浜省に「花火」という、奇妙な曲がある。というのは、歌詞が何を言いたいのかが分かりにくい、というところにある。
ただ、もう一つ理由があるように思える。浜省を聞くファンが、
何を期待して
聞いているのか、というところである。
彼は自分には、今なら、20歳になる娘ともうすぐ高校生になるサッカーの好きな息子がいる、と話し始める。彼は一体、誰に話しかけているのか。ひととおり話した後、歌詞には「これがオレの物語/君の心を失っても隠せない」とある。自分の奥さんに、「オレの物語」と語りかけるなど、ありえないだろうと考えれば、この
ラブストーリー
は、自分の奥さんや子供たちとは別の、ある自分に好意をもってくれている女性に、自分が今まで、どういった人生を歩んできたかを、告白する場面だということがわかる。
家を出てから5度目の花火ということは、5年の月日が流れていることになる。彼はなぜ、そういった別居という状態になったのか。そのことを、この歌詞は語らない。ただ、彼はそれまでの間、「すべて」の彼の稼ぎを送った、とある。つまり、成長した子供たちと、最低の義務を果してきた彼の、第二の人生(愛)が認められてもいいのではないか、ということが示唆された、ラブソングなわけですね。
昔から、浜省の描く男性像は、一部の女性たちに不評であった。なんというか、女々しいのである。いつまでも、女性を想い続け、相手の幸せを思って、身を引き、自分の幸せを考えない姿が、分かりにくいのだろう。
この曲もそうである。「ある日戻るつもりでふらっと家を出て戻らなかった」。無責任な男となる。だらしない男である、弱い男である、と。
結局、それというのはなんだと考えればいいのだろうか。彼はなぜ、あえてそういった男性像を示すのか。
浜省を聞くファンが、愛を彼の歌に求めているということは、彼に自分の「正当性」を求めている、ということなのだろう。だれもが、パートナーを信頼したい。その絆が壊れた告白を聞きたくないわけである。彼らにとって、欲しいのは、自分への応援歌である。
額が床に付くくらい頭を下げ毎日働いてる
傷ついてる暇なんか無い前だけ見て進む
嘆いてる暇なんか無い命がけで守る
妻と今日一日を無事に過ごせたことを祈って
浜田省吾「I am a father」
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自分の敵の応援歌は、不快であり、存在自体を自分の中に置くわけにはいかない。
そういうわけで、人々は浜省のアルバムを聞くとき、「花火」という曲を聞かない。飛ばす。
たとえば、日本は、ぶっちゃけてしまえば、今だに、強固なイエ制度があると言っていいんだと思う。男女は個人で結ばれるのではない。イエとイエが結ばれるのであって、個人はそのイエの一部にすぎない。イエとは財産である。男女が一つ屋根の下で暮すということは、お互いがその財産の所有者となることだといえよう。そしてその関係は、死ぬときの、相続権、遺言の内容の場面まで、続くことになる。
こう考えると、上記の家に戻らない男は、最低の男ということになる。イエの主人としての義務を果さないのだから、と。
私が言いたいのは、浜省が、そういった「俗情との結託」を歌った人間なのか、ということである。
別に、彼のファンたちが、彼の歌に、自分のナルシシズムを読もうとしたことを非難したいわけではない。勝手にやればいい。しかし彼は、明らかに、今までも、ずいぶんと違ったことをさまざまな歌に読んできた。
こういった場合、一つのメルクマールとなるものが、民法ではないだろうか。
毎年、ある程度の離婚件数が、この日本においても存在する。やはり、近年の不況は、離婚件数の増加となってあらわれているようである。
男女が出会い、結婚し、そして、子供にめぐまれる。しかし、なぜ、お互いが結婚したのか、の、その「前提」には、間違いなく、経済的な「適格性」が斟酌されている。当然である。なぜなら、婚約者は「イエ」的存在だからである。この結婚の成功は、「イエ」の存続に直結しているわけである。
お互い、「いくら自分は、稼ぐ、だから、結婚した」。稼ぐ方も、就職活動に成功したりなどして、自信満々だったことだろう。半分、人生をなめていたのかもしれない。他方だって、そんな相手の軽口を、たのもしく思っていたに違いない。
つまり、二人は若かった。
不況は、どこまでも、我々を追い込む。稼ぎは、期待に届かず、明日をどうやって、子供たちに飯を食べさせればいいのか。
しかし、そういったこと以上に、問題は、お互いが、お互いを信じられなくなっていくことであろう。
お互いの不信感が、どんどん高まっていく。こんな思いやりのないやつだと思わなかった。どうしても自分と合わない。あいつと一緒にいることは耐えられない。なんで、こんな相手と結婚したのか。自分は人生に失敗した。これからの人生、このまま、自分は不幸なのか...。
もちろん、こういった関係を他人が、どうこう憶測しても意味はない。しかし、一部の保守派に言わせれば、
子供がかわいそう
となる。子供が大きくなるまでは、お互いは、「子供のため」に、我慢するべきではないのか。
それも、一理あるのかもしれない。しかし、私の立場から言わせてもらうなら、それは、お互いが「選択」することである。
私たちの人生は「自由」なのである。
離れて暮らすことを選ぶことも、我慢してでも一緒にいることも、どちらも、それぞれの「選択」なのだ。もちろん、結果として、離れることを選ぶ夫婦は、マイナーである。そして、そのことが、社会の無理解につながる。彼らは、わがままだったのだ。イエを理解しなかった。そういった反応は、言ってみれば、素直である。つまり、自分たちは我慢している、だから、我慢をあきらめた、方々を軽蔑し、さげすむわけである。
実際に、現代日本社会における、母子家庭への、冷たい視線は、なんなのだろうかと思わされる。
しかし、私の立場から言わせてもらうなら、それは逆なのだと思う。むしろ、社会はそういったマイノリティである、離れて暮らさなければならなくなった
男女
を「中心」にしたシステムであるべきだと思う。私たちは人間である。その人間の感情を、
無理矢理
強いて留まらせることはできない。
だめなときはだめなのであって、それが「自由な」人間なのではないだろうか。そう考えると、現行の民法は、まだまだ、日本的イエ的な、封建的ルールを中心としているように思える。
離婚手続きは、どこまでも煩雑であるし、税金の仕組みも、分かりにくい。日本の民法は、まるで一罰百戒を目指すかのように、母子家庭を苦しませ、不幸にさせ、国民に、
こんな「不道徳な」離婚などということを選ぶな
と脅しているかのようである。しかし他方において、民法は、国民の俗情に「反してまで」、
平等
である。浜省の描く男は女々しい。しかし、そんな女々しい男たちも、平等に同じ権利と義務の下で、扱われる。男らしい男は、法的に優遇され、女々しい男はゴミ扱いされる、などということはないわけだ。
では、浜省の描く「女々しい」男たちは、なにを見ているのか。
今夜君の手を取り連れ去る悲しみの中から
もっと傷つき二度と立ち直るチャンスを失う前に
You Know Why?
Because I love you... ずっと前から
Yes, I love you...浜田省吾「Because I love you」
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彼は、なぜ、その女性を「助けようとする」のか。それは、ボランティアでも、道徳的な衝動でもない。相手にとっては迷惑なだけなのだろう。でも彼がやりたいんですね。彼が「ずっと」好き「だった」から。こういう男性なんですね。
思い出話途切れる頃には気付いた
今でも君が好きだと傷つくことも失うことも覚悟の上で恋に落ちる
裏切ることも奪い取ることも恐れず
今夜いたわるようにふれあう
浜省の描く男の「女々しさ」は、行動力がないわけではない。「女々しい」と思うのは彼がまだ覚悟を決めていないからにすぎない。なぜなら、相手の幸せを考えれば、その方がいいに決まっているから。彼にとって、ここにおいては迷いはない。
つまり、どういうことなのであろうか。彼が描く男たちは、上記で描いたような、「俗情」。イエの繋がりとお金、この二つこそ「人間の本質」と考えて、自分の感情などという「想像物」を嘲笑し、ただ、「現実」(イエとイエのお金)にしがみついて生きるような存在と、まったく、対蹠的な存在としてして描いているわけである。
写真の中の君無邪気に笑ってる浜辺で
この時君二十歳過ぎで
あどけなさの中に強い心秘めている
生命の輝きほとばしる瞬間をとらえたのはこのオレ
名付けようもない感情で浜田省吾「ある晴れた夏の日の午後」
My First Love
彼はただただ、その女性に、
魅せられてる。
ばかなのかなんなのか、あんまりそれ以外のことを考えていない。興味もない。以前、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」で、キョンのハルヒをみる視線が、だんだんやわらかくなることと、日本文学の名作、谷崎潤一郎『春琴抄』との比較をしましたが、それはアニメ「戦う司書」における、ノロティへの、エンリケの視線の、出会ってから、ノロティが死ぬまで、のあり方にも言えるかもしれません。ある種の、
マゾヒズム的な快楽。
そういった実存的な性格が、もう一つの、日本のサブカルチャーの傾向として、指摘できるように思えるわけです...。