河村健吉『影の銀行』

人々は、実際のところ、「どのように」生きているのだろうか。
ずいぶんと、アバウトな問題設定であるが、こう考えてみよう。私たちが生きるということは、衣食住において、必要条件を満たすことが前提となる。その上で、さまざまな、個人的な活動が可能となる。衣食住が成り立つということは、ロビンソン・クルーソーなら、「自ら生み出す」ことを意味しているのだが、この資本主義社会においては、それらを取得するための「対価」を自分で払うということになる。つまり、お金である。
つまり、この問題は、一点突破。「お金をどのようにゲットするか」の問題へと、ステージ変更される。
お金をゲットするということは、たんに、手元にお金があることを意味しない。私たちは時間的存在である。一時的に、手元に、お金があることは、たんなる「現象」や「結果」でしかない。上記の命題が意味することは、私たちが、この世に生を受けてから、死ぬ直前まで、上記の命題が成立する、ということであり、その

に出ることはできない、ことを意味する。
こんな当たり前のことを、なに今さら言っているんだ、と思うかもしれない。しかし、この命題の重要なことは、この法則が「あまねく」人類、全員に適用される、ことである。多くの人たちは、上記のような問題を、「そういう」人たちにだけ、適用して、なにかを考えたつもりになっている。しかし、大事なことは、べつにこのことは、「そういう」人たちだけでない、「すべて」の人に適用されなければいけない、ということで、求められているのは、そういった、
ユニバーサル
な理論だということなのだろう。
まず、自給自足を営んでいた、ロビンソン・クルーソーが、その生活を捨て、我々、資本主義社会に降臨してきた状況を考えてみよう。彼がまず考えることは何だろうか。当然、
当座の資金を確保すること
になる。それをどうやって確保するかは、まず、彼が考えることだろう。しかし、このこと自体は重要ではない。これは、なんにせよ、やらなければいけないことであって、これさえできていないなら、彼は以前の自給自足の生活の外に出てはいけなかったことを意味するしかない。問題は、これからである。どうやって、
死ぬ直前まで、お金を確保するか。
では、これを一般的な企業に応用してみよう。企業が企業活動をするためには、事業計画が重要である。何人、人を雇うか、は、どれくらいに事業を広げるか、つまり、何人が必要か、に関係するわけだが、それも、どれくらいの収益が望めるかに依存する。これこれ、こういうふうにやれば、だいたい、一年で、どれくらいの商品が売れて、どれくらい収入が入ってくる...。
しかし、これは机上の空論である。実際のこの予想が当たるのかどうか、もあるが、それ以上に、これを、
やれるのか
が、なによりも重要である。商品が売れるようになるためには、そのための「準備」がかかる。しかし、その「準備」の間、社員に、まだ、収入がないから、給料を払えない、というわけにはいかないだろう。彼らは、ただの、「従業員」、つまり、
サラリーマン = 官僚
であって、彼らは、彼らの官僚的目的達成能力によってのみ、評価されるべき存在でしかない。彼らに、この事業とともに、心中してくれと頼むことは、現実的でない(このポイントは、彼らは、経営者でない、つまり、この会社の所有者でない、ということである。彼らには、権利もないかわりに、義務もない。彼らが、どんなに、この会社のために尽してくれたことで、この会社が青天井の収入を得ることに成功しようとも、経営者は従業員に、決まった給料を払えば、必要十分である。なぜなら、そういう
関係
だからである。官僚という、一つの、法律によって、定義された、「従業員」という存在、だということである)。
売るための商品を用意するまでだけで、多くのお金を必要とする。さらにそこから、それらの商品が実際に、人口に膾炙するか、それはまた別だろう。その販促活動には、さらなる経費が求められるだろう。
つまり、多くの場合に適用される、法則がある。

  • お金を得るためには、お金を消費しなければならない。

お金を消費してしまえば、もちろん、それは活動資金が無くなるということで、昔の自給自足生活に戻らなければならないことを意味するのだから、お金を消費してはならない、ということになる。しかし、それでは、お金を得ることはできない。
一種の、このパラドックスを解決するのが、
お金を借りる
という行為になる。人間は時間的な存在である。今、お金がない、ということは、未来において、お金がない、ことと同値ではない。
あるAさんは、あるBさんに、お金貸して、と言ったら、いいよ。これで、Aさんは、社員に給料を払えるし、商品の販促活動に、もっとお金をかけることができ、販路の拡大に成功するかもしれない。
さて、ひとまずの疑問は、なぜ、Bさんは、Aさんにお金を貸したのか、になるだろう。お金を貸すということは、利子付きで、後で、Bさんは、Aさんに、返してもらう、という行為を義務として、契約することを意味していた。そう考えれば、Bさんにとっては、その利子の額によっては、割に合う契約だった、と思うかもしれない。しかし、ここで重要なことは、契約とは「ただの」人間間の約束ということであり、自然法則でもなんでもない、ということである。約束は破られるためにある。このことの意味は、未来は一つではない、ということである。
Bさんは、Aさんからお金を返してもらえるかもしれない。また、一生、逃げられるかもしれない。また、Aさんの事業が失敗して、そもそも、一生、Aさんに返済能力がないまま終わるかもしれない。つまり、
リスク
がある、ということになる。しかし、そんなことでは、Bさんは困ります。そこで、さまざまな、仕組みを作ります。Aさんに、担保を用意させたり、Aさんの与信能力を計算したり...。しかし、大事なことは、これらは、本質的な問題ではないことです。条件を厳しくすれば、AさんはBさんにお金を借りないでしょうし、条件が緩ければ、リスクから逃れることはできない。
早い話、リスクがないなら、もう、自然現象と呼んでいいだろう。リスクがあるから、わざわざ「契約」をするんですね。
そもそも、なぜ、ロビンソン・クルーソーは、自給自足を捨てて、この資本主義世界に侵食してきたのか。それは、一つの選択であったのだろうが、いずれにしろ、便利だからだろう。しかし、上記に指摘したように、それは、「便利」獲得の「リスク」からのがれられることを意味していない。
便利がリスクの上にあることは、重大な問題と言えるだろう。なぜなら、自給自足を捨てることは、たしかに、便利な生活を手にすることができ、ありがたい恩恵を享受できたのだとしても、それはつまりは、リスクの上の話だからである。人によっては、失敗続きのため、まったく、収入獲得に成功せず、地べたをはいずりまわる毎日が待っているかもしれない。そしてそれは、今のような、不況の状況においては、そのリスクは大きくなるだろう。つまり、そういう人の割合の増加は避けられない(これは、個人の才覚の問題ではない)。
上記の理由からも、資本主義を「まわす」には、いかに「お金を貸す」というポジションが重要であるかが分かるだろう。ここが非常に大事だということです。
資本主義社会においては、「金貸し」ポジションが、「社会的に」腐ると、その社会は滅ぶ。
例えば、池尾さんは、以下の入門書で、現代金融の何が問題なのかを端的に指摘する。

それゆえ、市場経済であることが問題なのではなく、その質が低いことが問題なのだと理解すべきである。そして、市場経済の質を高めることを目指すべきである。この意味で、日本経済が真に成熟した市場経済への脱皮を図っていくためにも、制度整備の持続的な努力が必要である。金融面でのこうした努力は、一般には「金融制度改革」とか「金融システム改革」とは呼ばれている。

現代の金融入門 [新版] (ちくま新書)

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つまり、基本的に、池尾さんの問題意識は、今の金融の「さらなる」前進と言えるだろう。この不完全な現代金融の「完成」こそ目指すべきであって、後退はありえない...。
実際、この新書の、最終章(第7章 金融規制監督)は、近年のサブプライムローン問題に対しての、専門家の大変に質の高い反応のように思える。

預金者がセーフティネットの保護下にある場合とそうでない場合では、預金者の銀行に対する資金供給の姿勢は当然に異なることになる。完全なセーフティネットが提供れているならば、預金者は、預金の払い戻しが受けられないかもしれないというリスク(銀行の債務不履行リスク)から免疫化されることになり、銀行の経営状態に対して無関心になるという傾向が生まれる。
同じ事態を銀行の側からみると、セーフティネットのおかげで銀行は、本来は債務不履行リスクを伴う負債である預金に、安全利子率(債務不履行のリスクがないとしたときの利子率)さえ支払えばよくなるということである。セーフティネットが提供されていなければ、預金者は預け先の銀行の債務不履行リスクの程度に応じて上乗せの金利(リスク・プレミアム)を要求するか、あまりに危険な先には預けようとしなくなるはずである。
要するに、セーフティネットが存在すると、銀行はそうした預金者による選別を受けなくても済むようになる。この意味で、セーフティネットはあくまでも直接には預金者の保護を意図したものであって、銀行の保護を意図していないものであるとしても、結果としては、その存在のゆえに上乗せ金利を支払わなくてもよくなるというかたちで、銀行に利益が帰着することになる(その代わり、銀行は保険料を払う必要がある)。
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私たちには、福祉とか、愛情とか、人助けとか、そういった行為を「文字通り」とらえがちである。しかし、問題は、それを何によって「表象」しようとしているか、ではない。問題は、最初から最後まで、その「定義」であり「定理」である。
セーフティネットは、たしかに、リテラルには、だれだって、必要ということに賛成する。しかし、それを、ひとたび、消費者の預金の保護、と呼びかえたところで、その意味は、たんに、それだけでなくなる。国家が国民に福祉を提供する、となれば、当然、国民は国家の足元を見て行動してくる。それは、いい悪いの問題ではなく、当然の法則だということである。

しかしながら、金融資本市場での取引では、取引者間に情報・知識や交渉力といった面で大きな格差が存在している場合を無視できない。例えば、業として金融商品の取引を行っている金融機関とその顧客である個人投資家といった場合を考えると、情報の他の面で前者が優位にあり、後者が劣位にあると考えられる。この種の格差がみられる場合には、優位者(すなわち、業者)により強い配慮を義務づける必要がある。
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また、適合性原則とは、そもそも顧客にふさわしい金融商品しか販売してはならないということである。すなわち、所得や資産の少ない者に対して、きわめて巨額の損失を被る可能性のあるリスクの大きな投資商品を販売するとか、金融の知識が乏しい者に対して、きわめて仕組みが複雑で専門家でも内容を十分理解することが困難であるような投資商品を販売するとかいったことは、適合性原則に違反することになる。
さらに、顧客側が何度も断っているのにしつこく勧誘行為を繰り返すとか、金融商品の有利な面だけを記載し、不利な点は記載しない(あるいは、読めないような小さな活字で記載する)といった広告を出すことが、不公正であるのはいうまでもないであろう。
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金融には、まだまだ、問題がある。しかし、人々は、その問題「の中」で実際に生きているわけである。その問題を、いいわけにできるわけもなく。ということはどういうことか。著者のこの問題提起は、逆にこの問題への、対抗策がないという事実において、金融の自由化そのものへの、疑念を呼び起こさないだろうか。
池尾さんの「むしろ必要なのは、さらなる現代金融の徹底である」という命題は、そもそも日本の金融史がどのようなものだったのか、の歴史的捉え返しを要求する。つまり、そこからしか、その正当性の調達はできないから、である。
掲題の新書においては、その日本の金融史の中では、むいろ反証こそ多いのではないか、という分析になる。つまり、「影の銀行」問題、である。
銀行とは、以前に書いたように、信用創造機能をもつ、著しく、公共性を持った機関である。事実、戦後の貧しかったこの国において、近年まで、企業は、どこでも銀行から、大量の借金をしていた。つまり、銀行のお金によって、銀行が、日本の企業から、お金貸して、と言われて、いいよ、と答えてくれたから、日本の戦後復興は存在したわけである。
(石油危機や金本位制の廃止など、いろいろあるが)その一つのターニングポイントは、間違いなく、バブル崩壊であろう。
そして、その大きなブレーキとなったものとして、BIS規制があった。88年に出されたその、国際ルールが、92年の日本での本格運用が言われていた、ちょうどバブルまっただなかだったわけですね...。

大蔵省は90年3月27日に、金融機関の土地融資の総量規制を示達した。銀行の不動産融資の伸びは、融資総額の伸びを上回ってはならないというものだが、これにより不動産会社への新規融資はストップした。また、総量規制は、不動産業、建設業、ノンバンク(住専含む)に対する融資の実態報告を求めた(三業種規制)が、農協系金融機関は対象外とされた。このため、農協系金融機関が住専への融資を急増させ、後に不良債権になった。
多くの銀行は、内部規準で不動産の担保限度額を時価の6〜7割と規定している。バブル期は不動産が異常に上昇し、銀行融資の不足分はノンバンクが貸し出した。不動産が買値より上がらないと借入金は返済できないが(これはサブプライム・ローンと同じ理屈である)、バブル期はそういう弱気な意見は無視された。銀行が直接貸すのは危険が大きい場合には、銀行はノンバンクに必要額を貸しそれをノンバンクが不動産業者に融資した(迂回融資)。

ここで、注目されるのは、銀行そのものには、「内部規制」があったことである。以前から言っているように、信用創造機能をもつ銀行は、国の規制下にある存在である。その銀行が、こうやってバブルをひきおこしていく過程は、いわば、「影の銀行」的な金融商品に、銀行の預金がシフトしていく過程そのものだったと言えるだろう。

1982年1月、中国国際信託投資公司は、日本で円建私募債を発行した。これは中国が日本の証券市場をはじめて活用した出来事だったが、同公司はもうひとつはじめてのことを試みた。調達資金100億円のうち70億円を期間一ヶ月の現先で運用したのだ。
現先とは買い戻し条件付きの債券売買である(現物売りの先物買いという意味)。債券売買を利用して売り手は資金を調達し、買い手は資金を運用する。買い戻し条件の期間が借入(運用)期間である。現先取引は自然発生的に生まれ、国債の大量発行とともに75年以降に急成長した。

現先の資金は銀行から流出した預金だった。規制金利(預金)から自由金利(現先)へ資金が流出することをディスインターメディエーション(disintermediation、金融仲介の否定という意味)という。現先市場は規制された金融市場の外に生まれた、はじめての影の銀行だった。

中国ファンドは債券に運用する個人向けの投資信託だ。71年にアメリカで誕生したMMF(マネー・マーケット・ファンド)をモデルに、80年1月に発売された。銀行は預金の流出を懸念し中国ファンドに反対した。

こういった金融商品は、それまでの銀行の経営を一変させた。金利の設定や手数料は、銀行にとって、将来の収入が「計算可能」になることを意味する。確実に、もうけが計算できる、銀行に今までなかった収入口となり、拡大の一途をとげていったわけであり、その成れの果てが、バブルであったと言えるだろう。
ここで、大事なポイントは、影の銀行、の「影」である所以であろう。バブルの時代、銀行は、自らに自己規制を「持って」いながら、いとも簡単に、その自己規制を、確信犯的にすりぬける。つまり、
ノンバンク
である。ノンバンクこそ、バブル期において、銀行と「共犯」的に爆発的成長をとげ、バブルとともに、衰退した、時代的存在だったと言えるだろう。影の銀行とは、言いえて妙な存在である(以下はアメリカの例であるが、影の銀行の定義)。

金融業務を担いながら、国家の監視の外にいる。彼らは、いったい「いくら」もうけたのか。どうやってもうけたのか。しかし、それは誰にも分からない。銀行と違い公開する義務は一切ない(これは、近年話題になった、ヘッジファンドも変わらない)。
それにしても、バブル崩壊での日本の銀行が、いかにして借金を国に丸投げしたか、その見苦しさは、現在まで続く日本人の日本の銀行、日本の政府への、変わらない不信感となって今まで続いているのが、この間の日本経済の低迷の実体であるのだろうが、もう一つの、日本の
堕落
こそ、以下にあるのだろう。

注目すべきは、貿易・投資による外需獲得が少数企業に集中していることだ。経済産業省によると、直接輸出額上位10社の輸出額が輸出総額に占める割合は29・3%で、上位30社は44・2%である(企業活動基本調査の個票を使った分析)。海外投融資残高の上位10社も28・1%と集中度が高い(06年)。このように貿易と海外投融資は、ごく一部の大企業に集中している。『通商白書』は企業名を公表していないが、05年度の輸出企業上位10社は、トヨタ自動車日産自動車本田技研工業ソニー松下電器産業、キャノン、東芝マツダ日立製作所三菱重工業で、輸出総額に占める上位10社の割合は33・7%である。
国内の雇用拡大のために自国本位の政策を採り、他国に失業などの負担を転嫁する政策は「近隣窮乏化政策」という。具体的には、為替相場切り下げ、輸入制限(関税引き上げ)、輸出補助金などの輸出促進策である。輸出企業はコスト削減のため正規雇用非正規雇用に切り替えたから、この政策は近隣窮乏化政策ならぬ「自国民窮乏化政策」ではないか。

これは、ある意味、今の「あらゆる」先進工業国の姿だと言えるのだろう。自国を代表する、独占輸出企業の「優遇」こそが、世界支配のベストツール。しかし、驚くべきは、日本はこの10社によって支配されている、ということである。この10社の意向を無視して、日本の政治が動くことはない。

レーニンは『帝国主義論』で、資本の寄生性と腐朽について論じた。20世紀のはじめイギリスの貿易から得た収入は年間1800万ポンドだったが、海外投資された資本からの収益は9000万〜1億ポンドあった。レーニンはこう書いている。「金利生活者の収入が、世界最大の『商業』国の外国貿易からの収入の、5倍も上回っている! これが帝国主義帝国主義的寄生性の本質である」(『帝国主義論』)。
現代は『帝国主義論』が書かれた1916年とは違うけれど、日本の貿易と投資の状況は、わが国が「金利生活者国家」になるのではと疑わざるを得ない。戦後の日本は産業資本主義を中軸に、貧しい住宅や食料事情に耐えながら高度成長を実現した。労働者の生活は豊かになったけれど、バブル後の長期停滞を経て一握りの大企業が利益をひとりじめする経済システムが出現した。

それにしても、たったの10社とはすごい。これだけ日本には、多くの会社があるはずなのに。しかし、よく考えてみると、そんなものなのかもしれない。日本はこれだけ広いのに、政治は、東京一極集中。霞が関の政府が、この国の多くの会社を操作できると思うことの方がどうかしているだろう。彼らが、この10社だけ、どうかすれば、「すべて」解決できると思ってやらないと、やってられない、ということなのだろう。
韓国は、言ってみれば、サムソン帝国ですし、国家と企業の関係とは、そんなものなのかもしれない。
しかし、その結果が、「金利生活」国家とレーニンに皮肉られる姿ということになる。一握りの人たちが日本の富を独占するシステムの完成...。
どうだろう。私たちが求めていたセカイとは、こういうものだったのだろうか。

2009年4月にロンドンで、日米欧に新興国を加えた20カ国・地域(G20)首脳会合(金融サミット)が開催された。金融サミットでは世界経済の成長回復に向けた財政出動や金融規制・監督の見直しを討議した。コミュニケは、金融セクターと金融規制・監督の失敗がサブプライム危機の根本原因であり、強力で整合的な監督・規制の枠組みの構築が必要であると提起した。

金融サミットの付属文書「金融システムの強化に関する宣言(G20)」は、9項目あり、規制対象に「影の銀行」とヘッジファンドがはじめて加わった。

このように、近年、その金融の見直しの論議は始まってはいるが、多くの抵抗にあい、なかなか進んでいないというのが現状だろう。
バブル期での国家による、銀行救済、と称しての、大量の税金投入は、あまりに象徴的であった。あれで、多くの人が得心したのは、国家は、あまりに大きいと潰せないが、小さければ小さいほど、残酷にペチャッて潰すんだな、ということであった。こういった印象は、モラルハザードをもたらす。
そろそろ、最初の思考実験に戻って考えたい。こういった金融の流れは、つまりは、ある程度の規模になる事業や会社にとっては、必要十分な話であったと思う。そこにおいては、ほぼ語り尽しているように思う。
しかし、それでは十分でない。私は「すべて」の人にとって、上記の資本主義の法則から免れることはできない、ことを強調した。言うまでもなく、近年のダウン・サイジングは、企業が従業員を不要にしていく過程であった。もうかる企業は、上記の10社くらいとなり、個人はさらに、「格差」を結果するようになる。
この前、NHK教育でやっていた、ETV特集「”小さな金融”が世界を変える〜アメリカ発 元銀行マンの挑戦〜」は、なかなか示唆的に思えた。
エルサルバドルは、国の富の多くを、アメリカへの出稼ぎに依存している。しかし、それでは国内経済は活性化しない。さらに、国内の荒廃をもたらす。ある意味、これは、未来の日本の姿と言えなくもない。問題は、こういった状態から、どのように個人を、産業化し、国内経済を活性化させるか。
番組では、元ワシントンの銀行員の、枋迫篤昌(とちさこあつまさ)という人による、マイクロ・ファイナンスの活動を紹介していた。そもそも、なぜ、エルサルバドルは、あそこまでの絶対貧困をさまようことになっているのか。それはつまり、国内産業が生まれないから、である。
貧しい人たちには、事業を始めるための、元手になる資本がない。これを手にできない限り、彼らはなんの一歩も踏み出せない。番組では、たったの100ドルの融資で、商売の店がまえをととのえ、飲食店を営むおばちゃんを取材していたが、たった100ドルで場合によっては、商売が始められるわけです。
これが、マイクロ・ファイナンスである。
これについては、以前も紹介したが、一般に、銀行がこういった、「あまりにも小さい」小口の客に、お金を貸すことはない。そんな小さい所を相手にしていたら、もうからない、ということもあるのだろうが、それ以上に、そういった貧乏人たちは、
融資したら、逃げてしまうのではないか
という本質的な不信感が大きいわけである。しかし、世界のNGOによるマイクロ・ファイナンスの現場において、むしろ、そういった、元々貧乏な人たちが、ちゃんと借金を返すわけですね。
彼らは、働きたくないわけではない。大金を手にしたら、すぐに逃げたいわけではない。なぜなら、この資本主義において、持続的な金銭が手元にあることこそ、重要なのであって、そういった持続可能性を、だれだって考慮しなければならないからである。
たとえば、こういった問題を、日本の消費者金融のように、高利の利子で借りるなら、事業のリスクはコントロール内に維持することができなくなる。じゃあ、マイクロ・ファイナンスが、利潤追求をあきらめているか、というと、そういうわけではない。普通の銀行が、個人の私財をすべて捧げさせて、多くの保証人を担保にさせて、やっと貸す、こうやれば、そりゃあ、損を出さない、ヘタをうつリスクは減るだろう。しかし、逆にそれでは、多くの顧客の需要に答える役割となることはできない。
つまりこれが、社会的事業家ということになる。
もう一度、最初の思考実験に戻ろう。ロビンソン・クルーソーが、自給自足生活を抜け出し、飛び込んだ世界は、資本主義という分業の社会であった。この分業の社会がまわるということは、高度で複雑な効率的システムを構築することにあると言える。
しかし、そのシステムがまわるためには、各個人がこのシステムに適応できるリテラシーをもつ必要があるし、なによりこのシステムが効率的にならなければならない。3しかしそれは、単純に各個人がお金集めに全精力を注入すれば実現するのだろうか。もし、各個人が、この社会を「壊す」ことによって、利潤を得て、この社会が壊れきったところで(全栄養分を全て吸い尽した)逃げ出す、フリーライダー寄生虫だったとしたら、どうだろう。しかしそういった存在は、さまざまに評判を失墜し、事業が回らなくなるものだろう。
例えば、アメリカのイラク民主化のタクティクスが、あのようなものでしかなかったし、実際、多くの犠牲をもたらしたことは、
マイクロ
な視点を欠いた政策だったから、と言えるだろう。国家の頂点をちょっといじれば、なんとかなると思うほど、人々は「中央統制」的存在ではない。こういった観点は、ドゥルーズリゾームが分かりやすいかもしれない(現在のインターネットの爆発的普及をイメージしてもいい)。底辺で、
マイクロ
なお金を回す、さまざまな仕掛けを多くの社会的起業家たちがイメージしていく未来こそ、自律的個人が能動的に実現しうる、唯一のセカイであって、それは、国家が、国民にお金を「均一に」ばらまけば、次の選挙でも投票してくれるだろう、みたいな打算の産物で実現されるものでは、決してないだろう...。