いいよっっ

アニメ「ストライクウィッチーズ」の、テレビシリーズの第二部が、現在、放送中である。第二部ということは、第一部があったわけであるが、ある意味、そちらは話としては、完結していた。つまり、なぜ、この第二部が作られているのか、が問題ということである。
このアニメの世界においては、日本は、
扶桑皇国
という名前で呼ばれている。この世界においては、どうやら、第一次世界大戦、も第二次大戦も、存在しない、というか始まっていないようである。その代わりに、
ネウロイ
と呼ばれる、未知なる敵、宇宙人のような存在が、この地球に現れ、次々の地球を侵略している、という設定になっている(さてこの、ネウロイだが、どう見ても、エヴァ使徒と区別がつかないのだが...)。
1939年、最初にネウロイが現れてから、人類は、彼らと戦うため、宮藤一郎博士によって、ストライカーユニット、が開発される。これは、ウィッチと呼ばれる、(この世界には存在する)魔女たちが装着することによって、魔法力を増大し、空も飛べるようになる、戦闘器具となっている。
宮藤博士の娘の、主人公、宮藤芳佳(みやふじよしか)は、第一部第一話において、ウィッチの一人、坂本美緒(さかもとみお)に、ブリタニアへ、父親の消息を探しに連れていってくれることを承諾してもらう。戦争を嫌っていた彼女も、ブリタニアに向かう途中で、ネウロイの襲撃を受け、彼女も、博士の開発したその機械を装着して戦ったことをきっかけに、父の墓前で、ウィッチ隊に入隊することを、坂本美緒(さかもとみお)にお願いする。
ウィッチ隊に入隊した彼女は、第一部第四話において、バルクホルンと、一緒に訓練する機会を得る。彼女は、以前の戦いで、妹のクリスを守れなかったことを、いつも心に悔やんでいた(妹は病院におり、まだ、意識が回復していない)。動揺する彼女に周りは休暇を進めても、それを彼女が受け入れることはない。

  • バルクホルン「その必要はない。私のこの命はウィッチーズに捧げたのだ。クリスが知っている姉はあの日死んだ。」

そんな訓練の間に、ネウロイの襲撃を受けたとき、彼女は自暴自棄な戦いを行い、相手に撃墜されてしまう。
しかし、芳佳は命令を一切無視して、戦場を離れ、胸に傷を受けている、バルクホルンを、自分の得意とする、治癒魔法によって、治療しようとする。

  • 宮藤「今、治しますから」
  • バルクホルン「私にはりついていては、お前たちが危険だ。離れろ、私なんかにかまわず、その力を敵に使え」
  • 宮藤「嫌です、必ず助けます、仲間じゃないですか」
  • バルクホルン「敵を倒せ、私の命など、捨て駒でいいんだ」
  • 宮藤「あなたが生きていれば、私なんかより、もっともっと多くの命を守れます」
  • バルクホルン「無理だ、みんなを守ることなんてできやしない、私は、たった一人でさえ...。もう行け、かまうな」
  • 宮藤「みんなを守るなんて、無理かもしれません、だからって、傷ついている人を見捨てるなんてできません、一人でも多く守りたい、守りたいんです」
  • バルクホルン(宮藤の治療の甲斐あって回復した後)「クリス。私の力、一人でも多く。今度こそ守ってみせる」

(ちなみに、バルクホルンの妹のクリスが、回復して、バルクホルンが彼女の病院にかけつけ再会する場面は、第九話で描かれ、彼女の宮藤への親愛の情はより深まるわけですね...。)
開業医の娘である、宮藤芳佳(みやふじよしか)は、こういう人間である。
彼女は、戦争に反対である。殺し合いを全否定する。それどころか、そうやって、戦うことで、次々と傷付いていく兵士たち
みんな
を、倒れていく側から、かたっぱしに、治療して助けていく、こんなイメージである。
第一部は、まさに、宮藤芳佳(みやふじよしか)の物語であった。この物語は、そういう意味で、ある意味、戦前の軍隊に対する、批判的コードを含んでいることは、間違いないだろう。この物語の特徴を並べるなら、

  • 少女が戦っている
  • どこの国も一体となって(この地球を守るため)人類が、共同で戦っている
  • 敵の正体が不明

そして、決定的に、宮藤芳佳(みやふじよしか)という少女によってもたらされたコードこそ、

  • 「だれかを助けるために」兵士たちが次々と、命令違反をしていく

ここにある。第一部はなんと、その宮藤によって、ネウロイとの共存の可能性が計られることにまでなる。こういう意味で、第一部は、ある意味、完成していると言えたわけである。
NHKスペシャル「玉砕 隠された真実」は、衝撃の内容であった。
大本営は、最初から、あそこまでの「嘘つき」ではなかった。その雲行きが変わってきたのが、ブナ島見殺しから、である。最前線が、まったく維持できず、次々と前線を後退させていくことになる、日本軍は、まず、ブナ島の守備隊を
見殺し
にした。後で援軍や補給を送ると電報しておきながら、
戦略上
大本営は、彼らへの一切の援助をしなかった。ブナ島の守備隊の2000人が、全滅したとき、大本営は、「彼らは、他の戦線に移動(転進)した」と

を国民に向けて放送する。しかし、彼ら、大本営
エリート
も、こんな嘘で塗り固めてばかりいては、いずれ、ボロが出ると思ったようである。日本軍、最初の玉砕と呼ばれた、アッツ島の守備隊の
見殺し
のときには、「彼らは、一切の補給を要請することなく、自分たちで、玉砕を決断した」と、大本営は、国民に向けて、しゃべくらかす。しかしこれも、実際は、いつもの通り、物資の補給が要請されていたのに、一切送らず、「お前たちは玉砕しろ」という命令がでていた。また、

であった。
しかし、なぜ、日本の軍隊は、日本の軍人をこうやって、見殺しに
しまくり
なのであろうか。よく考えれば、これほど変なことはないではないか。だって、これだけ、やる気のある兵士たちなのだ。一人でも助けられたら、強力な第一線に立ってくれるはずだろう。
番組で当時の大本営の一人が語っていたことは、衝撃を飛び越えて、あきれはてる話であった。

  • 海軍が補給に行ったら、全滅してしまう。作戦が立てられなくなる

なんなんだこの、意味不明の...。海軍にとって、陸軍がどうなるかではなく、海軍が傷付くこと「だけ」が問題だった、という話なわけだ。
こんな縦割りのために、一体、何人の日本兵が、南アジアの島々で、飢えて死んでいったことか...。
今でも、多くの、元軍人たちが、「生きるとは、恥をかくこと」だと、戦中にすりこまれた、プロパガンダに苦しんでいる。日本の軍隊は、まさに、中世の、子供十字軍のように、
殉教
を強いる。宗教軍であった。
生き残るな
なんと、こういう命令「ばかり」が、大本営から降ってくる。

  • 自殺こそ正しい
  • 自殺こそ美しい

日本軍の兵士たちは、隣で、戦友たちが、自ら死を選んでいく、その姿に、ディプレッシブになり、「生きることは恥かしい」から逃れられずに、戦争が終わった後の今になっても、苦しみ続けている。
こうやって、比較してみれば、一目瞭然であろう(戦後の日本の多くのサブカルチャー(物語)は、さまざまに、戦前の、ディプレッシブな「感情」を補填するための形態をとりながら、何度も何度も、つむがれていくことになる...)。
宮藤芳佳(みやふじよしか)は言う。
守りたいんです。
彼女はそのためなら、軍の命令も、かたっぱしから破る。彼女にとって、とにかく重要なことは、助ける、ということである。彼女にとって、自分が傷つくとか、戦争に勝つとか、ネウロイをやっつけるとか、そういうことは、どうでもいいのである。
バルクホルンを助ける
目の前で、傷付き、倒れている、彼女を助けること、それだけが重要なのであって、他のことは、
どうでもいい
のである(まさに、開業医的ホスピタリティ精神、なのだろう)。
こうやって、ある種の完結性をもって終わった、第一部の後、現在の、第二部は、まだ、その全貌を見せてはいない。
しかし、そんな中、第二部第六話は、(おそらく、以前にすでに発表されていた、アニソン「Sweet Duet」のイメージを体現した内容を体現したものとして作られたのだろうが)まさに、
神回
となった(第二部は、こういったアンソロジーで終わるんですかね)。
高度3万メートルに敵の本体をもつ、ネウロイ、と戦うための作戦として、サーニャに、役割が回ってくる。当然、彼女を最も慕う、エイラ、は彼女の援軍を買って出るが、彼女は(すばしっこいため、日頃、使っていない)魔法によるシールドを使うのが苦手ということで、その役から、降ろされる(その役は、宮藤の役となる)。
エイラ、はどうしても、その役があきらめられず、特訓をするが、うまくいかない。
しかし、この作戦が重要であるのは、その危険性にあった。エイラ、がなぜ、この役にこだわったのかも、そこにあったわけである。

  • バルクホルン「高度3万メートル、気温マイナス70度、空気もなく、魔法がなければ一瞬で死にいたる、生きて帰れる保証はないぞ」

みんなで、二人を持ち上げていき、ある程度の高度になったとき、二人をロケットで3万メートルまで、飛ばすその作戦の最中、エイラは叫ぶ。

  • エイラ「嫌だ、私が、私が、サーニャを守る」
  • エイラ「サーニャ、言ったじゃないか、あきらめるからできないんだって、私はあきらめたくないんだ、私が、私がサーニャを守るんだー」

宮藤は、そんなエイラを持ち上げて、サーニャの所まで引き上げて、自分の代わりを、エイラにまかせ、自分はそのまま、後退する。
作戦が成功いた後、サーニャは、エイラに、あるお願いをしてみる。

  • サーニャ「見て、エイラ、オラーシャよ」
  • エイラ「うん」
  • サーニャ「ウラルの山に手が届きそう、このまま、あのウラルの山に飛んで行こうか?」
  • エイラ「...。いいよっっ。サーニャと一緒なら、私はどこへだって行ける」
  • サーニャ「うそ。ごめんね。今の私たちには帰るところがあるもの」
  • エイラ「あいつ(宮藤)がだれかを守りたいっていう気持ちが少しだけ分かった気がするよ」

エイラは、サーニャを助けたい、守りたい。それは、エイラが、サーニャとなら、あのウラルの山の向こうに行くことだって、「いい」と言うことと同値である(桜庭一樹の傑作「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」の海野藻屑を思い出しますね)。もう、最初から、軍隊とか、なんの関係もない。そしてその、こうやって軍の命令を無視しながらも貫く気持ちは、宮藤がいつも言っている、「守りたい」思想と、完全に同型であることに気付いていく...、そんな構造になっている。
私たちは、ブナ島や、アッツ島で、死んでいった「みんな」を、助けなければならない、
今。
何度でも。何度でも。
彼らを助けることで、始めて、私たちの戦後が始まるのです。