ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論』

著者による講演集。
9・11、は、私も社会人で仕事をやってた最中で、仕事帰りに、家で、テレビをつけて、ニュースを見たのを覚えている。
テロ。
しかし、テロについては、日本はそれ以前に経験していた。
オウム真理教による、地下鉄サリン事件、である。このテロについては、新々宗教ということで、サブカルチャーと関連して、さまざまに、当時、議論された(最近では、アキバの歩行者天国に車でつっこみ、次々とサバイバルナイフで切りつけた、犯人をテロリストとのアナロジーで語った識者もいた)。
オウムの事件は、今から考えると、あれは「失敗」であったから、あの程度の被害で済んだのだろうが、それにしても、
甚大な被害
であった。彼らが何を考えてあのようなことをやったのか。というか、彼らが考えていたことを「字義通り」に行っているとしたなら、被害の範囲が想定可能なレベルの
サリン
以上の武器を使っていたなら、一体、どんなセカイになっていたのか。ちょっと想像できないような結末をどうしても考えさせられてしまう。
私は、あれ以来、日本の景気が低迷している、という仮説を立ててみたくなる誘惑にかられる。あの日以来、日本には、
信頼の体系
が回復していない。特に、オウムという、
日本国民
があのようなテロをやったということが、根本的なこの国への信頼を失墜させたように思える。人々は、そういったテロの恐怖に対して、戦い、立ち向かい、自分たちの権利を守っていこう、という元気より、一刻も早く、この、「恐い」国から出て行きたい、ユートピアに逃げたい、という潜在意識から逃れられなくなっているように思える。
日本人が恐い。
日本人を殺す日本人。
あの日の記憶から、今だに立ち直れない。
それは、例えば、今年公開された、映画「告白」において、勉強のできる理科好きの子供を、先生の、かわいい、幼い女の子の子供を、殺す、非人道的存在として描く。小型の爆弾を作り、卒業式の最中の体育館を自分もろとも破壊しようとする。
幼い、まだ、やっとこれから、人格が生まれるような子供を、こういった
人格破綻者
として描こうとする原作者と、こんな原作をわざわざ映画にする監督。むしろ、こういった大人たちの、人間不信(子供不信)こそが、オウムに象徴されるような、日本の暴力、いじめ社会としての日本人不信、の底なし感を嫌でも思わさせられる。
こんなことばかり考えてる大人に、理科なんか勉強すんなと言われて、どうやったら、ノーベル賞がとれるんでしょうね。
文科系の知識人による、理科系は人格異常者というプロパガンダが、もう、ここ何年かの日本文化は、そればっかり、とも言える。つまり、勉強する子供は、頭がどこかおかしい、と言いたいんですね。東大でオウムに入信した奴らのようになるな、ということは、東大なんか入るな、と。
経済もそうですよね。がんばって、なにか発明して、ひともうけしてやろうと、勉強を志す子供を、人格異常者扱いですよ。もう、オウムに片足つっこんだようなものだ、って。
勉強して、武器を身に付けて、このセカイに、戦いに乗り込もうっていう、ベンチャー精神をもった若者がいなくなってしまった。みんな、
「サラリーマン」という官僚
であること、自分でなにかをやろうとせず(なにかをやろう、イコール、オウムのような危険人物、ですからね)、他人の命令にただただ従って(自分で判断することで自分の責任にされることを嫌がる)、それを完璧に「こなす」ことを、むしろ、誇るような、妙な、
奴隷根性
が、若者の「個性」になってしまった。
そういった意味では、9・11を、日本は、免疫をもって、見ていた。もちろん、こっちは、あまりにテロが成功しすぎていた、という違いはあったが。ワールド・トレード・センター・ビルとは、アメリカのビジネスの中心のような、象徴的なビルであった。アメリカの知性が多く、そこで仕事をしていた。そして、なんとテロの飛行機は、ペンタゴンに突撃してるんですね。被害はほぼなかったようですが、そういう問題じゃあないでしょう。
しかし、とうのアメリカにとって、その反動はすさまじいものであった。

しかしそれでもなお統治のための議論によって、G・オーウェルの監視国家は超国家的に確立されていきます。ワシントンでは、「圧倒的な脅威に対して、常に人々を動員しなくてはいけない。軍事予算を限りなく計上し、民間人の自由を制限し、それに反対する者は『非国民』であると脅かし、除け者にすべきことである」という主張がなされています。近代を擁護するために、近代の根本的価値を廃棄するようなことを行なっているコスモポリタン的な専制政治の前兆から人類を守るのは、いったい誰なのでしょうか。

(なにせ、なんの関係もない、イラク侵略戦争を始めるまでになるのですから、そのいきさつは、驚きを通りこして、あきれさせるものであったわけだが。)
この問題が語られるとき、なにが問題にされたのだったか。それは、信頼の問題というより、
終末論
であったように思う。多くの文系危機管理学者たちが言ったことは、テロが、このセカイを回復不可能な結末に導く可能性だったように思われる。それは、ウルリッヒ・ベックの「危険社会」が問題にした、チェルノブイリ原発事故のような、ほとんど回復不可能に思えるような、この日本を日本と成り立たせているその、基盤になるものの、破壊をもたらすような、
民事的な事件
不可逆的な事件を想定するとは、どういうことを意味しているのかを問うことだったわけですね。つまり、彼らは、
それを起こしてはならない → それを防ぐためには「あらゆる」手段が正当化される
という、国家の「G・オーウェルの監視国家」の正当化の主張の論陣をはったわけですね。国家は「あらゆる」手段を使って、個人の自由を奪うことは正当化される。
背に腹はかえられない。命あっての物種。

テロ攻撃もまたひとつの「犯罪」ですが、決して「国内の司法」にとっての犯罪ではありません。かといって、その破壊ぶりが軍事行為といってもいいような規模に達する犯行に対しては、「警察」という概念や制度もふさわしくありません。その上、警察は、恐れるものなど何もないテロリスト幹部を駆逐することなどといていできないのです。その結果、「災厄から民間人を保護する」といったことの意義は失われてしまいます。歴史的に古ぼけてしまっているにもかかわらず、わたしたちの思考や行為をなお支配し続けている諸概念のなかで、わたしたちは生き、思考し、行為しているのです。それでも軍隊が古い概念にとらわれて、例えば全面空爆をするというような従来の手段を取るならば、それは反生産的な行為となってしまう恐れがあります。

軍隊と市民社会との間のこれまでの壁が取り壊されるだけではなく、罪のない人と罪のある人との間の壁、容疑者と容疑のない人との間の壁もなくなってしまうでしょう。これまで法がこれらのことを、はっきりと峻別してきました。しかし、戦争の個人化が差し迫っているときは、市民は自分が危険な人物ではないことを証明することが必要になるでしょう。というのも、この条件下では最後には、誰もが何ら具体的な容疑がないにもかわらず、「治安のために」管理されることを甘受しなくてはいけないようになります。戦争の個人化は、最終的には民主主義の死をもたらすことになります。

著者の言う、危険社会は、
個人の国家化 = 戦争の個人化
をもたらす、という考えになる。そこにおいて著者は、「警察」は時代遅れ、と整理する。これが、著者の言う、「危険社会」である。チェルノブイリソ連を、徹底的に破壊したように、世界は、「危険」の名の下に、ひれふす。近代文明が、つちかってきた、あらゆる、価値、文化的理想は、「危険」の前では、ただただ無力であることを、思い知らされることしかできない...。
テクノロジーは、既存の秩序を、絶えず、破壊し、人類社会の前提条件を壊し続ける。そのたびに、科学屋は、白い目で見られ、人類の敵とののしられる...。
おそらく、そうなのであろう。そこには、一定の真理がある。しかし、他方において、上記のような、危険社会の認識は、それほどの蓋然性を主張できるのか、と疑ってみることは、一定の意味があるはずである。
たとえば、だれもが信じられないのは、9・11以前のアメリカの航空会社のセキュリティが、信じられないレベルのザルだったことなんですね。

アメリカは、公共の安全の代償を払うのをいやがる徹底した新自由主義国家になっています。アメリカがテロ攻撃の目標であるということは、はじめからわかっていました。にもかかわらず、アメリカでは航空機の安全は民営化され、非常にフレキシブルなパート労働者による「奇跡的な就業の創出」によって実現されました。しかし、彼らの賃金は、ファストフード店の従業員以下、自給約六ドルというものなのでう。国内の民間人の安全を守るシステムのこの監視ポジションの中枢が、わずか数時間しか「職業訓練」を受けず、在職期間は平均して六か月にも達しない人々によって占められています。

なんで、こんなアホみたいな話になっていたのか。ようするに、「企業努力」ってやつである。自由競争が、「最適な」均衡を生み出す。マネタリストのおつむには、社員の給料をけちって、自分の懐を膨らませることしか考えていない。競争ユートピア。あらゆる社会問題は、競争が「解決」する。だってさ。
同じようなことは、オウムがサリンの開発をしていたことを、間違いなく、日本の警察は知っていながら、様子見をしていた、という、呆れた事実なわけですね。
原発だって、これがいかに危険なしろものであるかは、ちょっと勉強していれば、だれでも知っているはずなのに、チェルノブイリが起きてやっと、「危険社会」だとかなんだとか、寝惚けたことを言っている。
むしろそこには、常識で考えれば、ありえないような、
サラリーマン = 官僚
たちの、思考停止がある。
たとえば、掲題の著者も言うように、「戦争の個人化」は、世界各国が、テロ対策のグローバル化を実現しなければならない(一国で実現できないわけで)、というネットワークの構築を「必然的に」招来する。いかに、敵対する国々だろうと、この一点においては、協力しなければならない(近年の、環境問題でもそうですね)。
あらゆる国家が、敵対を「棚上げ」して、協力し合う世界が、
必然的に
もたらされる事態を生み出している(明らかに、新しいステージに移行している)。
言葉は悪いが、上記のテロリストたちが「この程度」の破壊行為にとどまらざるをえなかったことには、逆に必然的な意味を感じなくもない。(テクノロジーの限界もあるが、それ以前に)その正当性がもしないなら、どんな革命(破壊)も、賛同を得ることはない。そういう意味では、どんなに掲題の著者が「警察」を嘲笑しようと、これ以外の暴力はありえない。掲題の著者が言うように「全面空爆」といった、
軍隊による人殺し = 戦争
によるカタルシスは(たとえ、どんなに国際社会が、国家による戦争の権利を認めたとても)、憎しみの連鎖しか生まないし、なんの
正統性
も生むはずがない(今だに、軍備増強と、戦争へのロマンティシズムを語る学者が後をたたないのは、なんとかならないですかね...)。むしろ危険なのは、こういった、ヒステリックに恐怖をあおる学者たち(自分たちの飯の種にもなってるのだろう)の脅しの方であって、「近代を擁護するために、近代の根本的価値を廃棄」させようとする、他者支配の当否こそ問われているのではないか...。

世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫)

世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫)