大竹弘二『正戦と内戦』

カール・シュミットの、思想を紹介する、入門書としては、シュミットそのものの、多様な研究関心に対応して、それぞれに議論を行っているということでは、申し分ないのではないだろうか(往々にして、ナチ・コミットに議論が極論してしまう傾向がある中で)。
(半年以上前に、半分くらい、前半を読んでいて、ここのところ、残りを最後まで読んだところ。)
カール・シュミットについては、政治に関心のある人たちにとっては、既知の存在であるだろうが、その重要さをどれだけ分かっているのかは、非常に問題に思える。一番単純には、丸山眞男が、戦中から、シュミットの大きな影響の中で考えていたことなどはあるのだろうが、むしろ、戦後を含めたその影響力を射程にした議論は日本では少ないようだ。
日本とドイツは、第二次大戦における「敗戦国」として、非常に大きな関係があるとともに、それぞれのその、敗戦に至る過程において、その「独立」性が興味深くもある。
あきらかに、日本とドイツは同じ世界大戦において負けておきながら違う。しかし、違いながらも、明らかに、似た構造を示している。そういう意味では、その違いは、ある解釈の下では、十分に説明できるレベルでの、同型性があるのかもしれない。
シュミットは最初から、ナチの「中の人」のような人ではなかったようだ。
第一次大戦までは、兵役中であった、シュミットはその頃はまだ、嫌戦的な発言をしていて、ある意味「反国家的」と言えるまでだったそうであるが、以下の事態が、この事情を一転させる。

反国家的な心情を隠すことがなかったシュミットに転機をもたらしたのは、ドイツの敗戦と革命の経験である。1919年7月までミュンヒェンで軍務についていたシュミットは、敗戦の混乱を契機とし共産主義勢力による同年4月のミュンヒェン・レーテ共和国の樹立を直に体験することになる。シュミット自身が絶えず身の危険を感じていたと回想するこの革命騒乱が、まさに秩序と安全の維持に近代国家の決定的役割を見出すようになる彼の思想形成に大きな影響を与えたと言える。と同時に、敗戦に伴ってドイツが甘受することになったヴェルサイユ条約は、シュミットにナショナリストとしての心情を呼び覚ますきっかけとなった。実際、この条約は多くのドイツ人にとって、第231条の戦争責任条項に示されるようにドイツに一方的に戦争責任を負わせた不当なものであり、最高度の国民的屈辱にほかならなかった。1919年にマックス・ヴェーバーと知り合い、ミュンヒェン大での彼のゼミナールに参加する機会を得たシュミットは、往年を回想して延べている。「私は当時、個人的にマックス・ヴェーバーと知己を得て、さらに、1919/20年冬学期の彼のゼミナールのメンバーとなりました。彼は復讐主義者でした。ヴェルサイユに対するすべての復讐主義のなかでも、私が経験したなかでもっとも過激でした」。

非合理な国民の行動は、往々にして、不当な不平等条約を押し付けられることから始まることが多いようだ。マックス・ウェーバーのような、現代政治学の神様のように扱われている人でも、その動機は、たんなる
復讐
だったということである。しかし、だからその理論は、なんらつまらない砂上の楼閣ということではない。学者とはそういうもので、いかに動機が不純であろうと、その研究成果は、平等な批評にさらされるわけである。
こうやって、シュミットは、ナチスの「中の人」となっていくわけであるが、そうした場合、彼はどのような学問的なスタイルでコミットしていくことになるのか。

法秩序の理解をめぐるナチスと西側諸国との軋轢は、ナチスによる共産党弾圧のきっかけとなった1933年2月27日の国会議事堂放火事件の裁判のうちで顕在化する。このとき、この事件の犯人とされた共産党員マルヌス・ファン・デア・ルッベに対して遡及的に死刑を適用するため、3月29日にいわゆる「ファン・デア・ルッベ法」が制定された。同年9月に審理が始まったこの事件の裁判は国内外の大きな関心を呼ぶことになるが、そのさいとりわけ、刑法の遡及効禁止原則を侵すそのような事後法が少なからぬ批判を招き、ナチス・ドイツの「法治国家」としての資格が疑問視されることになったのである。これに対してシュミットは、ナチス体制が、従来の自由主義的な法治国家概念では理解することのできない新たな「法治国家」であることを主張しようとする。

このことは、私が以前書いた記事からも、重要です。つまり、この事態は、9.11以降の、アメリカの警察国家化を
正当化
しうる理論を提供する可能性として読めるからです。ナチスは、この事件をきっかけに、全体主義国家をつき進みます(そのなれのはては、みなさんがご存知のように、ヒットラーの自殺と敗戦だったわけでしたが)。
よく考えてみると、なぜ、遡及的に、罪を裁いてはいけないのか。それは、「正義」とはなんであるのかに関ります。そのとき、とりしまる法律があろうがなかろうが、それが「正義」にてらして許されないなら、そいつには、なんらかの罰を与えなければならないのではないか。結果として事後法になることは、「現在の法の体裁上」の話にすぎない。裁かねばらなない悪を目の前にして、なにをひるむことがある。
最近はやりの、マイケル・サンデルがなんと言ってるかなんて知らないけど、ようするに、シュミットは、自由主義世界における、法治主義という「形式主義」より、ナチス道徳という「正義」を上位の価値とした、ということなのだろう。もっと言えば、これが、
例外状況
ということになる。

ナチス期のシュミットは、「指導者原理」をナチス法治国家の中核に据えることによって、自由主義法治国家に見られる立法、行政、さらには司法の区別を廃棄しようとした。これは、例外状態においては眼前の具体的事態に対処するための「措置」が一般的法規範に優先するという1920年代の独裁論、および、変動する社会・経済状況に措置を通じて即座に介入できる行政府に立法府を超える役割を認めようとした30年代初頭の全体国家論の帰結にほかならない。そして最終的にナチス期になると、一般的規範としての法律は、状況に応じてそれを無限に柔軟に運用することを可能にする「指導」によってほぼ完全に宙吊りにされてしまう。かつて1920年代にベルリン商科大学の教授だったシュミットのもとで学位を取得し、ナチス台頭後にドイツから亡命したいわゆる「左翼シュミット主義」のフランツ・ノイマンは、まさにこれをナチスの法律イデオロギーの典型的特徴とみなすことになる。ナチス体制においては、法律を事実上無効化するまでに自由で柔軟な法運用が執行権力に認められるわけである。

まあ、こんなことを言っていたら、なんでもありですよね。すごいですね。
しかし、よく考えてみれば、なぜ「なんでもあり」じゃないのか、というのは重要な論点のはずなのです。それが、彼がどこまでもこだわる「独裁」の問題です。
彼の言う「政治的なもの」としての、友と敵というカテゴリーは、もともと、カントのカテゴリーに発想するようなもので、非常に形式的です。むしろ、友と敵という
無定義用語
と考えた方がいいでしょう。政治とは「抗争」の別名であるはずなのだから、この分類が「形式的」に、必ず、なければならない、という意味なわけです(そうじゃないと、抗争と言わない)。
その場合に、シュミットが「民主主義として」こだわるのは、その「直接性」なわけです。よく考えてみると、法というのは変です。だって、言葉とは、そもそも、具体的な人間が、ある具体的な場面に対して、言及するから、意味が生れるわけでしょう。法のように、だれが、いつの場面について言っているのかもないような言及は、はなはだ、なにを言っているのか疑わしい文章だと言えるでしょう。
つまり、法は常に、その一回性において、その「意味」を回復しなければならない、ことが要請されているわけです。
しかし、この事態は、シュミットに言わせれば、そもそも、まず主となるのは、「独裁者」の意志である、ということを意味するわけです。政治が腐敗するのは、常に、上記にあるような、法の「間接性」にある、というのがシュミットの見立てです。言葉がどんどん、機械になる。すると、それはすでに、だれの意志を現すわけでもない、「ゾンビ」になります(UNIX サーバをあてどなくさ迷う、ゾンビ・デーモン、のようなものです)。
そうやって、だれの意志なのかも分からない、起源のあやしい、どこの不埒な野望に満ちた秩序破壊者の、爆弾かもわからないような、そういった言葉が、どんどん世界を浮遊して、人々を左右する、そういった「テクノクラート的」機械支配に対立する立場こそ、彼の民主主義になるわけです。
その場合、なによりも、「直接」であることが重要になります。一番いいのは、独裁です。一番、発言がクリアになります。だって、もろ直接、その人の意志なわけですから。そして、そこにおける民主主義は、「拍手による喝采」以外にありえません。彼が嫌うのは、こっそり自分の顔を隠して、陰でこそこそ、つぶやくような、秘密投票、私のこのブログのような行為になります(柄谷さんに言わせれば、匿名による秘密投票は、むしろ、自由主義的なルーツになる、ということのようです)。
(ちょっと余談ですが、ナチスのヨーロッパ侵略(第三帝国)は、その名の通り、神聖ローマ帝国のことだったわけですよね。だから、侵略ということは問題だとしても、ある意味、過去への回帰という側面が、まったくなかったわけではなかった。そう考えると、EUとかユーロとか、まったくもって、神聖ローマ帝国なんでしょう。そう考えると、中国はもうあれで、ある意味、「帝国」なわけですから(それくらいのエリアの広さですよね)、それを広げて、あらためて、東アジア共同体と言うのとは、ちょっと意味が違う気もしなくもない。どちらかというとそれって、イギリスがユーロに参加する、と言うようなことに似ていなくもない)。
しかし、彼は(通俗的な言い方をするなら)ナチス内部の権力闘争に破れる。完全にパージされ、在野の人となる(なぜなのかは知らない。彼の理論があまり、人種主義的でなかったことも、影響しているのだろうか)。ただ、そのことが、戦後の彼自身の戦争責任の弁明を可能としたことは間違いない。そして、戦後を生きる彼は、最後まで、大学に戻ることなく、在野の思想家として、余生を生きることになる。
戦後を生きるということは、戦前を反省した、ということと同値である。反省とは、学者にとっては、分析と同値の意味です。
ナチスは、一体、何が問題だったのか。一つは、ナチス(政権)が、まったく、合法的な、選挙による、手続きで誕生していること、であったことは間違いないでしょう。それは、日本の治安維持法のようなものが、まったく、合法的に国会で誕生していることと比べられるかもしれません。
ということは、どういうことなのでしょうか。これは、非常に重要な事態だということです。戦後のドイツが、最も、重要視したことは、左翼革命の阻止だったわけです。皮肉なことに、ドイツは、
二度とナチスを生まない
ためのさまざまな「カラクリ」を作るわけですが、実際にはそれらは、完全なる左翼革命の徹底根絶やしに使われました。民主的な国家の体裁を見せながら、その内実は、あからさまな、左翼いやがらせ政権だったわけです。
戦後とは、冷戦のことだったわけですが、それは、日本も同じです(私には、本当に今、冷戦が終わったのか、疑問です。それは、上記の意味での、左翼いやがらせが終わっていない限り、この体裁が解消されていないわけですから、それを、冷戦の終焉と呼ぶのは欺瞞だと思うからなのですが...)。
シュミットは実は、もう一つ指摘しているのですが、こちらは深刻です。

このなかでシュミットはナチス体制の政治構造を分析しつつ、そこに一つの問題点を見て取った。それは決して、ヒトラーが全能の「独裁者」であったかということではない。むしそ、シュミットがナチス体制の顕著な特徴とみなすのは、一個人への権力集中がかえって、その者でさえもコントロールできない権力闘争の場を開くことになったという点にほかならない。その場とはつまり、権力者に「アクセス」するための通路である。「政治権力が一つの地位に集中し、一個人の手に集中するほど、この地位と個人へのアクセスがもっとも重要な政治上、組織上、憲法律上の問題になっていく。絶対君主へのアクエスをめぐる闘争、彼への助言、情報提供、直接の上奏などをめぐる闘争が、絶対主義の憲法史における本来の内容である」。
権力者がいるところには必ず、権力者へのアクセスをめぐるこうした闘争が発生する。なぜなら、権力者はその権限がいかに大きかろうと一個の人間であることには変わりなく、その限りで、決断のための情報収集およびその執行にあたっては、配下にいる多くの者たちの助力を不可欠とするからである。しかも、権力者は強大になればなるほど一層多くの助力を必要とするようになり、同時に、彼へのアクセスをめぐる闘争も一層激化していくことになる。シュミットの見るところ、ナチス体制の権力構造は、まさにこうした論理のうちに巻き込まれていったのである。

ヒトラーの個人的な権力地位は、全能への途方もない要求を伴っており、しかしまた、全知への要求も伴っていた。実際、全能についてはかなりの範囲にわたって存在していたし、かなりの程度にわたって実効的であった。それに対し、全知のほうは純粋にフィクション的だった。それゆえ、第一の実際的な問題は、全能の総統が意志決定を行ない、決断を為すための基礎となる材料を誰が彼に与えるのか、入り口に流れ込んでくる大量の事柄のなかから誰が選択を行ない、そもそも閲覧に供されるものおよび供されないものを誰が決めるのかということだったのである。

これは、すでに、戦中において、ベンヤミンが指摘していたことなわけですが、まったくもって、日本の天皇制そのものじゃないでしょうか。昭和天皇は、たしかに、2.26事件のときのように、独裁を発揮することもあったのでしょうが、ほとんどは、周りを固める、大本営が、「天皇の意志」として、やってたわけでした。
しかし、不思議なことは、戦後の日本の政治思想にしても、この問題を重要視するような議論は少ないように思える(密教的な秘密主義もそうだけど。もう、なんかしら解決が見つかったとでも思ってるんですかね)。たしかに、じゃあ、なんらかの具体策がありうるのか、と考えると難しい(ちょっと前に書いたように、今の時代に、宦官を復活させるわけにもいかないし、間違いなく、テクノクラート官僚独裁の時代がまだまだ続く、ということでしょうか)。
それにしても、戦後の日本とドイツの復興の経過も似ています。それは、産業資本主義による、経済先行の復興でした。しかし、そのことは、ある倒錯を起こします。まずもって、経済こそが、最初になったわけです。もう、
国家は二の次
の存在でしか、戦後はありません。それが意味することは、以下のような、テクノロジーの自動機械、なのでしょう。

第二次大戦後のドイツでは、経済の再生が国家の再建に先行したのであり、ドイツ連邦共和国は、経済と社会に遅れてやってきた国家だというのである。いまやこの国家に残されているのは、自分自身で機能する経済社会の安定化に奉仕するという役割だけである。「国家としての連邦共和国は社会の機能となった」。そしてこれこそ、今日のあらゆる国家の運命にほかならない。

彼が展開するのは、ある種の社会福祉国家論である。「その安定性を産業社会から与えられている」今日の国家は、積極的な介入行政を通じて社会生活の安定を確保せねばならないのである。その限りでフォルウトホフはなお、国家を断念しようとはしていない。むしろ彼は、産業社会の変動にフレシキブルに対応できる能力をもった強固な官僚制に基づく強力な行政国家を渇望するのである。
フォルストホフは、立法よりも行政を社会国家の本質的な構成要素とみなすことにより、行政官僚によるテクノクラシー的な政策操作に大きな比重を置くことになる。ハンス・フライヤーを始めとする保守理論家は、第二次大戦後、ある種の技術信仰へ傾くが、フォルストホフもまたその例外ではなかった。だが、彼の理論のテクノクラシー的な前提は、結局のところ、国家の概念を掘り崩していくことになる。晩年の彼は、社会国家の枠組で行なわれる経済的安定化である「社会的実現」にとどまらぬ「技術的実現」を問題にしていた。これは、自分で作り出した問題を自分で解決していく、つまり「自分自身のために自分を産出する」ような「技術的プロセス」であり、ここではもはや国家は必要とされない。フォルストホフがなお「国家主義的な」視点から展開していた産業社会の安定化に関する考察は、国家を不要とする社会学へと移行する契機を内在していたのである。
このような帰結は、ヘルムート・シェルスキーのような、いわゆる「テクノクラシー保守主義」の立場に立つ戦後ドイツ社会学のなかで最大限に引き出されることになる。シュミットの定義をもじって、「主権者とは社会のなかで用いられる科学−技術手段の最高度の実効性を手中に収めている者である」と述べるシェルスキーにとって、政治家は「支配者」ではなく、「技術家」、「プランナー」、あるいは「マネージャー」に還元される。重要なのは政治的決断でも国法規範でもなく、科学−技術的に展開していく社会の「事態法則性」なのである。シュミットには、シェルスキーのこうした考えは決して許容しえなかった。

こうした事態法則性それ自身において一貫した機能主義は、人格的決断の観念を掘り崩すのであり、しかも、「自ずから」、それなりの「論理」に基づいて、自身でいかなる決断もすることにそれを行うのである。

自ら問題を解決していくこの「サイバネティクス的装置」は、「誰が決定するのか」という政治的決断の問いを一掃してしまうのである。
技術がもたらす社会の自律的な安定化機能を重視するシェルスキーのテクノクラシー的なテーゼが、ニクラス・ルーマンのシステム理論に繋がっていったのである(ルーマンが1966年にミュンスター大学で教授資格論文を提出したとき審査にあたったのが、ほかならぬシェルスキーである)。

国家とは、すでに、人格的な何か、ではなくなります。少なくとも、「経済に先立つ」ものではなくなります。まず、経済があって、国家は、その経済を回すための、一機関として、存在することになります。
それが、サッチャー以降の最小国家論だったわけです。しかし、なぜそうなったのでしょう。当然、「国民がそれを求めた」からです。先ほど言ったように、問題は、
国民が民主主義の破壊を民主主義的に選ぶ
事態だったわけです。サッチャーがやったことは、国家官僚が恵まれているというプロパガンダによって、ポピュリズム的に国家の最小化を国民に選ばせることでした。大事なことは、それによって、国家は小さくならない、ということです。変わるのは、そのサービスを提供する主体が国家から企業に変わるが、新たに、
国家による行政指導(法律など)による企業コントロール
はより、激しく国家官僚の仕事として巨大化していくわけです。
この国家は、どこに行くのでしょう。

シュミットが「国家の終焉」を診断したときに念頭にあったのも、国家そのものの消滅ではなく、むしろ経済とテクノロジーによって近代的な国家主権、さらには国民主権の原理が空洞化されているという事態にほかならない。こうしたプロセスは、戦後の高度経済成長を支えたフォーディズム型国家が危機を迎えた70年代を経て、90年代以降のグローバル化のなかでラディカルに加速された。いまや、シュミットが眼前にしていたような「生存配慮」の行政給付を行なう福祉国家でさえも自明ではなくなりつつある。むしろ、国家はグローバル市場における資本の自己運動を内面化し、そのなかで生き延びようとしている。これは、単に反国家的な市場原理主義ではなく、ある種の「経済ナショナリズム」によって動機付けられた国家の生き残り戦略にほかならない。だが、このとき生き残るのは国家であり、必ずしも国民(ネイション)ではない。国家の統治能力のために必要とされるのは、法権利主体としての国民よりも、資本主義生産の変動にフレキシブルに適合しうる「自由な」個人となる。国民のうちへ同化し包摂するという統治実践は相対的に背景に退き、ポスト・フォーディズム型生産様式のフレキシビリティに適合できないとされる人間の排除の空間が温存あれるのである。しばしば「ブラジル化」とも名指される国民内部の分断と階層化をひき起こしつつ、国家は新自由主義の統治要求に応えるかたちでグローバル経済における新たな役割を追い求める。したがって、こうした経済テクノロジー的な国家の脱国民化された生き延びは、厳密には、経済ナショナリズムというよりも、むしろ「経済国家主義」と呼ぶべきものによって駆り立てられていると言えるだろう。

国家はむしろ、その経済的な目的のために、国民を「犠牲」にします。経済はその本質に、競争を求めます。つまり、敗者の山が、アプリオリに要請されているわけです。常に、失業率が高いことが重要なのです。それは、企業が優秀な人材を確保できていることを意味します。
こういった、事態を、上記では「ブラジル化」と呼んでいるわけですが、この国民主権の敗北(まさに、フーコーが言っていたような意味の権力なのでしょう)は、上記の、シェルスキー的な、国家の機械化と言っていいでしょう。国家は、国民とは独立に、その経済的要請に動かされるまま、その自己運動を始める。
しかし、こういった事態は、上記の引用にもあるように、シュミットには受け入れられなかったわけでした(シュミットが、ルーマン的なシステムに否定的だったことは重要ですね)。
しかし、どのような闘争の形態がありうるのでしょう。

かつてのユンガーにとって重要な意味をもっていた二つの形象、すなわち「労働者」も「兵士」も、技術の運動としての歴史から逃れることはできない。これに対し、「森を行く人」は、歴史的世界のなかで自らの目的や行動を普遍化しようとはせず、自分自身のうちにある正義にとどまりつづける。彼の行動は普遍妥当性を求めるものではなく、あくまでも一回的・具体的である。「森を行く人は具体的な個人である。彼は具体的な場所に行動する。彼は何が正しいかを知るために理論を必要としない......」。これがゆえに、「森を行く人」の振舞いはパルチザン的となる。彼はいかなる規則も形式も知ることなしに、つねに「いまここで」、「自由な独立の行動を取る男」である。友敵区別が曖昧化し、前線と後方地帯が区別できなくなった「世界内戦」の時代が、このような行為者の出現を誘発するのである。「森は至るところにある」のであって、「森を行く人」はあらゆるところで「遊撃戦」を展開するのだ。
森はユンガーにとって、「投票用紙」が単に拍手喝采のための「アンケート用紙」と化してしまった今日の空虚な政治的公共空間に対峙されるような、「原政治的とも呼びうる状態」のメタファーである。このような抵抗を行なう「森を行く人」は、ユンガー晩年の小説『オイメスヴィル』のなかで「叛徒」と呼ばれているものに等しい。すでにユンガーは第二次大戦中の日記のなかで、なお秩序と関わりを持つ「ニヒリスト」に、そうした秩序の関係を一切欠いた「アナーキスト」を対置していた。こうした「アナーキー」への憧憬は、さしあたりユンガーを「秩序思想家」であるシュミットから本質的に区別する点であるように見える。実際、シュミットの学徒であったゼルゲ・マイヴァルトは、『森の径』への書評のなかで、プランニングを行なう技術装置と化した国家権力に抵抗する「森を行く人」というユンガーの思想を批判している。彼は、「全体的パルチザン戦争というユンガーのテーゼ」に危険を見、シュミットに倣って、「森という神話」に劣らず強力な「リヴァイアサンの神話」に訴える。
しかしながら、当のシュミットのほうはといえば、いまやユンガーの「森を行く人」から大きな示唆を受けるのである。

ここから、シュミットは名著

パルチザンの理論―政治的なものの概念についての中間所見 (ちくま学芸文庫)

パルチザンの理論―政治的なものの概念についての中間所見 (ちくま学芸文庫)

を書くわけです(今回は、パルチザンの問題については、深く追求しません)。シュミットの考えるような「政治的なもの」をどのように、これからの未来に確保すればいいのか。そのオールタナティブとして、シュミットはこういった、ほとんど「アナーキズム」と違わないこのような立場にさえ、突き進んでくる(ここに、私は、凡庸な通俗的保守主義な中でしか考えられない、右翼ファッション主義者と、徹底的に形式的に突き詰めた果てには、アナーキズムさえ、自らの範疇とする、彼との思想家としての、格の違いを感じるんですけどね)。
パルチザンの理論について考えるとき、私はアニメ「コードギアス」の再評価が可能になると思っている。日本人レジスタンスは確かに、ルルーシュに利用される。利用され、ルルーシュのマインドコントロールによって、彼らの意にそわない死に方を選ばれることになる。そういう意味で、ルルーシュは、日本レジスタンスの

そのものだったわけである。しかし、重要なことは、彼らに「力」がなかったことである。そこにおいて、ルルーシュがどんな奴かなど関係ないわけだ。彼らには「力」がなかった。だとするなら、当然、
第三勢力
が必要とされる。いや、掲題の本が言うように、パルチザンには、第三勢力の援助なしにはありえないわけである。しかし、援助を受ける、ということはどういうことなのか。シュミットの言う、
政治的なものの直接性
から離れていくことを意味するわけだ。

1915年の有名なフセイン・マクマホン協定でイギリスがアラブ人に保証した独立の約束が、結局は空手形にすぎないことをロレンスは分かっている。にもかかわらず彼は、その約束を掲げてアラブ人たちとともに戦わねばなない。こうして戦争のあいだロレンスを絶えず悩ませるのは、自らが欺瞞を働いているという意識にほかならない。「ここではアラブ人は私を信じている。......そこで私は、いっさいの名声などというものは、私の場合のように、すべて欺瞞の上に築かれているのではないかという気がしてくる」。こうした意識に反してでもアラブ人の独立は達成されうるという感覚を払拭することはできない。このような欺瞞の意識が、この著作のなかでロレンスがしばしば告白する感情、すなわち恥の感情をひき起こす。

そこで、イギリスは文字においても精神においてもその約束を必ず忠実に履行することを、私は彼らに請け合った。それだけを頼みにして、彼らはあの天晴れな仕事を成就した。しかしもちろん私は、この共同の成就を誇りにするどころか、絶えず厳しい汚辱感にさいなまわれたのである。

パルチザンにも当然、この戦後の資本の論理が襲いかかり、そこから逃れて存在することはできない。第三勢力なしに、その戦線を一度でも維持することができなかったとして、その援助を一度でも受けた時点で、彼らの利害関係の外に自分たちを置くことはできない。
あらがうことは、不可能への挑戦であり、その行き着く先は明るくない。

こうしたマシュケの議論のうちに、1970年のヨーロッパの左翼テロリズムの経験が反映しているのを見て取ることは難しくない。実際、ドイツ赤軍RAF)が主にその武装闘争の教本としたのは、毛沢東ゲバラ以上に技術的方法論としての性格が強いブラジルの革命理論家カルロス・マリゲーラの『都市ゲリラ教程』であった。ゲバラが67年にボリビアでの革命に失敗して殺害されたことを受けて、都市部での新たなゲリラ戦略の指針を提起したこの著作は、先進国の極左活動家によって、もはや人民との連帯は二次的であるような単なるテロリズムの方法論として受容されることになった。人民の戦争は、いまやテロリズムの技術に堕したのである。

私がこだわったのは、むしろ、シュミットのような保守的な思想家が、こういったパルチザンに、可能性を見ようとしたことの、その意味にあった(パルチザンをどこまで徹底して現代のメファーとして読めるか)。おそらく、これからの未来は、より、上記にあるような、シュミットが受け入れることを拒否した、テクノクラート独裁的な、
経済国家主義
の時代が続くだろう。しかし、その「非人間的」な様態に抗えるとしたら、一体、どのようにしてなのだろう。もしそうできるとしたら、どのような、オールタナティブがありうるのか。そう考えるとき、なぜかこのようなシュミットという保守主義者が呼び出されることが、不思議に感じる。

正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想

正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想