民主化の法則

人は本質的には他人に興味がないと、私がいうとき、私が頭にイメージしていたのは、

この二つについて、であった。
こういった例は、私の命題が成立しないことを示しているように思われる。やはり、人間とは人間を殺すから人間なのであって、人間を殺さない人間なんて「いない」、ということなのだろうか。
そういう意味でなら、私は人が「殺人」をしてしまうことは、しょうがないことだと
思わなくもない。相手が本気で憎くて憎くて、一太刀あびせなければ、生きるに生きられないというのなら、どうして止められよう(人間の悲しい性ではあるが...)。
しかしそうなのだろうか。彼らは本当にその相手が憎くて殺したのだろうか。いや、憎いという場合があることまで否定はしない。しかし、その憎さ「だけ」を理由にして殺すという行為がどれほどあるのだろう。実際に、なんらの私怨や、繋がりがないことがほとんどのように思われる。まして、無差別自爆テロは、自分が死ぬことで、「自分となんの関係もない」一般民衆を死においやる。まさに「だれでもよかった」状態である。
それにしても「だれでもいい」というのは、すごい話である。これだけ、自殺者がいるのだから、そういう人がいたからといって不思議ではないのかもしれないが、普通に考えれば、変な日本語である。こういう場合は、二つあるのだろう。本当にだれでもよかった(つまり、ただの、うっぷん)と、ある政治的なメッセージを広報する効果を狙ったもの。
しかし、もし、後者であるとすれば、もしかしたら、殺人という結末に至る必要はなかったと言えるのかもしれない。つまり、

  • ある条件においては、人々は殺人ゲームの「中の人」にならなくてすむのではないのだろうか。

以前、

アメリカ憲法の呪縛

アメリカ憲法の呪縛

を紹介したとき、なぜ、主義主張の違う、党派が対立しながらも、法が制定されていくのか、ということを検討しました。与党が提出した法案に、「本気で」野党が、それを認めることができない場合、どうすればいいのでしょうか。私は、ふざけているわけではありません。野党の反対が、
本気
だった、としたら、という話をしています。まず、この法案の成立を強烈に主張しているコアのメンバーを、

  • プロの殺し屋を雇って、暗殺させる。

これが、明治維新方式であり、イラク戦争テロリズム方式、です。こうやって、この法案をなんとしても成立させたいと考えている、「敵」を根絶やしにします。
しかしどうでしょう。今の国会を見ていても、ここまでのことは起きていないようです。なぜでしょうか。だってそうでしょう。明らかに露骨すぎるでしょう。だれだって、反対勢力によるテロを疑いますよね。
これは、私たちの日常についても同じことがいえるようです。私たちがひとたび街にでれば、多くの人たちが歩いていますが、なぜか、
殺し合い
をしていません。みんな平気な顔で、知らない他人と、肩を並べて、行列して、歩いて行きます。
二つの例を検討しましたが、ここには、ある共通した「なにか」が存在すると考えられます。つまり、
民法
です(刑法を含んで)。民法とはなんでしょう。これこそ、私たち個人の行動を「規制」するものです。私たちはこの民法に反する行為をすると、それが、どれだけ自分にとって「どうでもいい」ことでも、自らの「不利益」となる可能性となります。
ここで大事なポイントは、この法律には「一人の例外もなく」あまねく適用される、ということです。ここが重要です。「全員」が従わなければならない。江戸時代なら、士農工商の武士は「例外」。こういうものがないわけです。ここが非常に重要です。時の権力者も従わなければならないわけです。総理大臣だって、財務省のトップだって、コンビニで万引をやったら、逮捕されますし、電車で痴漢行為をやれば、逮捕されます。
時の権力者が、「あいつ嫌い。忍者に闇討ち辻斬りさせろ」、と言ったら、逮捕されるのですね。その発言が証拠とともに、裏付けられる限り、法から「逃げる」ことはできないわけです。
このことは、じゃあ、そんな面倒くさい、我々の手足を縛ることになるようなの、やめちゃおう、と今、権力のある側は思わないだろうか。
(その、いい例が、イラク戦争における、アメリカ駐留軍ですね。もしイラクが「戦争状態」でないなら、軍隊が行動することは矛盾です。もし、戦争状態でないなら、すべての暴力行為の取締りは、軍隊の仕事ではなく、「警察」の仕事になります。アメリカは自分たちの行動の自由が奪われることを嫌い、戦争状態が続いていることを主張するわけですね。)
しかし、一般には、そうはならない。民法を尊重する。なぜか。そこには、明らかに、双対性がある。自分が相手に理不尽な不利益を与えられないことは、逆に言えば、相手が自分に理不尽な不利益を与えようとしないのではないか、という「期待」を形成する。
これは議会においても同様です。意見の対立する法案が通りそうなとき、相手への暴力的な介入は、自らの「殺人教唆」を暴かれる可能性から、どうしても逃れられないし、だれでも、そういった未来に待ち受けているかもしれない、
トラブル
を避けたがるものである。悪いが、人生毎日、なんの不安もなく寝て過せるにこしたことはないわけである。だれからもうらまれることなく、
そんな心配をすることもなく
毎日、ぐっすり寝て過せたら、だれだけかましな人生であろうか。へたに相手に恨まれる可能性を残すようなことは、やらないにこしたことはないわけだ。
しかし、それじゃあ、法案が通るのを、ただ泣き寝入りしろって言うのか。そんなことはない。つまり、

  • 条件闘争

である。その法案の一字一句を検討し、我々の望みに「少しでも近いように」相手に修正を要求していく。相手だって、少しでも多くの人たちに賛成をしてもらいたいわけだし、少しでも誰にも恨まれないものが、「自分の妥協できる範囲で」できるなら、その方がその法案の国民の支持も「正統性」も高まり、
ぐっすり寝れる
のである。つまり、何が起きているか。
ゲームのステージ
が変わっている、ということである。皆殺しゲームから、民主主義へ。
この民法パワーというのは、ものすごいものがあると思うんですね。たとえば、個人情報保護法というのができた。そうしたら、IT業界みんな、個人情報と疑われるものは、かたっぱしから、マスクです。「すべからく」そうなんですね。これがどれだけすごいことか(私たちが、国民全員に呼び掛けて同じ行動をさせようとした場合を考えてみれば、どれだけ強力なパワーかが分かりますよね)。
さて。そもそも私が上記に書いてきたこととは、具体的にはなんなのでしょう。つまり、これこそが、
民主化
なんですね。では、そこには何があるのでしょうか。どういったプロセス、どういったシステム、がそこには存在し、働いているのでしょうか。
この問題を考えるのに、最も、興味深い例こそ、
イラク戦争
ではないでしょうか。
アメリカは、「世界に民主化を広めたい」と言って、イラクを侵略して、その結果、、起きたことはなんでしょうか。
終わらない暴力
でした。フセイン像が倒され、フセインがほとんど即日裁判で死刑即処刑。しかし、その後、である。いったい、何人のイラク人が死んだのだろうか。私は上記で、民主化によって、殺し合いゲームを逃れられる可能性を検討したはずでした。そして、アメリカは民主化をもたらすことを「目的」としたのではなかったか。世界最高の知性が集っているはずの、そのアメリカの介入がこのような事態となることを、どのように考えればいいのだろうか。
一体、なにを間違っていたのでしょうか。
そこには、どんなシステムがあるのでしょうか。

酒井啓子 フセインの処刑ビデオはすごくショッキングでした。フセインが処刑されたこと自体は、ある意味、アメリカの「勝利宣言」の後ずっと規定路線だったので驚かないんですけど、あそこで「ムハンマド・バーキル・サドル万歳!」とか叫んでた人たちがいた。これは要するに「イスラーム革命万歳!」って意味なんです。あの処刑の様子を見て「あ、これは革命裁判所なんだ。あれはギロチンなんだ」ってはっきりわかった。叫んでるのは革命万歳派のもっともラジカルなグループなんですよね。

酒井啓子 イラク戦争というのは、戦前からアメリカ軍の影で、イスラーム勢力がこそり入ってきて、あわよくば政権取ろうみたいな形で動いてきてたんだと思いまう。その勢力たちが今、恐怖政治をやっている。革命をやって、旧体制をギロチンで切って、街中では旧体制を吊しあげていく。こういう恐怖政治派に対して旧政権派が熾烈な戦いを繰り広げている。今、経験しているのは革命政権としての混乱状態ってことですよね。その革命政権が何を目指しているかというと、たぶん今のイランよりもさらにラジカルなイスラム政権なんです。今、起こっているのはその革命政権のなかで誰が政権を握るのかっている争いなんです。
戦争解禁―アメリカは何故、いらない戦争をしてしまったのか

ブッシュがイラク民主化させたい、と言ったとき、本当の問題は、彼がそれを本気で言っているのか、というところにありました。そもそも、アメリカのマスコミは、イラクのことなど、記事にもしていません。アメリカ人は、イラクに興味がないわけです。そこで何が起きているのか。そこで、どんな人たちが、どんな暮らしをしているか。
どうでもいいのです。
このことは、アメリカの上記の意図が、いくらでも「ぶれる」ことを意味します。明らかに、ネオコンは、パパ・ブッシュフセインを殺せなかったことが、不満でした。フセイン湾岸戦争を生き延びたことは、
世界の警察
となった、このアメリカの「自虐」としか思えなかったわけです。

ソ連の崩壊をヨーロッパの戦略範囲を拡大する機会としてみるのではなく、巨額の平和の配当を受け取る機会だととらえた。ヨーロッパにとって、ソ連の崩壊は戦略的な敵国が消えたというだけではなかった。ある意味で、地政学の必要がなくなったのである。冷戦の終結で戦略問題から解放されたとみる人が多かった。このため、ヨーロッパが世界的な超大国になると主張されていたなかで、ヨーロッパの防衛予算は徐々に削減され、GDPに対する比率でみて平均二パーセントを下回るまでになった。そして一九九〇年代を通じて、ヨーロッパは軍事力でアメリカに引き離されていった。
アメリカでは、冷戦の終結の影響はこれと違っていた。アメリカも平和の配当を求め、国防予算は一九九〇年代を通じて減少ないしは横這いで推移したが、それでもGDPに対する比率が三パーセントを下回ってはいない。

ネオコンの論理

ネオコンの論理

スーパーパワー・アメリカがなんで、世界の言うことに耳を傾けなければならないと言うのか。気に入らない奴らは、アメリカの「世界最強」暴力装置で、
やっちまえ。
しかし、考えてもみてください。フセインを殺して、その権力の空白の椅子に、
フセイン・ライク
な勢力が座ったら、どうなるでしょうか。はっきりしていることは、だれもそれを、「民主化」とは呼ばないでしょう。ところが、アメリカにとっては、どうでしょうか。アメリカの目的は、フセインさえ死ねば、こんな国が民主化しようがどうしようが、
どうでもいい
だったのですから、あとは、フセインの代打、がアメリカの意図をくんで行動「してくれるかどうか」だけとなります。しかし、それ以上の問題があります。それは、アメリカは上記のアメリカの意図さえくんで、行動してくれるなら、
だれもいい
ということです。ということは、どういうことでしょうか。
あらゆる
勢力が、アメリカの気にいられる、その「ポスト」を目掛けて、血みどろの競争を始3めるでしょう。しかし、こんなことは、アメリカには関係ありません。アメリカが関心があるのは、ただアメリカの意図通りに動く傀儡
であえあればいい
ので、そのポスト間での、暴力ゲームは止まりません。なんでもいいわけです。相手勢力の重要人物を全て暗殺すれば、アメリカ傀儡を担うのは、
そういった連中を殺しまくった集団
の方になるでしょう。だって、アメリカにとってみれば、「最終的に」自分の傀儡として使えるかどうかだけしか、興味がないからです。
(これは、どこか、明治維新に似ていなくもないですね。明治維新においても、アメリカ、イギリス、フランスの人々が、大活躍していたわけですし、長州藩薩摩藩がイギリスの軍鑑とやりあったりしている。さまざまな軍資金を頼ったわけですし。)
また、イラクの場合は、石油という「錬金術」も大きいですよね。国家中枢の権力を奪えさえすれば、いくらでもお金に困ることはなくなる。こういう裕福な国では、どういても暴力の連鎖につながりやすい(それは、アフリカの多くの国々の苦労を考えればよく分かる)。
しかし、問題は、フセインの時代は、今に比べれば、圧倒的に「平和」だった、ということなんですね。はっきり言わせてもらうなら、この結果「だけ」見るなら、アメリカは、
はた迷惑
以外のなにものでもない。フセイン時代だったら、平和に日々を生きることができた、一般市民は「アメリカのせい」でこんなことになってしまった。アメリカよ。この落とし前をどうたってつけてくれるんだよ。

人質事件には背景があります。だいたい2004年3月末か4月いっぱいにかけて、アメリカの占領統治が一気に壊れたんです。アメリカがサドル派の新聞の発刊を停止したので、それに怒って反米活動が広がっていった。イラクが泥沼になっていくのを前に、占領軍はどの国も逃げてっちゃう。その後、アメリカに協力して新たに軍隊を送ったのは日本だけでした。もはやアメリカだけでやってくしかないってときに起こったのがファルージャ事件だったんです。
これはまず、ファルージャという町でアメリカの民間人4名が殺されて、遺体を焼かれて、橋に吊るされたんですね。その残虐な映像がアメリカで流れて、アメリカは対抗して強硬策に出ました。ファルージャを軍事包囲して、F16などで空爆した。
でも都市を空爆すれば反米感情も高まります。破壊された町をテレビで見たイラク人にとっては、アメリカは解放軍どころか無法な占領軍にしか見えない。相手がこんなことえおするんだったら、こっちだって何をやってもいいって考える人が出てくる。人質事件が急増したのはこのファルージャ包囲事件の後なんです。
戦争解禁―アメリカは何故、いらない戦争をしてしまったのか

ひとたび、軍隊を使うということは、どういうことでしょうか。つまり、それは市民法のネットの外に出ることを意味します。上記で指摘したような、民法の平和ゲームをそっせんして破る、ということです。ということはどういうことか。
なんでもあり
ということでしょう。軍隊に頼る限り、こういった、怨恨の連鎖の外に
だれ一人
も出ることはできません。ネオコンは、アメリカの軍事力の群を抜いた強大さは「無敵」だと、うぬぼれたわけですが、しょせん、そんなものは、唯物論的限界の産物にすぎない。弁証法をたたきつけられてオワリ。最近では、めっきりネオコンも聞かなくなりまいたねえ。
じゃあ、どうすればよかったのでしょう。
戦争しなきゃいいわけです。どうやって。軍隊を使わないで。ということは?
ぜんぶ「警察」がやればいいんです。

いや、<戦争ではなくて犯罪>と僕が言っているのは、今回の事件は刑事警察の対象になるはずだからなんですね。だとすると、その実行犯に対して国際法上の権利を認める余地はない。刑事犯罪だとすれば、その実行犯----今回の場合はもう死んでいますけれども----もしくは、その後ろ盾となっているような者などに対して刑事罰を加えていくことになるんです。
何でこんなことをずるずるといっているかというと、今回の事件後、起こったことはテロなのに、それに対して戦争によって応える戦略がとらてるんです。事件が発生した直後から、ブッシュ大統領をはじめ、<これは戦争だ>という判断が繰り返して表明されました。<対テロ戦争>という言葉のように、テロに対抗するための方法についても<戦争>という言葉が使われている。でも、刑事犯罪に対して、戦争に対するような戦略をとることは基本的に間違っています。
今回のテロがどの点で新しいかということで言えば、被害者の数がこれまでになく甚大だったということだけす。
戦争解禁―アメリカは何故、いらない戦争をしてしまったのか

それに、警察行動で対処するっていうことは、法手続きに沿った正当性をそれだけ主張しやすい。
戦争解禁―アメリカは何故、いらない戦争をしてしまったのか

警察とは、民法の範囲内の存在です。彼らも、民法に規制されますし、その手続きは徹底して抑制的です。もちろん、ということは、
弱い
です。しかし、それでいいんです。弱いから、無理をしません。危険なら、近寄りません。というか、近寄れません。その代わり、相手が、暴力をエスカレートさせればさせるほど、そいつの

が重くなります。大事なことは、この手続きによって、その結果に対する、
国民らの正統性の調達
に成功しやすい、ということです。恨まれにくいわけですね。
(私はそういう意味では、世界中の軍隊を、なんとかして「警察」に吸収させるような、そういう「知恵」こそ目指されるべき未来のように思うわけですが...。)
ちょっと閑話休題して、逆に、法による、市民への圧力について、考えてみましょう。法は強力です。個人情報保護法ができたと言ったら、法律にそんなこと書いてあるのか怪しいまでに、人々は個人情報に敏感になる。それくらいに強力です。
ということは、逆に考えれば、法が必要以上に、私たちの生活を抑圧している可能性がないでしょうか。こういった問題に、どう考えればいいのか。それについては、以前から私は、

「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)

「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)

という本を重要視しています。

しかし、従来のわが国のように、法律に基づかない行政指導によって個人や企業の活動がオントロールされ、非公式な話し合いによる解決が常態化している場合には、法律で定める制度は、しばしば社会の実態と乖離し、違法行為が常態化することになります。そこでは法律に基づく制裁を科することで法律順守を確保するという手法は用いられず、法律に定められた罰則が実際に適用されることもほとんどありません。ところが、たまたま内部告発などで違法行為が表面化すると、行為者や企業に対して厳しい社会的非難が浴びせられ、ここぞとばかりに刑事罰などの制裁が科されることになります。
「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)

このように法令やその運用と経済実態との乖離が一層深刻な状況になっている背景には、国家公務員倫理法などの影響で、法令の作成や執行を行なう官庁の公務員と民間人との接触が少なくなり、官庁側の認識が経済社会の実情とズレてしまっているという現実があります。
「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)

私たち市民が国家と「親和的」になることはありえない。なぜなら、国家は国民を牢屋に入れなければならないからです。彼らは、言わば、市民の「犯罪コレクター」であって、あらゆる機会をとらえて、市民が犯罪を犯すのを監視しています。この関係は、義務教育の生徒たちが通信簿や上級学校への推薦状の権利を握る、先生たちに、
決して本音を明かすことが「ありえない」
ことと同値といえるでしょう。
しかし、どうなのでしょうか。この現代の複雑社会において、完璧な法律などあるのでしょうか。みんなどこか、現場の実情とかけ離れたものであり、私たちの自由な生活を抑圧しているようにも思います。
私たちの立場として、こういった傾向性をどのように考えたらいいのでしょうか。一つだけはっきしていることは、私たちが普通に生活していて、常識的に考えて、間違ったことをやってないと思う行動をやって、逮捕されるとするなら、
その法律の方が、どうかしている。
きっと、基本法や、現行憲法のなにかと矛盾しているでしょう。だから、
いいんです。
大事なことは、そういうことなんだと思います。法というプロセスは、そういう意味で、人々を
倫理的な行動
にかりたてるシステムとなっている、と考えるわけです。
たとえば、この前の、videonews.com で、グリンピース・ジャパンの星川淳という方が、以下のような興味深い話をしています。

国際人権規約自由権規約というんですけど、人権規約は二つあるんですけど、社会権規約自由権規約自由権規約の中で厳密に規定されている規約というのは、あらゆる市民が、どんな情報でも、求め受け取り伝える自由があってそれが世界人権宣言上も100%保障されなければならないというやつで、それに則って、さらにそれを一般市民よりも特殊性というか専門性あるいは継続性をもって追求するジャーナリストとかNGOという時にどういう解釈をするかということがかなりおもしろくて、九十年代ぐらいから、とくに、ヨーロッパ人権裁判所という国際人権規約を一番誠実に履行している裁判所が、第四審にあたるんですけど、国家の第三審よりも上にあって、そこですっごいおもしろい範例が何百も、九十年代くらいからばっと増えてるんですよ。
そこでいうと、今回のような場合、多少法律の枠をジャーナリストなりNGOなりが踏み出した場合、どういうふうに判断すべきかというと、それによって失われた法的な利益、要するに違反性の重みですね、それと、それからそれをやったことによって社会的に公共の利益がどのくらいあったかということを、天秤にかけたときにもし、公共の利益の方が大きければそれはこちらの法を踏み出したということは阻却といいますか無罪になるかあるいはもし外形的にどうしても罰することが社会正義にかなうと判断があるならばできるだけ軽く罰せよ、と。
screenshot

言論の自由は、非常に重要な理念です。私たちのほとんどの権利は、この言論の自由から始まります。ということは、この言論の自由を守るために、世界法システムがどのような、取り組みをしてきたのかは、大変興味深い。
上記の最も先進的な現代理論からは、
言論の自由のためなら、大抵のことは、大目に見るべきだ
と言っているわけです。そう「法律」が言うわけです。このことは、重大です。しかし、郷原さんの言っていることを考えれば、不思議ではないのでしょう。大事なのは、その法が「どういう意図、理想を目指して」書かれたのか、つまりその意図(意志)、だというわけですから。
私は、イラク戦争の結果は重要だ、と言いました。フセインがいなくなることで、あそこまでの暴力権力競争をひきおこすとするなら、アメリカはやるべきではなかった。いや、なにかをやるなら、彼らは、
なにをどうすべきだったのか
を学び知っている必要があった。つまり「民主化」のプロセス、歴史法則についてです。
イギリスの無血革命から、アメリカ独立戦争フランス革命、と、現在、
先進国
と呼ばれる地域は、いってみれば、それなりの「法の支配」に成功している。しかし、そういったものは、どのようにして、実現できたのだろう。

柄谷 [発展途上国の]開発独裁も、社会主義的独裁も、絶対王政と構造論的に相似的だと
思います。近代ヨーロッパの国民国家は、絶対王政が倒されてできましたが、実際は、絶対王政によってその基盤ができたのです。絶対王政では、全員が王の臣下(subject)として平等となる。つぎに、王を倒せば、全員が主体(subject)となる。つまり、多数の部族、豪族、貴族お統合するような絶対的な権力が先行しないと、近代のネーション = ステートは作れないのです。まだ部族間で争っているアフガニスタンを見ればわかります。
もう一つ、主権国家というのは一国だけで成立するのではなくて、互いに主権を認め合うということによって成立します。主権国家というのは、主権をもたない国家を支配してよいということを含意します。つまり、主権をもたないと、植民地化されてしまう。だから、ヨーロッパに主権国家が出現して以後、どこでも主権国家としての承認を得ようとする。だから、主権国家は近代世界システムとしてあるわけです。

柄谷 絶対王権というのは、ある意味では、反封建的であり、貴族がもっていた封建的な特権を否定する。具体的にいうと、絶対王権以前のヨーロッパにはあちこちに関所みたいなのがあって、商人が通過する度に税金をとる。これは貴族、領主らの特権ですが、商人にとっては大きな障害です。都市の商人たちは王に税金を払うかわりに、そのような献納や課税をやめたい。だから、絶対王権は、ブルジョワジーとの結託によって成立したわけです。それは国家以外の、経済外的強制を否定した。

柄谷行人(他)「ありうべき世界同時革命

文学界 2010年 10月号 [雑誌]

文学界 2010年 10月号 [雑誌]

つまり、ブルジョア革命ですね。このように、ブルジョア革命は、非常に合理的に生まれるんですね。みんなが、お金持ちになりたいと、功利的に行動すると、ブルジョア革命までは成功するわけです。ただし、条件があります。ある意味での、絶対王、による支配が実現していることである、と。このことは、上記で検討してきた、私たちの命題とも整合性があるように思えます。王の下での平等とは、どういうことでしょうか。つまり、これは「実際的な意味では」、
みんな
平等だということと同値なんですね。中江兆民を読んでいても、彼は、典型的な天皇機関説なんですね。民主化において、天皇という王が存在することは、一見矛盾しているように思いますが、法や憲法がある限り、天皇も、この国家の、一つの
機関
としての役割を遂行するための存在である、ということになります。逆説的ですが、立憲君主制とは、国王が国家システムを回すための歯車となることで、逆に、
民主制
を実現するための歯車として周り続けることを意味するわけです。
上記の柄谷さんの発言は、もう一つ重要なことを言っています。ブルジョア革命によって、生まれた、
主体
つまり、主権国家は、たんに「存在」するわけではありません。言わば、「主権国家たちの間に」存在を始める、ということです。つまり、この「民主化」の運動は、世界システム、となっているわけです。つまりどういうことでしょう。ここには、間違いなく、なんらかの、システムがある、ということです。
最後に、少し、立ち止まって、考えて終わりたいと思います。私は以前に、アメリカの政治学者、ウォレンの、保守主義的なアイデアからの、「社会契約」批判、を紹介しました。社会契約をするためには、各個人は、自らの「差異」を一度捨てる必要がある。一度、自分の特異性を破棄し、自らの「剥き出しの人間性」を国家に預けなければならない。そうすることで、「みんな同じ」だから、社会契約、つまり、みんなが同じルールで生きよう、という「同意」が成立できる。
しかし、こういった考えは、私たちの保守主義的な立場からは、認められません。人はだれもが、過去をもち、それぞれ人それぞれの人生経験が、その人を形成しているわけで、だれもその差異を捨てることはできません。だれもが、違うのは、
当然
なわけです。だとすると、どういうことになるのでしょう。つまり、民主化を行なうには、ある「抽象性」を必要としていることは、間違いないように思えます。つまり、ある普遍的なイメージの範囲内で、人々に自らの「特異性」を捨てさせる。つまり、かなり限定的な社会契約といえるでしょう。ただし、その「割合」は、ケースバイケースといえる。比較的、同一民族で占められている、日本のような地域では、そういった「社会契約」を成立させやすいだろうし、アメリカのような多民族社会になると、その「抽象度」は極端に上昇し、自由、平等、友愛、くらいしか、合意のラインを引けなくなる。
つまり、民主化は、どうしても、ナショナリズムと切っても切れない関係があるように思える。
比較的リベラルな方々というのは、この辺りを楽観視されているんだと思うんですね。しかし、アメリカの市民が、まったく、イラクの現地の人たちの
生活の現場
を知らないし興味がないこととは、一体どういうことなのかを考えてみたらいいと思うんですね。そもそも、テレビもラジオも新聞も、報じないわけです。なぜなら、アメリカ国民が興味ないわけですから、売れない、ということなのですから。
そう考えると、なにか絶望的な思いにとらわれてしまいます。
それだけ、知識の非対称性は大きなシステムの与件となるわけです。

「百人斬り競争」についての日本と中国の学生の認識の相違は、主に両国の歴史教科書の記述が異なっていることに由来すると考えられる。たとえば、中国の『新世紀----義務教育過程標準実験教科書・歴史』(二〇〇一年に教育部が公布した「全日制義務教育歴史過程標準」にもとづいて、北京師範大学出版社が二〇〇二年に発行)にはこう書いてある。

南京大虐殺]一九三七年一二月、日本軍は南京を陥落させた。つづいて日本軍は集団銃殺、焼殺、生き埋め、斬首、軍犬に噛み殺させるなど、きわめて残忍な方法で南京市民や捕虜となった兵士にたいして血なまぐさい虐殺をおこない、この世で最も悲惨な南京大虐殺事件を引き起こした。一二月一六日、日本軍は華僑招待所に収容していた中国人市民と捕虜になった将兵五千余人を中山埠頭へ連行し、機関銃で射殺した後、死体を長江へ捨てたり、焼却したりした。一八日、日本軍は南京幕府山に拘禁した老若男女五万七〇〇〇人を全員針金で縛り、下関の草鞋峡へ連行、機関銃で射殺した。さらに、倒れて血の海のなかで呻吟している群集を銃剣で刺し殺した。それから日本軍は石油をかけて死体を焼却し、骨となった死体を長江へ捨てた。
日本軍はさらに常軌を逸した「殺人競争」をおこなった。日本軍少尉の向井敏明と野田毅は、南京を占領いた時に、先に一〇〇人を斬った者が勝利者になるのだと決めた。二人の殺人魔が血に飢えた日本刀を持って紫金山の山麓で会見した時、野田は一〇五人、向井は一〇六人を斬り殺していた。どちらが先に一〇〇人を斬り殺したかわからないので、勝負は決まらなかった。そこで二人は改めてどちらが先に一五〇人を斬り殺すかで勝負を決めることにした。一九三七年一二月、日本の『東京日日新聞』は「勝利者」の口調で「殺人競争」を報道いた。日本分側はこれを「国威発揚」の「光栄ある手柄」と考えたのである。
統計によれば、日本軍が南京を占領した六週間の間に、寸鉄も帯びない南京市民と武器を放棄した中国兵にたいする虐殺は三〇万人以上におよんだ。南京大虐殺は日本の侵略者が中華民族にたいして犯した重大な暴行の一つである。(引用者訳)

いっぽう日本の中学校歴史教科書は八社から出版されているが、全社の教科書に南京事件が記述されている。八社のなかで一番詳しい記述をしている清水書院のもの(二〇〇六年版)にはこう書かれている。

日本軍の物資の補給体制はきわめて不十分だった。日本軍は、占領した地域で物資や労働力を徴発し、食糧などもその地で確保した。このため物資の略奪・放火・虐殺などの行為もしばしば発生した。とくに南京占領にさいしては、捕虜・武器をすてた兵士、老人・子どもまでもふくめた民衆を無差別に殺害した。戦死した兵士もあわせてこのときの死者の数は多数にのぼると推定されている。諸外国は、この南京大虐殺事件を強く非難したが、当時の日本人のほとんどはこの事実さえ知らなかった。こうした日本軍の行為は、中国民衆の日本への抵抗や憎悪をいっそう強めることとなった。

「百人斬り競争」と南京事件―史実の解明から歴史対話へ

「百人斬り競争」と南京事件―史実の解明から歴史対話へ

私たちの、普通の感覚で想像してみてください。中国側の教科書を読んだ人と、日本側の教科書を読んだ人、この二人が、どうやったら、まともな会話が成立するでしょうか。私が言っている保守主義とは、こういったことの積み重ねにすぎません。