田端博邦『幸せになる資本主義』

以前、

希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学

希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学

という本を紹介したとき、著者が、「希望を捨てる」ことこそ、若者が学ぶべき課題であると説教をぶっていたのを、私は、まず、なによりも注目した。その個所をあらためて、引用してみよう。

高度成長期は誰にでもチャンスはあり、一生懸命働けば報われるという希望があったが、もう椅子取りゲームの音楽は終わった。いま正社員という椅子に座っている老人はずっとそれにしがみつき、そこからあぶれた若者は一生フリーターとして漂流するしかない。
この状況から労働組合と連帯しようという方向と、赤木氏のように「戦争」を求める方向の二つに分かれる。前者のほうが建設的にみえるが、実はその先には何もない。彼らが連帯を求めている労組は、椅子にしがみついている人々だから、同情して仮設住宅を世話してくれるが、決して席を空けてはくれないのだ。この椅子取りゲーム自体をひっくり返すしかない、という赤木氏のほうが本質をとらえている。
今われわれが直面しているのは循環的な不況ではなく、かつて啄木が垣間見たような大きな変化の始まりかもしれない。それは成長から停滞、そして衰退という、どんな国もたどったサイクルの最後の局面だ。それに適応して生活を切り詰めれば、質素で「地球にやさしい」生活ができる。日本は欧州のように落ち着いた、しかし格差の固定された階級社会になるだろう。ほとんどの文明は、そのように成熟したのだ。明日は今日よりよくなるという希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない。幸か不幸か、若者はそれを学び始めているようにみえる。
希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学

このお年寄のお説教を、どのように思うだろう?
まず、この説教をたれているオッサンは、
若者でない
ということである。若者が未来をどのように考えるかは、若者の自由であり、このオッサンが、若者にどのような
諦念
を植え付ける(マインド・コントロール)ことによって、どのような、利得があるのかに関係なく、勝手に若者は未来に希望をもち、勝手に未来に絶望する。
著者が「礼賛」する、赤木氏「戦争」社会(権利獲得競争の、フェアネスを実現するための、「戦争」という、財の破壊、というか、たんなる、人殺し「ロマンティシズム」)を、私の立場として、認めるわけがない。だとするなら、我々は、どのような立場で、考察すべきなのだろうか。
では、どうだろう。
ちょっと、この挑発的な、「おどし」に乗ってみようではないか。
つまり、上記において、
希望を捨て「た」世界
の例として、いの一番に紹介されている、労働組合「連帯」社会、質素=停滞=階級社会、つまり、著者が、どこまでも、嘲笑し侮蔑する、
ヨーロッパ社会
が、実際のところ、どういう社会なのか。そこには、なにがあり、なにがないのか、それを考察してみようではないか(その上で、絶望したい奴らは、勝手にフトンにでもぐって、そんなかで震えてろ)。
ハイエクや、フリードマン新自由主義が、レーガンサッチャーによって、主要な国家イデオロギーとなっていく過程において、私たちは、そこで何が起きていたと考えるべきであろうか。
著者も言うように、当たり前であるが、第二次世界大戦直後、世界中は、福祉政策にあふれていた。世界中が、どうやって、
みんなで裕福になるか
を模索した時期であった。

アメリカの社会については、もともと所得格差が大きいというイメージが一般的であろう。しかし、この図で明らかなように、アメリカの所得格差は、一貫して大きかったわけではない。50年代から70年代にかけては、中間層と低所得層の伸びが顕著であり、全体として所得の平等化がすすんでいたのである。
それでは、なぜこのような大きな傾向の変化が生じたのであろうか。所得の分配に関連する二つのことがらが大きく作用していると考えよいであろう。
一つは、労働組合の交渉力でる。50年代から70年代にかけての時代は、労働組合が強い力をもっており、高い賃上げを実現していた。それがこの時期の所得構造の傾向に大きな影響を与えていたということができる。しかし、80年代以降に入ると、80年のレーガン大統領の航空管制官ストの弾圧(全員解雇)を手始めに、労働組合に対する抑圧が強まり、その交渉力は急速に減退する。そして、80年代以降の勤労者の雇用所得は、長い停滞あるいは低下が続く時代に入ったのである。
もう一つの重要なファクターは、税制である。こもレーガン政権に始まるが、所得税制のフラット化がすすみ、高額所得層への累進課税が取り払われた。高額の税金は個人の労働意欲を殺ぐ、個人の努力の結果として得られた報酬に対して高額の税金を課すのは公正でない、高所得者の所得はいずれ消費され経済全体の活性化にもつながるのだ、などあまざまな理由が主張あれた。日本でもこうしたアメリカの例に倣って所得税制の改正(累進税率の緩和)がなされたが、アメリカの改革は日本のそれよいもはるかに徹底したものであった。

しかし、よく考えてみよう。こんなことが、終戦直後にできただろうか。新自由主義が、アメリカと日本が、「先進国」として、GDP一位二位に、鎮座する高度成長期が「登りつめる」その頂点の頂きに近づいていた時期において、主張されたのであった。
しかし、なにかがおかしくないだろうか。だって、終戦直後にできなかったわけだ。その頃は、ずっと、平等政策であった。それが、裕福になったから、
本来やりたかったことをやろうじゃないか。
そういうわけにはいかないだろう。社会制度とは、いつの時代にも、普遍的に通用する仕組みでなければ、ならないのではないだろうか。そうでなければ、その正当性はどこにあるのか、という話にならないか。
実際、新自由主義クーデターが、比較的日本人みんなが裕福だった頃にあらかた、実装された後、今、こうやってバブルがはじけ、何が起きているか。
私たちが生きたかった、セカイ、とはこんな仕組みであったのだろうか。戦後の焼け野原で、多くの人たちが夢みた世界は、こんな、時代だったのだろうか。
私たちが求めるセカイとは、一体、どんなものであるべきものだったのだろうか?
まず、こう考えてみよう。私たちが産まれ落ちて、死ぬまでの間、

  • どうやれば、天寿をまっとうできるだろう。
  • その間に、どんなことが実現できたら、満足感を持って、この世を去れるだろう。

前者については、

  • 生活力のない、赤ん坊時代を誰かに扶養してもらわなければならない。
  • この分業社会(資本主義)の、効率システムをサバイブできる、リテラシーを身に付けなければならない(教育と呼ばれているもの)。
  • もちろん、人間も生物なのだから、繁殖期には、(ある程度の人口の割合)で、次世代を誕生させなければならないだろう(そうでなければ、全体として、滅びる)。
  • こういったことを実現させるためにも、私たちは、大人になるまで、生きなければならない。つまりは、そのための、衣食住。
  • この分業社会(資本主義)の中で、存在するということは、さまざまな、トラブルに対して、この効率システムが、その解決プロセスを内包していなければならない。たとえば、医者や弁護士。もちろん、警察、裁判所、国会などの全体の意志決定機関。

つまり、である。(後者に関係するが)これが、システムとして
存在
しないなら、私たちは、「最低限の」満足をしない、ということなのである。
ということは、私たちは、非常に重要な命題に直面していることになる。

  • 上記の命題は、現代の日本は「実現しているのか」?

著者も言うように、日本で
ほとんど
使われているお金は、住宅費と、子供の教育費、である。この二つこそ、日本国民の、
ほどんど
の出費である。ということは、この二つが「重要」だということである。しかし、なぜ、こんなことになっているのであろうか。子供の教育費とはなんなのか?

日本の大学の授業料は国立(国立大学法人)であってもかなり高い。日本とアメリカは、世界的に大学学費の高い国の双璧をなしている。イギリスを除くヨーロッパの大学は、近年若干の変化が生じているとはいえ、基本的には無償である。この点については次節でもふれるが、北欧や大陸ヨーロッパ諸国の大学はほとんど国立・公立である。授業料は原則として無償であり、それだけでなく、生活費をまかなうための給費や奨学金が用意されており、学生が基本的には親に頼らずに自活できる仕組みがつくられているのである。

市場主義的な考え方によれば、それは、大学教育を受けることによって、そのあとに高い見返りが得られるからである。”学歴社会”の現実をここで詳しく述べる必要はないであろう。大学の授業料はおろか、各種の予備校や塾にまで高い費用が投じられている。文字通りの”教育投資”である。このような教育投資が経済的に意味をもつのは、大学教育によって、さらには大学格差を通じて、卒業後に高い労働所得が得られるからである。高卒と大卒の間に大きな賃金格差があり、一流大学卒とそうでない大学卒との間にも大きな所得格差が生じる(と信じられている)。そのような労働市場や所得分配の構造が、高額の教育投資を意味のあるものにしているのである。

第一に、大学を卒業することが日本のように簡単ではない。よく知られているように、入学するのは易しいが、卒業するのは難しいのである。特定の大学や大学に準ずる機関には難しい入学試験が課されるが、一般の大学は、高校卒業資格あるいはこれと同等の大学入学資格をとれば、どの大学でも入学することができる。したがって、大学は、入試の難易度で格付けられるような銘柄をもたない。日本のように有名大学をめざす受験戦争は存在しないのである。

[ヨーロッパは]もし高い授業料を払ったとしても、そのリターンは不確実なのである。日本のような高い授業料は、システムとして成立しにくい。

つまり、日本とアメリカにおいて、教育とは、
投資
だと考えられている、ということである。投資ということは、
人それぞれ
ということである。ある人は、教育なんていう投資は「無駄」だと考えれば、大学なんて行かないで、すぐ、就職するだろう。また、ある人は、高等教育を受けておくことは、将来、絶対に役に立つはずだと思うから、子供に、たっぷり、
お受験ベンキョー
させんだよねー。
でも、それは、人それぞれなんじゃない? 無駄だと思うなら、やんなきゃいいし、有意義だと思うなら、やる。そんだけでしょ?
そう考えれば、日本において、なぜ、大学が、国公立大学でないのか。また、国公立大学であっても、やたら、お金がかかるか、が分かるであろう。日本国家は、大学が公共サービスだと思っていないわけである。
ここのところ言っているように、この資本主義社会は、効率システムであり、そのシステムは、非常に複雑な「からくり」になっている(もちろん、その基盤は、高度な、自然科学の成果をベースに築きあげられている)。
また、人々の「幸福」とは、自由のことと言っていいであろう。また、自由とは、「言論の自由」と、ほぼ同値と言っていい。しかし、それは逆に言えば、
あらゆる知を知る
権利、
あらゆる知を研究する
権利を、だれもが持っていることと同値である。つまり、幸福とは自由のことであり、大学に行ける、ことなのである(どんなに年をとっても、また、たとえ一日だけでも、日本国民が国の知識を必要として、大学に来るなら、どうして、門戸を閉ざすことがあろうか。学びたい人、知を必要としている日本国民なら、だれでも、
いつでも、
来てもらえばいい)。
ヨーロッパは、当然のように、その、「民主化」のベースが共有されている。日本は。明治において、中江兆民を代表する、自由民権運動が、挫折した後、民主化とは、赤狩りのことと、条件反射的プロパガンダが、国民の性根の隅々まで叩き込まれているのだろう。これが、
自分の権利
だという意識がないのだ。知は重要である。これこそ、新しい創造の源泉であり、この資本主義社会を高速にドライブさせる源であるわけである。ここを、おろそかにする国家は滅びるであろう。
しかし、どうだろう。あの、日本の高校までの、受験勉強ほど、
人をアホにする
くだらない所業はなかったのではないだろうか。もちろん、学校の授業を否定するつもりはないが、あの、塾、とか、あれはなんだったのだろうか。
よく考えてみよう。
あんなもん、ヨーロッパにあるわけねーだろ。
そのこと一点を考えても、なんと虚しいことに、多くの時間を費したものだろうかと、自分の人生の不幸度が増しまでんかね。思春期の多感な頃を、あのような、時間の無駄に費したことを。
しかし、そもそも、日本がなぜ、この喜劇的なまでの、受験競争(笑)を、続けているのか。それもこれも、一点。日本の、大企業終身雇用慣行、にあるわけですね。
ということは、どういうこと?
ヨーロッパは、そんな
アホ
なものは、ないってことなんだ。

第二に、卒業後の就職において、一流企業とそのほかの企業との間の賃金格差が日本のように大きくない。先進国のなかでは、日本の企業規模間の賃金格差が大きいことが知られており、大企業に就職すれば高い賃金がもらえるだろうという一般に信じられている観念はかなりの程度妥当する。しかし、ヨーロッパでは、賃金水準が、企業の規模によってではなく、学業資格と職業能力によって決まっている。その水準を決めているのは、労働組合と使用者(経営者)団体との間で締結される産業別の労働協約である。たしかに、高校卒業よりも大学卒業の方が高い賃金を得られるのであるが、同じ大卒であれば、会社による違いは日本ほど大きくない。一般にいえば、どの大学であれ、大卒であれば、一定の賃金水準が社会的に決められているということができる。

このことは、私が今、働いていても、実感をするし、また、私の基本的な立場である、保守主義的観点とも、整合的である。一見、同じ種類の仕事をする人たちは、相手と仕事のパイを奪い合う関係であるだけに、仲が悪いと思われるかもしれない。しかし、それは、実態と合っていない。同じような作業の仕事をしている人たちには、なにか、
戦友
のような、共感感情が生まれる。お互い、同じようなことをやってるだけに、相手がやって思っていることが分かるわけである。そういった、似たもの同士が、
連帯
していくことは、実に、自然な方向に思える。そうやって、同じような作業をやる人たちの間には、結局、自分一人では、どれくらいの時間に、どれくらいやれるか、という感覚が実感されることになるし、また、仕事は、やれば「疲れる」ということ、そういった感覚を実感すればするほど、手分けして、チームワークでやることが、さまざまに、功利的だということがわかってくる。
同じような仕事をしている人たちにとっては、むしろ、お互い同じような仕事をしているんだから、同じような賃金が「最低レベルにおいては」保障されることを求めていいんじゃないか、ということを同意できるはずなのである。
じゃあ、他方における、日本は、どうなっているのか?

典型的な日本的モデルを想定すれば、労働者は企業に就職したあとは転職しない。つまり、いったん就職した労働者は、ずっと企業内に止まることになるから、労働の市場とは無縁になるのである。おそらく、ハローワークには一度も行ったことがないという人はかなりいるはずである。
では、このような労働者にとって、「市場」といいうるものはまったくないのであろうか。おそらく、あるとすれば、それは就職を決める時点である。高校や大学を卒業して、どの会社に就職しようか、と考えているときは、彼(彼女)は、企業の”銘柄”や賃金条件などを見比べるはずである。他方、新卒者を採用する会社の側も、どのような学校のどのような人材を採用するかと、かなり手間暇かけて人材の選抜に向かうはずである。このような場合に、”就職戦線”は、文字通りの労働市場といいうるのである。

しかし、日本には、こうした典型的な日本的モデル以外の領域に、正真正銘の労働の市場が存在する。労働移動の割合の高い中小企業や零細企業、そして非正規雇用の市場がそうである。これらの市場においては、最低賃金制度などの若干の法律規制を除くと、市場自体を制御する社会的装置はほぼ存在しない。そしてさらに、実は、このような市場の方が、典型的なモデルとされているものよりも、はるかに大きなサイズなのである。
したがって、日本の労働市場は、島のように隔離された(大)企業のなかの生活保障システムを除くと、全体として、自由な労働市場といての性格が強いといえる。

これが、日本、である。それにしても、一生に一回の、「労働市場」とは。自分を売るのは、
一生に一度。
その永遠の一瞬に、すべてを賭ける。なんだか、その悲壮感が、どうなんだろうか。だいたい、学校出たての、ひよっ子の、「全存在」を、何回かの面接で、十全に理解しようとか、ちょっとどうかしてませんかね。人生長いんですから、もうちょっと、いろいろ経験して、スキルを積んで、理解してもらったらどうですかねえ(逆に、日本は年寄は使いづらいとか、そういう話の方こそ、いろいろうるさい、印象が強いんですけどね。若くピチピチしたギャルがいいんだそーだ)。
しかし、そんな、終身雇用なんて、ほんとの、この国の
上澄み
の天上人の話じゃねーか。なんのことはない。日本の「ほとんど」は、
リバタリアニズム
でやってるんであって、一部知識人が、日本の終身雇用を破壊しろとか、ばっかじゃなかろうか。一般庶民は、最初っから、お前たちの「理想」とする、
アナーキズム
を生きてんだよ。この高貴な精神を、もうちょっと尊敬してみませんかね?

ベルリンやフランクフルトなどのドイツの大都市では、50パーセントから90パーセントが賃貸住宅(大部分は集合住宅)だといわている。まず、そうした集合住宅の建設の仕方が都市計画で厳格に規制されている。そして、住宅建設費についてそれが民間による場合でも”社会住宅”として建設される場合には国の補助金が交付される。他方、家賃は適正なものでなければならないとされるが、それでも給与所得者などで家賃の支払いが難しい人も出る。その場合には、住宅に居住うる人数と所得額との関数で一定の基準までの家賃が支払い可能家賃とされ、それと実際の家賃との差額は国から家賃補助として支給されるのである。

住宅を「趣味」にして、そこに、たっぷりと散財したいなら、勝手にやればいい。しかし、それ以外で、こんなに住宅費が日本人の人生に多額の出費となっていること自体が、おかしいと思いませんかね?

幸せになる資本主義

幸せになる資本主義