちに蘇った。

私たちは、農民の子孫なのです。

徳川ビレッジ―近世村落における階級・身分・権力・法

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