川出良枝「自由とは何であって、何でないのか」

(自由や平等と、法には、どのような関係があるのだろうか。)
自由とはなんなのか。
こういったペダンティックな命題が哲学サークルでは、あいかわらず繰り返されている。彼らの言葉遊びナルシシズムはとどまるところを知らず、詩的文学表現に悦にいっては、なんか言ったつもりになっているのであろう。
「積極的自由」「消極的自由」。
この二つは、バーリンの『二つの自由概念』で定義されたものらしく、

積極的な自由とは、外部の力ではなく、自分の意志に基づいて選択し行為する自由、すなわち、「自己支配」(selfmastery)としての自由である。それは、「あれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠は何であるか、また誰であるか」を問題とし、それが自分自身、もしくは自分の真の意志であるとき、自由であるとみなす考えである。他方、消極的自由は、外部からの干渉を受けずに自分のしたいことをなすことであり、障害や干渉からの自由である。より厳密に述べるなら、それは、「他者からの干渉を受けずに、自分のしたいことをし、自分がありたいものであることを放任あれているべき範囲」はどこまでか、を問題とする概念である。

この二つが対立している、という議論は、前者が全体主義的な発想と区別がつかない、という部分にあるとされる。つまり、最もラディカルな自由主義を目指す側は、後者の自由しか認められない(例えば、上記のバーリンがそう)。実際に歴史をみれば、自由の名の下に、ナチスが生まれ、20世紀の世界戦争があった(前者は「危険」だ)。
20世紀とは、「すべて」の人が自分の自由と正義を主張した世紀であった。
なんだ、いつもの議論じゃないか、と思う勉強家もいるかもしれない。私が気持ちが悪いのは、この「一般論」つまり「普遍的定言的命題」のうさんくささ、についてである。
自由という言葉は、著しく、「抽象度」の高い用語である。日常会話で、こういった言葉は(慣用的な表現以外では)使わない。

  • ある人Aがある人Bを拘束(強制)している。

という状況を考えてみる。つまり、ある人Aは(どうやったかは知らないが)、ある人Bの手首に手錠をかけて、柱に縛った、と考える。つまり、ある人Bが自分だけの力で、この束縛状態から抜け出ることが簡単じゃない状況を、である。
ある人Bが、いつものように、朝食の用意をしようと思ったとしよう。もちろん、できない。なぜか。束縛されてるから。さらに考えてみる。なぜ自分は束縛されているのか。もちろん、だれかがあなたを束縛したから。つまり、ある人Aが。

  • ある人Aが束縛したからある人Bは朝食をとれない。

ここまでは、具体的で問題ない。しかし、ここで議論は飛躍する。

  • ある人Bは「自由」でない(状態である)。

私たちが議論をしていたのは、ある人Bが朝食をとれるかとれないか、だったのではないか。それがなぜ、「自由」うんぬん、になるのか。
それはこうである。ある人Bは「いつもなら」毎日自分で朝食を好きな時間にとれた。しかし今日はできない。これを朝食がどうのこうのを無視して、

  • ある人Bは昨日までは「自由」だったが今日は「自由」じゃない。

とするわけである。実際、この状況は、朝食だけでなく、トイレに行くのも、散歩をするのも、テレビを見るのも、「多くの」ケースに適用できるように思えるのだから、まとめて「自由がない」でいーじゃん。こんな感じである。
しかし、こういった普遍主義こそ「罠」である。ある人Bは別に、呼吸ができないわけじゃない。実際、ある人Aが、朝食を作ってくれて、口に運んでくれれば、
朝食をとれる。
他だって、たいていのことはそうだろう。いや駄目だ。ある人Bにとっては、「いつものように」自分でプラプラしながら、歩きまわって朝食が作れるかどうかを、問題にしているのだから、そんなの「朝食をとったことにならない」。
でも、実際、食えてるんでしょ。私の言わんとした意図と違うでしょ、って怒られても、だったらそう先に言えよ、ってことでしょ。
でもどうでしょう。これにしたって、ある人Bが、手錠などはかけられていないけど、部屋のドアが内側から開かないように、ある人Aにロックされて外に出れないようにされていたとするなら、たしかに、ある人Bは、ぷらぷらと部屋の中を歩きまわって、朝食は作れる。いやいや駄目だ。ある人Bは、おしょうゆが切れたから、ご近所の人に、おしょうゆを借りに行けないでしょ。ちゃんと、私の言わんとした意図をくんでよ。なに。嫌がらせのつもり。ぷんぷん。
怒られてもな。だったらそう先に言えよ。
しかし、同じことなのである。私が言いたかったことは、自由の「実体」がない、ということである。自由は上記のように、「否定」によって定義された。しかも、「一般化」によって定義された。つまり、ある「相対的」な状態の「差異」を指して、「形式的」に問題にしているにすぎない、ということである。
こういった事態を、「仮言的命題」という。もしこれこれこういうの条件を満たすなら、なんとかである。こういったように、たいていの表現には「条件」が必要となる。というか、条件のない命題など、存在しないと言っていい。
これを、前に私がこのブログで検討した、「矢印型論理」で考えてみてもいい。

  • 手錠をかける : ある人A --> ある人B

具体的に存在する条件は、これである。ある人Bが「自由かどうか」という命題は、この条件の下に、始めて検討されるのであって、なんらの条件もなしに、「自由」の本質を直感しよーみたいなのは、うさんくさい、ということである。そもそも、言葉とは、
つーかー
の世界でしかない。ここでいえば、最低、ある人Aと、ある人Bの間で意図が通じ合える範囲であるなら(呼びかけ、と、応答、のやりとりに、お互いが「ストレスを感じるまでいっていない」なら)、
いいのである。
それが他人にとって、なんの意味も通じない記号でも。
私たちは、ある人Bが「自由かどうか」、と問うた。しかし、そもそもの問題は、「ある人A」との関係だったのじゃないのか。なぜ、こうなってしまうのか。それは、ある人Bにとって、ある人Aなど、どうでもいいからである。ある人Bにとってみれば、手錠をかけられるなどによって、「いつものように」朝食を作れないことが問題なのであって、ある人Aなど、たまに思い出すくらいの存在でしかないから、上記の矢印に、それほどの意味を感じない、ということなのだろう(むしろ彼にとっての関心は、自分を拘束している手錠の方にあるわけで、ちょっと、唯物論的)。
そう考えると、私たちが検討してきた「自由」(つまり、消極的自由、積極的自由)とは、どうも歴史的には、違って使われていたのではないか、という疑いをもちたくなる。そもそもの昔は、こういった意味で使われていたのではないのではないか。

この点に関して興味深いのは、『二つの自由概念』の第五節において、バーリンが本来お気に入りのはずの自由主義的な論者の自由概念の混乱に不満を述べている部分である。

ロックも同様に「法のないところには自由もない」と言う。なぜなら理性的法(rational laws)とは、その人の「本来の利益」(proper intersts)、あるいは「一般的な善」(general good)へと導くものなのであるからと。あらにこうも言う。こういう法律は「われわれを泥沼や断崖から守ってくれる」ものであるから、「束縛という名前を与えるのは不当」であり、また、そのような法律を逃れようという欲求は、非理性的であり、「放縦」の表れであり、「動物のようである」(brutish)等々。モンテスキューはその自由主義的な諸契機を忘れ去ったかのように、政治的自由とは、われわれの欲すること、あるいはあらに法律の許していることを行うことの容認ではなく、ただ「われわれの意志すべきことをなす力である、と言っている」。(p.147, 三四七ページ)

だが、バーリンの慨嘆はいかにも苦しい。ロックとモンテスキューの自由概念が消極的自由でないということは、要するに、少なくとも初期近代において、自由主義的な理論を展開した主要な論者は「消極的自由」には懐疑的であったということを意味するのではないか。

これが、スキナー(『自由主義に先立つ自由』)のいう、共和主義的自由、または、ネオ・ローマ的自由、である。

ネオ・ローマ的理論においても、消極的自由の概念と同様、個人の生命や財産の安全が確実に保障あれることが求められる。しかし、そうした個人の安全の保障は、国家が自らの意志で運営あれ、外国の支配からも、また、僭主の恣意的支配からも免れているとき、とりわけ、法の支配と人民主権が実現されている「自由国家」(civitas libera)だるときのみ実現すると考える点で、国家の役割をネガティブに捉える消極的自由とは一線を画す。

「法のないところに自由もない」「自由とは、法が認めることをすべて行う権利である」。こういったことは、何を言おうとしているのか。
法とは、私たちが他者となんらかの関係をもっていくときに、

  • 関係構築のさまざまなステップを簡略化させるためのツール

といえるのかもしれません。イエスが立法学者の問いに、「そんなことはあなたがよく知っているじゃないですか」と言う。それが法である。お互い、それを前提にして、

  • その法をお互いが知っていて、お互いがそれに規制されていると理解している

という認識があるだろう、ということを前提にすることで、議論は、「そもそも」論を避けることができる。つまり、法の枠組みを前提に、次の「お互いにとって関心のある」ビジネスの話が、
効率的に
することが可能になる。時間の節約ができるのである。このことが、経済システムの「スピード」をあげる。
私がもし、自由を「普遍的に」考えたいという人になにかを言うとするなら、次のような見通しを提示するだろう。
たとえば、地球上のすべての人、それぞれ、と、「ある人B」の関係を考える。

  • ある強制をする : ある人A --> ある人B、(ただし、ある人Aとは、地球上の任意のだれか)。

これらすべての「相互関係」(連立方程式)を「解く」。それが「ある人Bにとっての強制」(つまり、その否定が自由)の解、である。あらゆる命題は、仮言命題である。数学の微分方程式を考えても、「解が存在する」と言ってる命題の、頭には、恐しいまでの、

  • 条件式

がずらりと並ぶ。これが、現実社会なのである。「法のないところに自由もない」という意味は、あらゆる法を前提としないなら、ほとんどの具体的な条件闘争は、その根拠を失う、と言っていることと同値であろう。もちろん、一つ一つの法を「自分が認めるかどうか」は前提としてあるが、そういった議論を棚上げにして始めて、お前の俺に対する強制は不当だ(自分の自由の権利がおかされている)といった議論が「始められる」。つまり、自由にとっての法とは、コミュニケーションのコストを問題にしている、と考えるべきということなのだろう...。

自由論の討議空間―フランス・リベラリズムの系譜

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