河辺一郎『日本の外交は何を隠しているのか』

2006年初版の新書。
この前、MX テレビでやっていた映画「カジノ・ジャック」は、近年、アメリカで問題となった、ジャック・エイブラモフ、というロビイストが、オバマにチェンジするまでの、共和党政権内において、どういった存在であったのかを描いたものであった(前半しか見なかったが)。
これについては、以前、

ドキュメント アメリカの金権政治 (岩波新書)

ドキュメント アメリカの金権政治 (岩波新書)

という本をこのブログでも紹介したことがあるが、この本の前半は、ほとんど、ジャック・エイブラモフ事件の紹介だけで占められていて、この事件が近年のアメリカ政治において、いかに革命的な意味をもっていたのかを示している。
映画の方では、例の北マリアナ諸島との関わりの部分が印象的であった。北マリアナ諸島は言わば、アメリカであってアメリカでない。タックスヘイブンみたいなものなのだろうが、つまりは、自由主義者の楽園。アメリカの法が及ばないのに、アメリカの一部。ウィキの記述を引用してみよう。

またかつては繊維業が盛んであった。北マリアナ諸島ではコモンウェルス盟約の規定 により、独自の労働法や出入国管理制度が認められていたため、最低賃金を合衆国政府が定める基準よりも低く設定し、そして入国審査も緩くすることで中国人の出稼ぎ労働者を受け入れ、彼らが働く繊維工場が域内各地に出来た。北マリアナ諸島は米国領であるため、「Made in USA」の表示が許され、安価な北マリアナ製衣服が市場を席巻した。
しかし労働者に対する不当な搾取が問題化したため、合衆国政府は北マリアナ諸島政府からこれらの権限を剥奪し、合衆国政府の管理下に置くこととなった。そのため、これらの繊維工場は次々と閉鎖されることになった。
screenshot

ジャック・エイブラモフは、共和党の要人を、北マリアナに次々と連れて来る。彼らにゴルフ接待を行い、バカンスを接待する。彼ら、視察団と称して共和党の要人は、口を揃えて、
マリアナ、なーんの問題もなかったぜ。おれら、この目で見てきたんだ。政治家のこのオレが言ってんだ。なーんの問題があるわけねーだろ。おい、分かってんだろ。政治家より信頼できる国民が一人でもいるか? そのオレが言ってるんだ。そりゃ信じるしかねーよなー。
政治家たちが次々と訪れて、まったく問題ない。ノープロブレムだ。と、みんな口を揃えて言う。そういった事態が続く限り、北マリアナの「奴隷貿易」は、隠然と続いてきた。罪深きは政治家、といったところか。
しかし、なんであんなところに、共和党の強面たちが勢揃いしたのか。それもこれも、全部、ジャック・エイブラモフのおもてなしであった。共和党の主要人物は「全員」ジャック・エイブラモフの紐付きだったわけだ。「みんな」ジャック・エイブラモフからお金をもらい、その見返りを、政治の舞台で「パフォーマンス」しているだけの、存在であった。アメリカの湾岸戦争も、イラク戦争も、ずっと、ジャック・エイブラモフ中心に、共和党は回っていたわけであり、言ってみれば、ジャック・エイブラモフ「が」イラク戦争をしたいと言ったから、イラク戦争になったわけである。実質、共和党は、ジャック・エイブラモフの私物のようになっていた。国民は善意で、さまざまな共和党の集会やデモに参加する。ところが、どうも変である。なにかがおかしい。つまり、ジャック・エイブラモフの「桜」の存在で固められているわけで、おそらく、アメリカ中のすべての人たちが、これが、ジャック・エイブラモフの「桜」運動なのか、善意の集団なのか、区別がつかなくなっていたのでは、と言われる...。
それにしても、この長く続いた、アメリカ共和党政権がほぼ独占してきた歴史の中で、一貫して、共和党を隠然と支配してきたのが、ジャック・エイブラモフという、どこか、陽気な印象を与える
ナイスガイ
だったことは意外であった。こんな奴が、アメリカをずっと支配してきたとは...。彼が、アメリカ(つまり、共和党)を、自分の手の上で踊らせる手腕は実に、単純であった。
お金
である。政治家は、なにせ、お金に弱い。彼らは選挙に勝たなければならない。なにをするにもお金がいる、この資本主義社会では、
多少汚いお金だろうと
必要なときに「用意」した奴が勝つ。
しかし、そんなに世の中うまくいくものだろうか。実際、ジャック・エイブラモフは、逮捕された。彼は「やりすぎ」たのだ。
しかし不思議なのは、なぜ、このような、
カタストロフィー
を迎えるのだろうか、ということである。ブッシュ大統領から、だれから、共和党の重要人物は、ことごとく、ジャック・エイブラモフのお世話になっていたことが、次々と分かってくる。どう考えても、こいつがうさんくさいのは分かりきっているのに、世界の中心、自由と民主化の聖地、このアメリカでこういった事件が起きる。
共和党という、私たちが、ネオコンリバタリアンや、フリードマン新自由主義、からなにから、共和党イデオロギーとして、
理論的ライバル
として、真剣に格闘してきた相手の実体は、なんのことはなかった。あるロビイスト、ジャック・エイブラモフという、ただの、
金の盲者
だったわけだ。一体、上記の対立軸とは、なんだったのだろうか。ものすごい、徒労感に襲われないだろうか...。
こういったことは、システム論的には、大変興味深い。一体、どのような法則が、そこに働いているのか(間違いなく、以前紹介した、「べき乗法則」もその一つであることは間違いないのだろうか...)。
この例は、国家の実体とは何かを考えるとき、国家を国家の中から見る、一つの視点 と言えるであろう。
しかし、一般的には、「中の人」にとっては、基本的に、国家という「殻」の輪郭を意識することは日常において、ほとんどない。私たち国民は、国家が何をやっているのか、知らないし興味もない。
というか、そもそも、その「国家」という用語は、くせもの、である。一体、何が国家の実体なのか。杳として、その輪郭を表さない存在、それが、国家である。
ところが、その国家の輪郭を、
嫌でも
意識せざるをえない人たちがいる。それが「外の人」つまり、その国家の外の他の国の人たちから、日本を見たときである。
彼らにとっては、
間違いなく
日本は存在する。そして、
恐い。
今回の、中国の漁船が日本の海上保安庁の巡視船に拿捕された問題にしても、日本の国民は中国が恐いの大合唱である。
ところが、先週の videonews.com は、むしろ、政治主導を強行する、民主党「革命」政権、に対する、官僚たちのサボタージュと、アメリカン・スクールによる、日本外交の、チャイナ・スクール組の、排除の過程、この二つの「当然の」結果、として、識者は一貫して整理している。ようするに、民主党は、中国にパイプがない、アメリカ「信者」が政権中枢を固めていて、チャイナ・スクール組の、つけいる隙もない。そうなるとどうなるか。だれも、中国とは何者なのかを知らない。
中国側が強調するように、日本と中国は、尖閣棚上げ、資源の共同開発で、一致して、今までずっと来ていたわけである。自民党政権は、この、政府方針を一貫して、踏襲し続けた。あの、小泉首相でさえ、つかまえたら、瞬時に強制送還で、一貫していた。
ところが、菅政権は初閣議で、「尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない」という答弁書閣議決定する。そうすると、国内法で「なんでも」処理していいってことになる。いや、逆にそうしないと不自然となる。入ってくる者は即逮捕。優等生集団、民主党は、勝手に、
日中のバーター
を一方的に、破壊する。だって、
いけないことじゃん。悪いことをしたら怒られるじゃん。
しかし、よく考えてみようではないか。この島は「実質的に」今、どこが実行支配しているか。間違いなく、日本なんでしょ。そういった場合、国際法はどう考えるか。実績を重視するわけですね。百年、千年、ずっと続けて、日本が実行支配していた、としましょう。その期間が長ければ長いほど、日本の「国土」と考えていいんじゃないか、そういった実績作りになるわけですね。
ずっと、このままでいいわけです。
ところが、お坊ちゃま集団、民主党には、どうしても「良き行い」を、頭ナデナデして褒めてもらわないと、耐えられない子供たちで、固められているようです。
普通の感覚で考えたら、こっちから、約束を破るって、どーゆーシンケーって感じでしょう。
さかんに、前原・岡田コンビは、むこーがぶつかってきた、を強調する。しかしね。番組でも言ってたように、こっちが掴まえようとしたから、相手は必死で逃げようとするわけですね。つかまったら大変ですから、なんとしてでも、逃げようとする。日本の報道だと、まるで、テロリストのように、戦闘的にぶつかって来たみたいな口ぶりですけどね。ただの漁船なんでしょ。どう考えても、漁船の方がリスクが高そうですね。
そもそもなぜ、上記のような、両国の取り決めで今まで、やってきたのか。お互いが自らの領土と主張している場所で、日本側が相手を逮捕して、死刑にしたとしましょう。しかし、相手側から見れば、自国の国民が自国の領土を歩いていたら、急にさらわれて、拉致監禁されて、殺されたってのと変わらないわけでしょう。北朝鮮拉致問題とどこまで違うと言えるんですかね(それだけ、どこの国でも、領土問題はデリケートなわけでしょう)。中国政府が強行発言に変わるのが、ちょうど、日本が乗組員たちの拘留を決めた頃だという話ですし、あきらかに、なんの話し合いもなく、一方的に、今までの一線を超えて挑発してきた、日本側の
意図
こそ、最初に問われるべきなんですね(戦争よ再び、で、今度こそ、中国に勝ちたかったんですかね)。中国政府が、この売られた喧嘩に、売り言葉に買い言葉で返さなかったら、中国国民感情を、どうやって抑えるというのか。逆に聞いてみたいところでしょう。
あと、日本の大使館に深夜に、中国側の要人がおしかけて来て、仙石幹事長は、「無礼」だって? 中国では、大事な話をするときは、夜中に訪れることこそ、彼らの慣習だと言うじゃないですか。
今回の漁船の船長は、中国に帰って今は、ほとんど軟禁状態だという。まったくの、中国政府も手を焼いていた、トラブルメーカーだったんでしょ。中国政府の方が、手を焼いてる。
前原・岡田コンビという、何を口走るかまったく分からない、アメリカン・スクール爆弾を、今のポストに坐らせておく限り、日中関係は、ぶち壊され続けるのかもしれませんが、他方において、民主党政権の、
裸の王様
状態が、ずっと続いていることは間違いないようですね。官僚たちが、まったく、民主党に協力しない。ことあるごとに、サボタージュを決めこみ、さぼりまくって、
だって、政治主導なんだろ。言うなら勝手にやってれば?
民主党の政治家は、踊らない官僚の「代わり」に、官僚の仕事をやっている。だって、官僚がやる気がない限り、あと手が開いてるのは、政治家しかいないのだから。しかし、政治家とは、ただ、国民の人気だけで、ここまで来た人たちである。ただの、庶民でありシロートの集団でしかない。
上記の問題も、全部、官僚たちには、あまりに自明な結果でしかない。だって、ずっとその仕事をしてきているわけなんですからね。彼らが、諫言していれば、一つとして、トラブルは起きずに、終わっていたのだろう。
民主党は、今、官僚との、仁義なき戦い、の真っ最中である。ここでもし、民主党が、官僚とのバーターで、彼らの今までの、特殊法人などの天下りや、「わたり」による、退職金、もらい放題の、今の制度の維持を約束させ、その代わりとして、中国外交を
まじめ
に諫言するとなったら、国民の求めるものは、期待と離れていくのであろう...。
そこで「国家とは何か」について考えるわけである。
モンテスキューが言ったように、国家とは、三権分立「そのもの」と言っていい。その中でも、ほぼ、「行政」こそが、
国家そのもの
と言っていいだろう(残りの二つは「メタ」国家、と言っていいのだろう)。そして、行政とは、官僚組織に、分割できる。この複数の官僚集団こそ、国家の実体である。これらの集団は、私たちが、会社に勤めれば、社長を中心とした「利益追求」型組織であるように、官僚もその形態においては、まったく区別はない。そういう意味では、国家など存在しない。あるのは、それぞれの縦割り官僚集団であり、お互いは、基本的に相手に興味がなく、自己利益追求に邁進する。
こういった事態は、私たちに、深刻なアイデンティティ・クライシスをもたらすと思える。
私たちは、日本と日本人には、なんらかの関係があると思いたい。ある日本人の傾向性を見て、それは、なんらかの意味で、日本という国家を
表象
しているのだろうと考えたい。もっと言えば、日本人とは、日本国家の「縮小版」だと、日本の「外」の人たちは、当然のように見てくる(こういった傾向こそ、和辻哲郎の言う「風土」なのだろう)。
もちろん、そういった傾向はある意味当然だろうし、一定の説得力もあるのだろうが、他方において、上記の国家イメージと一致しない。国家は、
分裂
している。さまざまな「機能」を担い、縦割り官僚集団が、彼ら独自のオートノミーに基き行動している。
それだけ。
そこに、なにか中心とか、全体を統一した意志を読み込もうとするのは、事態の把握を誤ることになる。
以前紹介した、

心の社会

心の社会

は、人間の「心」の中が、どのような働きになっているのかを検討した名作であるが、その議論と上記における「国家」機能の議論には、ある相似性があるように思える。
たとえば、なぜ、人間は、さまざまな仕事をマルチでこなせるのか、と考えてみる。いろいろな仕事を複雑にからみながら、処理していける。そう考えたとき、むしろ、人間の中には複数の「主体」を想定した方が、さまざまなことが説明できるのではないか。そう考えたのが、ミンスキーの言う「エージェント」であった。
人間の中では、さまざまなエージェントが、それぞれに自分のタスクをこなしている。言わば、多重人格に近いかもしれない。
アイデンティティという言葉があるが、私たちの細胞を構成するタンパク質のほとんどは、一ヶ月後には、入れ替わっている、という。だとするなら、「何」が自分なのか、と考えるわけです。どこに私のアイデンティティがあるのか。
そういった問いが罠だということです。どの「エージェント」が自分なのか。そういった問いはミスリードなのであって、この考えは、近代文学で言われる「意識の流れ」とも親和的に思える。確かに私たちは、この「自分」というものが、明確に「ある」ように思える。まさに、デカルト的、我考える、ゆえに、我あり。しかし、私たちは、あることを考えていたと思うと、急に、ある「昔の出来事」を想起する。これを私たちは、
別のエージェントがドミナントになった
と考えるわけである。こういったように、さまざまなエージェントの中で、どれが今、中心的な位置にいるかは、その時々で、どんどん代わっていくと考えるのである。
そうしたとき、そのエージェントとは、なんだと言えばいいのか。この場合で、普通に考えば、ある神経系を電気が通るときに、定型的に生み出される、ある種の「波」のパターン、ということなのだろう。その、ある神経の塊が、定型的なパターンを生みだして(つまり、想起)、エージェントとなる。
国家を同じように考えるなら、私たちが会話をしたり文章を書くときの、意識の動きを、
外交
と比較できるかもしれない。つまり、外交という「エージェント」(外務省)が、彼らのオートノミーとして独立運動を展開する。私たちが、ひとたび、日本の外に出れば、日本とは、つまりは、日本大使館のこととなるし、それは、日本人以外の人たちにとってもそうである。日本を非難したかったら、日本大使館に行き非難を行うし、感謝したかったら、日本大使館に行って感謝の言葉を伝える。
また、日本が世界の舞台に、「実体」として姿を表すのは、例えば、
国連
のような国際会議の場となる。しかし、どうだろう。そこには、
だれ
がいるのか。外務省の官僚ではないか。つまり、日本とは、外務省の官僚だった、ということになる。しかし、彼らは毎日何をしているのだろう? 一体、何を考えているのだろう? そりゃあ、彼らは日本なんだから、私たち日本人と「同じ」ことを考えてるんじゃあ。...ないんですかね?

イラク戦争によって国連の役割が無視された中でこのような会議が開催されたことの意味は明白であり、そこで何が議論されるかも自明のことだった。各国が特に問題にしたのは、98年7月に規程が採択され、02年7月に発効し、そそてブッシュ政権が国連に関して最も強く批判していたと言うことができる国際刑事裁判所(ICC)のことだった。

日本は2003年と04年の両方にオブザーバーとして参加したが、批准どころか著名すらしていない日本は例外的な国だった。加えてその演説はさらに特異なものだった。03年には、「日本政府は国連の役割を極めて重視いている」としてその筆頭に国際的刑事裁判を挙げ、「日本は一貫してICCの設立を支持しており、規約の発効を歓迎する」と述べながら、「各国は、自らを法的拘束力のある合意や決定の対象とすることに躊躇しがち」で、「参加国の数が限られているのならば、単に理想を追うだけでは効果的な結果は得られない」と言い、「多くの国がICCを自分たちのものと見なすことが出来るようにすることが必要」と主張したのである(S/PV.4835)。03年9月当時で138カ国が著名、92カ国が批准していたICCを「参加国の数が限られている」と言い放った上で、ICCに反対する米国の要望に添うようにすることを求めたことになる。

ところが政府は国内に向けては異なる姿勢を見せた。国会では「我が国は一貫いて国際刑事裁判所の設立を支持して、その実現に努力してまいったわけでございますが、私はもう非常に誇るべきことだと思います」(杉浦正健・外務副大臣 参議院外交防衛委員会 2002年4月25日)などと繰り返し、ICC規程が発効した際にも「発効したことを心から歓迎する」「わが国は、ICCの設立を一貫して支持し、その実現に向けて努力してきており......設立に向けた作業に積極的に関与いてきている」とする川口外相の談話を発表した。批准していないことについては「国内法令との整合性について必要な検討を行っている」と説明された。もっともこれでは著名すらしていないことの説明にはなっていないが。

ICCに対する日本の態度も、分担金やイラク戦争などの問題と同様だった。これらの問題に反対の姿勢をとり、そのために工作を国連の内外で展開しながら、国内向けにはその問題に誠実に取り組んでいるかのような説明を行っていた。しかもそれが対米追随の結果だけではなく、日本の独自の姿勢が反映しており、それが官僚主導によってなされていた点でも。

先ほどから言っているように、外務省も一つのエージェントであって、彼らの行動原理には、彼らのオートノミーがある。
なぜ彼らが、国連の場で、「我々、日本はAの立場である」と言いながら、我々国民に向けては、「日本は、一貫して非Aの立場を貫徹してきました」と

を平気で言うのか。それは、つまりは、彼らが日本と
一致
していないから、ということになる。つまり、このケースで言えば、日本という言葉がターミノロジカルな意味しかなくなっているわけである。ここにあるのは、

  • 非Aの立場を主張:外務省 --> 国民
  • Aの立場を主張:外務省 --> 外国人

という関係「だけ」であって、ここに、「日本」などという幻想はない、ということになる。
こういったことは、もちろん、外務省に限らない。日本を支配していると言って間違いない、財務省も、彼らは彼らの行動原理で動いているのであって、それ以上でもそれ以下でもない。

両方とも、偽な命題であるが、その意味は、

こう考えてみると、なんと私は、当たり前のことを言っているのだろうか。おそらく、こういうことが、ルーマンの言う「縮約」ということなのかもしれない。間違いなく、「日本」という用語を使うことで、情報量は少なくなっている。情報の圧縮に成功している。コミュニケーヨンが効率的になっている。面倒な手続きを省略できている。
しかし、何度も言っているように、外務省が、日本でないように、私たちは、外務省の官僚ではない(少なくとも私は違う)。いやでも、このアナロジーには、無理がある。というか、さまざまな場面で、さまざまな誤解を生みそうな、曖昧表現だということである。
また、この関係こそ、宗教そのもの、宗教カテゴリーとも言えるのだろう。キリスト教的な、個人が唯一神を通して、
教会
を通して組織される、神学的な臭いを強烈に感じさせる。いや、「あらゆる」分野で、この問題はあまねく指摘できるはずであるし、いや、むしろ、
数学
においてこそ典型的に言えるのだろう。
19世紀から、この近代西欧文明とは、言ってみれば、「カントールの楽園」的な錯覚のことだったと言ってもいいのかもしれない。多くの人たちは、こういった
集合論
的な作法に妙に、「理解がいい」。しかし、公理的集合論は、実に、「人工的」であり、その公理体系は、まったく、自然な印象を受けない。そもそも、現在、「公認されている」一般的な数学を成立させる
ロジック
は、どこまで自然なのだろう。たとえば、直観主義的論理は、よく、カントの哲学との同型性が言われるが、そういった限界を「超える」現代数学
神の視点
はどこまで、その論理的安全性を保持できているのだろう...。
一体、私たちは、この、国家と国民との間の、実に長い間、戦わされてきた、

  • 神学論争

に、いったい、いつまで付き合わされるのだろうか。いつになったらナショナリズムという
茶番劇
に決着をつけられるのか。あとどういったリテラシーを我々は獲得しなければならないというのか。なぜ、識者はこういった素朴な庶民の疑問に、しらっと回答を用意してくれないのか、なぜ...。

日本の外交は国民に何を隠しているのか (集英社新書)

日本の外交は国民に何を隠しているのか (集英社新書)