田村理『投票方法と個人主義』

それにしても思うのは、なぜ、民主主義国は、
秘密投票
を採用しているのだろうか。なぜ、このことの理由を明確に示す人がいないのだろうか。

二〇〇二年五月のフランス大統領選挙第二回投票の直前、論争が起こった。第一回投票で社会党のジョスパン候補をはじめとした左翼候補が敗退し、第二回投票はシラク大統領と極右政党国民戦線のルペン党首との間で行われることとなった。左翼は、極右の台頭を阻止するためにシラク大統領に投票する以外の選択肢がなくなった。彼らは、その「不本意」を表明するために、投票の際に、洗濯ばさみで鼻をつまんだり、ゴム手袋をして投票するという運動を企てた。
内務省は、「この種の行動 initiatve は、投票作業を妨害しない限り、それを禁止するものはなにもない」としていた。しかし、憲法院は、次のような見解を表明した。

「一定の選挙人が、大統領選挙第二回投票の際に、これ見よがしに、さらには人を不快にするようなものを身につけて、自己の投票の意味を明らかにする意図を表明している。......
1 このような行動は、憲法第三条と選挙法典L五九条で定められた投票の秘密 secret du suffrage の原則に違反する。同法典L一一三条は、法律に対する故意による違反によって投票の秘密を害し、あるいは害そうとする者には、一五〇〇〇ユーロの罰金および一年以下の懲役ないしはそのどちらか一方の刑を定めている。......
さらに、問題とされている態度は投票の品位を害するものであり、本質的に投票所と周囲に対する混乱を来すものである。」

「投票の秘密」を保障するという憲法上の原則は、この事例が示すとおり、公権力による投票の検索を禁止ないし制限するだけでなく、あるいはそれ以上に、各投票者の他者に影響を与えるような行為を厳しく禁止する原則として定着してきている。日本国憲法第一五条四項も「すべての選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問わない」と定めている。

これは、非常に重要なことを言っている。私たち選挙民は、「投票の秘密」に対しては、言論の自由は「ない」んだ、ということなのである。
そんなばかな、と思われるかもしれない。自分が誰に投票したのかを言わなくてもいい権利はある、これが秘密投票と多くの人は思っている。違うのである。というか、それだけじゃないのである。
自分が誰に投票したのかを言ってはいけないのである。
特に、近年のソーシャル・メディアでの言論、を読んでいると、とても、考えられない気さえしてくる。
以下のように、やりたいって人も多いんじゃないだろうか。

「ドロワ・ド・ロム・セクションの市民は、第一次集会に集い、人及び市民の権利宣言と憲法の朗読をきいた。書紀は、激しい賞賛に何度も朗読を遮られた。朗読が終わると同時に、集会参加者一同は起立し、議場中にさらに大きな歓喜ん声が鳴り響いた。『共和国万歳、憲法万歳』。
憲法の承認は全会一致であった。しかしより厳密に手続きを行うために、集会は以下のように決定した。市民は自己の氏名を記録させ、各人は点呼に応えて演壇に登り、名前と住所を述べた上で自らの意思を宣言する。......」

というか、実際、つぶやいてますよね。

  • 今、選挙用紙もらって、箱の前なう。
  • 小泉首相に投票したなう。
  • 比例代表は、民主にしたなう。

どうも、こういう人たち(つまり、私たち全員)は、牢屋に入れてOKなう、らしいです。
それが、秘密投票。
こういうことを言うと、また、やっぱ、プライバシーっていらないんじゃねーの、って言い始める人が、さらに増えて、フォロワーうん万人アップになりそー、だなー。
(とにかく)これが「強い個人」(樋口陽一)である。
一般に、秘密投票は、なぜか、思想家の関心にならない。だれも、その理論的根拠を徹底して考えた人がいない。といいますが、大抵の場合、思想家たちは、秘密投票を
軽蔑
する。どうもそれが、インテリの定義のようです。たとえば、サルトルはどう言っているか。

「すべての選挙人は極めて多様な集団に所属している。しかし、投票箱が彼らを待ち受けているのは、そうした集団の一員としてではなくて市民としてである。学校や役所の一室に設置されるイゾロワール isoloir は、自らが構成員となっている集団に対して個人が犯す可能性のあるあらゆる裏切りの象徴である。イゾロワールは各人に言う。『誰も君をみていないよ。君自身以外に誰にも支配されないよ。君は隔離された状況 dans l'isolemnt で決断するだろうし、その後は君の決断を隠すことも嘘をつくこともできるだろう』。投票所に入ったすべての選挙人を相互に潜在的な裏切り者に変えるのにこれほど有効なものはない。不信は彼らを分かる距離を拡大する。もし私たちがアトム化 atomisation と闘おうとするならば、まずはそれを理解しなければならない。」

こんな感じである。ここには「弱い個人」への露骨な軽蔑がある。こんな感じなのである。ポストモダンからなにから、思想家と呼ばれている連中の言うことは、すべからく、「弱い個人」への罵詈雑言で埋め尽されている。つまり、弱いということは、卑怯者というだけではない。

であり

であり

なわけだ。弱い存在は、「自己責任」に基き、「淘汰」されてもらいましょう(簡単ですね。まず、秘密投票を廃止し、「裸の個人が国家と直接向き合う」ようにする。すると、自然に、「弱い個人」は、それに耐えることができずに、「自殺」する。ニュージャージー州の学生のように)。社会の重要な役割を担う、国家官僚の仕事は、我々、「強き憂国の士」にお任せ下さい。
なんで、プライバシーなんてものが「存在する」なんて思うわけ? オレが実際にプライバシーなし生活を、やってるのに、なんでお前だけ、そんなものがあると思ってんだよ。なんだよ、ずるいじゃねーか。許せねえ。嫉妬する。ルサンチマンたまるー。
オレが「さらしてる」んだ。お前も「さらせ」よ。ていうか、日本中、全員、「さらせ」よ。なんでおれだけー。フコーヘー(フコーダー、の間違い)。オレだけ「サラシモノ」なんてゼッテー許さねー。意地でも、日本中のプライバシーを破壊してやる。ざまーみろ。
こそこそ隠れて、悪口言いやがって。営業ボーガイなんだよ。邪魔だ消えろ。
こうして、日本プライバシー破壊活動が、まるで、KKKのように、夜な夜な、秘密のSNSで、プライバシー「さらしもの」血祭りの儀式が行われることになる(今では、SNSは、
フツーの若者
にとっては、ただのゲームをやるだけの場のように見えますけどね)。
噂の真相という雑誌が昔あったが、この雑誌のプライバシー方針は、当時としては、ある意味、明確であった。マスコミや電波芸人は、そのプライバシーを「使って」お金を稼いでいるんだから、その範囲で、そのプライバシーに紐付く社会的責任、言論の自由が生まれるだろう、ということであった。だから、政治家の女関係など、さまざまな猥談が「さらされた」。しかし、現代は、フェースブックの時代。もう、なにがなにだか、わけわかんなくなっているというのは、正直なところなのかもしれない(それが、雑誌「噂の真相」が復活しない理由の一つでもあったりて)。
(ちょっと話が脱線しましたが、)この点では、ルソーも同様であった。もちろん、間違いなく、この「弱い個人」を前提にした、秘密投票の歴史においては、ルソーが「社会契約論」で書いた、「(選挙における)集団結社の禁止」(自由じゃないよ)のアイデアが大きな影響を与えていることは間違いない。他方、彼も、秘密投票ではなく、原則的には、公開投票を評価しているわけだが、その言い方は少し微妙であった。

「この習わしは、各市民が正直で自分の票を公然と不正な意見や無価値な人物に与えるのを恥としていた間はよかった。しかし、人民が腐敗し、投票が売買されるようになると、秘密投票が適切になった。そうすれば、票を買う人物が不信の念を起こして買収を思いとどまり、そこで狡い人間は裏切り者にならなくてすむからであった。
私は、キケロがこの変更を非難し、共和国滅亡の原因の一部をここに求めているのを知っている。私は、こうした問題についてキケロの権威の持つ重要性を感じるが、彼の意見には同意できない。逆に私はこうした変更が十分でなかったために、国家の滅亡を早めたのだと考える。健康な人の摂生法が病人には適当でないように、腐敗した国民を健全な国民に適する法で治めようとしてはならないのである。」

つまり、理想は、公開投票なんだけど、大衆がポピュリストなんでね。庶民という、ポピュリズムが、政治をダメにし、国家存亡の危機に陥れ...。やっぱ、
官僚
だな。彼らだけが「信頼」できる。彼ら、頭もいいし、庶民とは大違い。庶民は、なにをするかわかんねーし、ばかだから、頭悪いから、おっかねー。
(だから、一般意志とは、正統性の問題だと言っていいのかもしれない。正統性と専門性は違う。庶民には、専門の煩雑なところまでトレースすることはできない。というか、そういうコストを払うことは現実的ではない。選挙で決定すべきこととは、大きな方向だけ、ということになる。だから、官僚などの専門家は、たしかに、細部においては、好きなことができる。彼らしか分からないのだから、彼らに、
あなたのためだから
と思ったことをやってもらうしかない。しかし、その大きな方向性は、国民の信託による、選挙という一般意志から、大きく外れることはできない。そうなったら、その政策の正統性があやしくなり、国民の支持を失う。こういう関係なのだろう。)
どうも、なぜ、過去の思想家たちが、秘密投票に対し、露骨に侮蔑の感情を隠さなかったのか。ポピュリズムに耐えられなかった、ということなんでしょーねー。
そうやって、公開投票しかねーだろ、となるんだけど、ルソーに言わせれば、そんなに現実は甘くないぜ。この現代社会は、
腐敗と堕落
の、世紀末。人間は悪徳こそ「功利的」理性と強弁し、もう、だれ一人、だれかを信じる人はいなくなった。どうだろう。こういう時代に、どうして、公開投票などという、
善意の信頼システム
が、うまく回ろうか。いや回るわけがない。そんな絶望にうちひしがれることしかできない、我々人類が、見つけた一筋の光、もしかしたら、この方向にだけは、なにか「答え」があるのかもしれない。それが、
秘密投票
である。ここにおいて、始めて、人々は、さまざまな「中間集団」からも
国家
からも自由になる。人々は、一年、365日。国家による、個人の拉致監禁(つまり、検察による不当逮捕)に、おびえて生きなければならない。一日として、なんの心配もすることなく、ぐっすり、24時間眠れることはない。ところが、それが、
一瞬
だけあるのである。それが、選挙で投票するときである。その一瞬だけ、我々は「自由」になる。なぜなら、「秘密投票」だから。
選挙制度、つまり、多くの意見、の主張のアリーナ化が、
みんなの意見
として、強力な正統性の調達となることについては、以前もこのブログで、

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

を紹介しました。基本的に私もこの方向で考えている。)
たとえば、もし、秘密投票でなく、公開投票だったら、と考えてみましょう。その場合も、もし、投票というのが、その一回ならいいのです。その一回が、歴史の終わり、人類滅亡とイエス復活の、最後のその日の決定だとするなら、もう、その後に選挙はないのだから、やりたいようにやれる。ところが、
その次がある
としましょう。すると、俄然、話が違ってきます。今回の投票行動は、他者に、次のその人の投票行動に影響すると考えられますので、彼らは、その公開された選択から必然的に招来される、国家や中間集団の圧力を、以降、受け続けることになる。
ゲームの前提条件が変わった、ということになります。闇討ち(辻斬り)ゲームを起動させるトリガーになってしまう。
しかし、それが、今、秘密投票が民主化デフォルトになっている、歴史的な理由なのだろうか。掲題の本は、その部分について、非常に細かな、フランス革命史研究がされています。ざっとですけど読んだ印象は、なにかこれといった「絶対的な」理由があったようには思えない、んですね。上記で引用した、みんなが壇上に一人ずつ上がって宣言することは「時間がかかる」から、現実的じゃない。じゃあ、秘密投票でいいんじゃないかな。こんな感じにも読める。
ルソーの上記の引用の部分は、さまざまな「理想」が、人間への「非現実的な」過度の期待、信頼、を前提にしているように思える。つまり、人間とは、そんなに立派じゃない。それがデフォルトだということを「システム」化できていない。ルソーは「人民腐敗」を、キリスト教的歴史法則(アダムとイブの、善なる意志から、人間の堕落が漸近的に進み、歴史の終わり、ノアの方舟、に向かう)、進歩史観の過程の「方向」の問題と考えてしまう。しかし、それは「欺瞞」である。「人民腐敗」がデフォルトだということに、いつまでたっても気付かない。むしろ、人民腐敗の「中」で、実践的に各自が理想を模索するしかない、という当然のことさえ気付かない(そんなものが制度で保障されるわけないだろ)。
それは、人々の電子投票への不信感とも重なっているように思える。ブッシュジュニアクリントンとの大統領選において、何度も何度も、紙にボールペンかなにかで描かれた丸の数を数える。ばかじゃない? 文明の利器も知らないの? そんなの、インターネットでボタン一個で終わりじゃねーか。しかし、検察がフロッピーを書きかえ、庶民を牢屋に入れる時代に、一体だれが、大手マスコミが流す、世論調査を「文言通り」に受け取る人がいるだろか。むしろ、現代こそ「大衆扇動」の時代、
懐疑主義の時代の始まり
と考えるべきなのだろう。

デヴェリテはさらに「一般意思が支配すればするほど、人々は全員一致に近づく。まったく反対の場合にも、つまり、隷属に陥れられた市民が自由も意思ももはや持たない時にも全員一致がみられる。そこでは、恐怖とへつらいが投票を喝采にかえてしまう」とルソーの『社会契約論』を引用しながら公開投票による全員一致を批判した。

大事なことは、一般意思と、「恐怖とへつらい」が「方法的に」区別がつかないことなのだろう。それもこれも、すべて、個人が「弱い」のが悪いってことになるんですかね...。

投票方法と個人主義―フランス革命にみる「投票の秘密」の本質

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