岩沢さんは言う、「さわるな」

(ガルデモのヴォーカルって、あんた誰? とか思ってネットをぐぐってたら、

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なるほどね、と思いつつ、下記のような意味不明の文章を書いてしまってた...いつものことですが...。)
子供とは、なにものなのか。
アニメ「Angel Beats!」の第3話において、学内(中高生)の生徒による、ガールズバンド「Girls Dead Monster」のヴォーカル兼ギターの岩沢さんは、自分の生前の人生を語る。
両親はいつもケンカばかりしていて、彼女は自分の部屋もなく、そのどなり声の中、隅で小さくなって、耳を塞いでいる毎日だった。そんな、ある日、自分と同じような恵まれない家庭環境で育ったヴォーカルの歌う、バンド「Sad Machine」の曲を、音楽ショップのヘッドフォンで聞くことで、彼女も音楽に目覚める。

  • 岩沢(サッドマシンの曲の内容を回想)「常識ぶってる奴こそが間違ってると、泣いてる奴こそが正しいんだと、孤独なあたしたちこそが人間らしいんだと、理不尽を叫んで、たたきつけて、破壊してくれた、私を救い出してくれた。」

雨のゴミ捨て場で見つけたギターで路上ライブをする毎日。こうやって音楽で表現しながら生きていくことを考え始めた矢先、彼女は両親のケンカにまきこまれたときに、そのケンカのとばっちりで頭を殴られた影響で、声が出なくなり、しゃべれなくなり、体が動かなくなり、病院のベッドの上で、この人生の理不尽を受け入れられないまま、亡くなる。
そんな彼女は、この
死後の世界
でも、あらがい、歌う。しかし、なぜ歌うのか。学内の体育館で、ゲリラライブを学校の許可をとることなく、決行するポスターを学内に貼り周り、当日、ライブは決行されるが、まさに、その演奏の最高潮のところで、教師たちが乗り込んできて、バンドのメンバー全員を取り抑え、組み伏せ、演奏を中止させる。

  • 教師「今までは、大目に見てやってただけだ、図に乗るな。楽器は全て没収だ、学園祭でもなし、二度とこんな真似はさせんぞ」。
  • 教師(岩沢が毎日路上ライブで使っているギターを汚ならしそうに、持ち上げて)「ふん。これは捨ててもかまわないな」。
  • 岩沢「触るな、それに、それに、触るなー」。

百歩譲って、教師に理があったとしても、岩沢さんが、こだわったのは、
お前がそれに触ることは許されない
ということであった。彼女は、演奏を中止されたこと、以上に、それは許されないことだったのであろう。大人は子供の権利を侵害する。それは、たとえ、憲法に言う、子供を養育する、義務の延長だとしても、子供だって、
人間
なのだ。人間には人間の権利があるはずだ。なぜ、こんな当たり前のことさえ分からないのだ。
たとえば、今の小学校や中学校において、子供たちは
なにをしているのだろう。
ということはどういうことか。彼らは「表現」しているのだろうか。学校は、勉強の場であり、子供はただ、教師の教えることを、暗記していればいい。
そんなわけないだろ。
子供は、生徒である以前に、「人間」なんだろ。だいたい、いつから、学校は、
教師の私物
になったんだ。教師にとって、自分の仕事場としての権利があるように、生徒には、サービスの受益者としての権利がある。ここをどう使うかの判断において、どうして、お互いの権利に、雲泥の差など生まれよう。
そもそも、学校は、生徒が「実に長い間、生活する場」である。だとするなら、「それだけ期間が長ければ長いほど」多くの権利が生まれるはずだ。
残念ながら、アニメの限界として、岩沢さんの半生は、あまりに、抽象的で、うすっぺらい描き方になっている。たとえば、両親の喧嘩というか、父親のDVを示唆しているのだろうが、その辺りがまったくリアルじゃない、から、なにをやってるのかが、さっぱり分からない(これが、テレビコンテンツの限界なのだろうか)。
しかし、そういった抽象論以前に、そういった、さまざまな、家庭の事情などで、
勉強どころじゃなく
悩み苦しんでいる子供たちは、大勢いるのではないだろうか。しかし、それは、たんに「存在する」のではなくて、君の隣にいるんでしょ?
そんな友達をほっといて、それ、なんの勉強?
昔、(たしか)吉本隆明が、子供は、教師が、通知表で生徒を採点し、進学の推薦書を書く限り、絶対に生徒は先生に「本音で語ることはない」というようなことを言ってたと思うけど、まったくその通りだと思う。じゃあ、そのオールタナティブは、どこにあるのか。当然、生徒たちによる、自治しかないわけでしょ(あらゆるレイアーに対して、「中間集団」は(必然的に)招来されなければならない)。
ということは、結局、なんなのか。もっと、子供は、自分を表現していい、ということではないだろうか。子供たちは、もっと、
ゲリラライブ
を校内でやればいい(かなり、うるさいだろうが)。その意図は、まず、「生徒が表現する」ことを重要視するということである。なによりまず、生徒がなにかを発信し始める。全てはそこから始まる。
岩沢さんは言う。
「さわるな」。