冷泉彰彦「フェイスブック世代の光と闇」

村上龍さんがやってるメールサービスJMMの記事。
ソーシャル・ネットワーク先進国のアメリカにおける、フェースブックは、一種の、
ネット帝国
をすでに確立している。

全世界で加入者が公称5億人いるとか、30歳以下のアメリカ人の90%がアカウントを持っているとか、とにかく時代を席巻する現象となっていると言えるでしょう。

フェースブックが、世界を支配したという意味は、そのシステムの与件として、「実名、顔写真入り」を、義務づけた、ということと同値と言っていいだろう。

ここで日本のネット文化と大きく異なるのは「実名、顔写真入り」という運用がかなりの度合いで徹底されていることです。ほとんどのアメリカ人は、このフェイスブックに自分のアイデンティティを晒しており、実社会でのネットワークづくりに利用しています。例えば、就職しようという人は、フェイスブック上にその業界でのネットワークを実名で築いていって、最終的には面接から採用に結びつけようとしますし、営業活動への応用、業界内での人脈拡大までが可能になります。学生の場合なら、同じ授業を取っているとか、同じような趣味を持っているなどの共通点からお互いをネットワーク化して、一緒に何かを楽しんだり、進路の情報交換をしたり、試験対策の勉強を一緒にしたりという使い方になります。

大学でも社会でも、リアルの個人を中心としたネットワークが極めて重視されるアメリカ社会では、ネットのネットワークは匿名の仮想空間にして、リアルのネットワークとは別世界に分けるなどという面倒なことをしているヒマはないわけです。リアルのネットワークの生産性を高めるための強力なツールとして、フェイスブックが定着してしまった以上は、このまま実名での運用が続くのは間違いないでしょう。

アメリカのブログの利用方法は日本の日記文化や噂話のたぐいというより、直接に、友達との事務連絡(日本のケータイメール)やビジネスライクな仕事関係の広告、のようなものが主になっているということなのだろう。それが、「社交的ネット利用」ということなのであろう。)
テクノロジーは、資本主義の「スピード」をより高速化する。早い話が、匿名は「めんどくさい」のである。ワンクッション置くことは、話をややこしくし、議論をこんがらがらせるだけで、資本主義の「スピード」に寄与しない。
徹底した、実名主義、顔と名前の一致、住所、連絡先、履歴書、友達、会話、食性格、旅行、仕事上の契約、...。
その人の全て
を、ネット帝国、フェースブック支配下に「譲渡する」(まさに、ルソーの言う社会契約だ)。そういう社交的ツールとして、
実質的な国民の義務化
に成功すれば、どうだろう。国民を自分の「支配下」に置くなどということは、造作もないことになるようだ。国民は、なんの気なしに、フェースブックに書き込む。人によっては、この部分はプライバシーモードで、この部分は友達には公開しよう。ここは、だれに見られてもいいや。しかし、同じなのである。フェースブック側にとってみれば、その記録は彼らの「財産」なのであって、そういった記録を、フェースブックが、どうビジネスに利用するか。国家に売るか。彼らのものなんだから、彼らの 自由である。だって、国民が「勝手に」フェースブックの社長「のために」あげたんでしょ、
あんた自身を。
それをいまさら、やっぱりやめたい、って。そりゃあ、無理な相談でしょう。勝手に書いておいて、やっぱりなかったことにしてくれって、そんな都合のいいように、世の中はできていない。
私が、これをネット帝国といったのは、そういう意味です。
ばかな国民は、「自分」をフェースブックに無料(ただ)で売る。他人との社交性を繋ぎとめるために。
しかし、どうだろう。普通に考えても、このソーシャル・メディアの経済的な将来性は限りなく広がっているように思える。みんな、さまざまな需要がある。その需要を満たすのに、直接、
繋がれたら
どれだけ、便利なことであろうか。言ってみれば、「なんでも夢がかなう」ってことではないだろうか。たとえば、自分がなにかベンチャー企業をやりたい、とする。簡単である。フェースブックでそういった関心のある金持ちを探して、援助してもらえばいい。これだけで、ビジネスは成功する。
お前の夢はかなう。
たとえば、日本のここ何年かの不況は、国民がこの、ソーシャルメディア、を使いこなせていないことにこそ、問題があるのではないか。ネットを有効に活用できるなら、もっと仕事を獲得しやすいのかもしれない(しかし他方においては、「いいがかり」のようなクレーマー情報に日々ふれなければならない
欝な
人生が始まるということなのかもしれないが...)。
いずれにしろ、私が強調したいのは、フェースブックが「実名」という、「武器」を獲得したことである。むしろ、このことこそ、
真の国家
の誕生と言えるのかもしれない。個人のプライバシーこそ、価値である。これを握った勢力こそが、まさに、国家以上に「個人を支配する」。なんにせよ、プライバシーを握られているのだから、個人はフェースブックに逆らえない。逆らったら、なにをされるか分からない。自分の人生をめちゃくちゃにされるかもしれない。しかし、30歳以下は9割なんでしょ。1割って、統計的には誤差の範囲なんだから、アメリカ人の
全員
フェースブック帝国の支配下にはいったって言っていいんでしょうね。みんな、それ以上に、ありがたい効能が期待できるから、やめられない(まるでドラッグのよう)。まさに、国家と国民の関係。
そもそも、なんで、自分(の情報)をフェースブックにくれてやらなければいけないのか。
そこには、むしろ、なんで、フェースブックの社長が、個人情報を集めたがっているのか、というように質問を変えてみることが有効なのかもしれない。

それにしても、あくまで実名をネットの世界に晒しながら、人脈がドンドン増殖してゆくというこのフェイスブックが、どうしてここまで成功したのでしょうか? それは一つには、このザッカーバーグに代表されるアメリカの「ジェネレーションY」が史上空前のベビーブーマーとして、アメリカ社会を「我が物のように闊歩」している、その世代の厚みの勝利ということがあります。生まれながらにしてITに親しみ、ITを使いこなすことで巨万の富を獲得したり世界を動かすことができるという90年代のドラマを見て育った「Y」の世代の「全能感」は「自分こそ世界の中心」という自己肯定感につながり、それが「コソコソ匿名で隠れる必要なし」というアッケラカンとした実名主義になっているように思います。
その全能感のウラには、自分たちこそ原理主義的な二元論から自由、つまり「価値が相対化された時代を自由に生きる」知恵を持った世代であり、狭い伝統的な価値観から脱皮してグローバルに飛躍できる世代という自負があるのです。他でもないオバマ大統領は、この「Y」の世代の分厚い票を獲得することでホワイトハウスを奪取したと言っても過言ではないと思います。それはともかく、ザッカーバーグをはじめとする「Y」の世代にとって、ITは道具であり、グローバリズムとは自分たちが経済的成功を駆け上がってゆく庭のような感覚があるのでしょう。それが、時には伝統的なプライバシーの感覚や、異文化との衝突を繰り返してきたのはある意味では必然的といえます。
そこには、ハーバードのドロップアウトであるザッカーバーグの「エリート主義」も見え隠れしています。フェイスブックに関しても、当初は伝統校であるアイビーリーグ加盟校の学生に対象を限定していたというエピソードがその出自のエリート性を物語っています。また、ザッカーバーグ自身が日本市場に興味を持ちながらも、日本語のインターフェースを完全に用意する必要性をなかなか理解出来ていない(ように見えます)点などに、英語至上主義、あるいはアメリカ至上主義も感じさせるのです。
ファイスブック文化に対する批判も、アメリカでは始まっています。例えば、今週末から封切られた映画『ザ・ソーシャル・ネットワーク』は、定冠詞「ザ」が示すように、正にフェイスブックの立ち上げのドラマが題材になっており、そこでは訴訟問題や大学との対決などに際しての、マーク・ザッカーバーグの強引な手法が描かれているそうです。

(この引用にしても、ある種の、フェースブックの社長の「善意のファシズム」を感じないだろうか。「あんたの夢をかなえてやると言ってるんだ」。自分は、善意の塊で、人に悪いことをしないから、悪人のみんなにかわって、自分が世界中のプライバシーを支配しよう。自分はいい奴なんだから、だれも困ることはないんだから、これこそ、ベスト・アンド・ブライテスト。アニメ「コードギアス」のルルーシュのように、その全体主義的高揚感に酔ってみせているということなんですかね...。)
こうやって、まず先に「実名」支配に成功した、フェースブックこそ、この社交ツールの「プラットフォーム」としての強みを獲得する。このプラットフォームさえ、自分のものにしてしまえば、こっちのものだろう。たとえば、日本において、ツイッターと同じようなツールを作ってやろうという人があらわれないのは、もうそれを世界規模でやられているから、ガラパゴスじゃ、弱いってことなのだろう。
しかしそうだろうか。むしろ、こういった「社交ツール」の、ある種の、
プロトコル
つまり、世界規約がないことが、こういった「世界支配国」アメリカ内の一社による独占を許し、そして、アメリカ舶来をありがたがり、日本独自のガラパゴスを「侮蔑」して、上から目線でなにかを言ったつもりになっている、「売国奴」言説を量産しているのであろう(まあ、実際に便利なんだから言いたくなるのも分からなくはないが)。
はっきりいって、グローバルビジネスで勝ちたいなら、アメリカ人になれ。アメリカ国民になれ。日本人を捨てろ。日本人でいるということは、日本というローカルで生きる、ということではないのか。だったら、そういう「世界秩序」を考えるべきであろう。どう考えたって、それがグローバリゼーションとは思えないだろう。
日本というローカリティに根差した世界秩序ということは、アメリカ(や中国)以外の世界のさまざまなローカリティと一緒に、「地域」を尊重するものだと言えないだろうか。
各地域がその地域の情報(つまり、プライバシー)を「管理」する。そして各地域はその地域の情報を「プロトコル」によって、世界中とやりとりする。こういったイメージこそ、当然の作法のように思われる。
このようなイメージのシステムを構築することで、各地域の情報産業が、各地域の「現場の実情に根差した」ものとして、活性化し、栄える。これを、保護貿易と呼ばれようが、なんだろうが、世界の独占化(外国企業による日本支配)よりは、ましだと思わないだろうか。
そう考えると、ある程度の「プライバシー」を各個人が手放すという選択肢は、どう考えても考えられない。
例えば、掲題の記事にもあるが、今、アメリカでは、ニュージャージー州のある大学でおきた、ネットを利用した、いじめ自殺

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で、もちきりだという。

その被害者が遺書を残したのも、被害者を追悼する人々が集うのも、イタズラを行ったとされる人物を糾弾するのも全てフェイスブックという、正に「ジェネレーションY」ならではの悲劇であり、悲劇の受け止め方となっています。

これが総記録社会である。アメリカのプライバシー保護法も、たったの罰金5万円以下だそうだ(まるで、いじめはやり得と言わんばかりの罰則じゃないですかね)。あらゆる人が、あらゆる人を「監視」し、記録し、
さらす。
だれもが日常を、まるで「アクター」「アクトレス」のように、かっこうをつけて、人生を演じ、生きていく。それが嫌な、弱い「優しい」個人は、自殺するのである。
(バックナンバーは火曜日掲載だそう。)
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