上野千鶴子『女ぎらい』

一つ前で紹介した本においての、日本の未来の処方箋として、女性労働力の活用が3本柱の一つになっている。少子化は、どうしたって労働力の不足の問題となっていく。しかし、それを外国人で補完していこうという考えは、安価な労働力を求める企業にとっては、刹那的には合理的かもしれないが、国全体の福祉政策としては、どうしてもコストがかかる(そもそも、あまりにもの大量の労働者の流入は、ありえないし、不可能だろう、ということ)。

しかもこれは、外国人労働者を導入するのと違って、全然追加的なコストがかからない話です。日本人の女の人は日本語をしゃべれるし、多くが高等教育を受けていますし、年金や医療福祉のシステムを今から新たに増強する必要もない。彼女らが働いて年金だの保険料だのをさらに多く払ってくれれば、なおのこといいわけです。

デフレの正体  経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)

デフレの正体 経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)

たしかに、そうだよなあ、ということを思うし、企業は、少しでも早く、男女平等政策を具体的に実行させることこそ、将来の女性労働力の大量参加時代への、
適応
となると思うのだが、実は、この本を読む前に、掲題の本を読んでいた関係もあって、なにか、そんなに簡単に、実現できる、みたいに言うことに、ためらいがあった。
つまり、それは、男女論、の徹底なしに実現しないのではないか、という、
疑念
がある。今だに、男女雇用機会均等というだけで、さまざまな反発がある状態で、そもそも、なにか基本的な認識のレベルで齟齬があるのではないか、と思うことは、十分に説得的に思えるわけである。
掲題の本は、著者の今までの、男女論の集大成のような、いろいろな角度からの論点が語り尽されている。
女は最初から女だったわけではない、というとき、でもどうせ、「いつか」は女になる、ということじゃないか、という疑問に変わる。しかし、そういうことではない。
問題は、女という言葉が、もう、単純にそれだけの、意味のものでなくなっている、ということだと言えるだろう。
現代の効率システムにおいて、当然、言語は重要な潤滑油になっている。「女」という言葉が提示されるとき、それは、たんなる生物学上の、メスを意味しているわけがない。それは当然、

  • イエ制度における、夫の配偶者に「なれる」唯一の資格

を意味するだろうし、その他、さまざまな「文化的な意味」が指摘できるだろう。

「女が性についてようやく語りはじめた」と言うとき、わたしの頭をよぎる問いがある。ところで男は? 男はほんとうに性について語ってきたのか? あんなに猥談好きに見える男が、ほんとうは猥談という定型のなかしか自分のセクシュアリティについて語ってこず、定型化されない経験については、言語化を抑圧してきたのではないだろうか。むしろそれほど、男性の性的主体化についての定型の抑圧は強いのではないだろうか、と。

彼[加藤秀一]がそこで、「一人称の身体」と「三人称の身体」とを区別し、男が語ってきた身体はもっぱら「三人称の身体」であるという。「な、ご同輩。おまえも男だからわかるだろ?」と互いに同意を求めあうような定型の語りを、かれは「男語り」と呼ぶ。「男語り」をみずからに禁じるとしたら、そのうえでどんな語りが可能になるだろうか。

このように考えるなら、男性コミュニティである、日本の仕事社会、「共学」学校社会、においては、文化的には、女性は「存在しない」ということになる。女性とは、男性コミュニティを構成する、男たちと、同列にある存在ではなく、男性たちのコミュニケーションツールの、「対象」としてしか、存在しない、と。
このことは、むしろ、歴史的に考えた方が分かりやすいだろう。

そういえば、明治の男女同権論者として有名な植木枝盛は、言行不一致で知られている。自由民権論者でもあった植木は各地で演説会をおこなっており、そこで男女同権論も説いた。かれは、毎日克明な行動記録を日記に残したことでも有名で、『植木枝盛日記』が刊行されている。そのなかにこんな記述が出てくる。
「明治一三年九月一七日 夜、千日前席にて演説を為す。男女同権論を述ぶ。菊栄奴を召す。」
男女同権を論じたその足で登楼し、娼婦を買ったという証言である。

かれ[植木枝盛]はみごとに女の「用途別使い分け」にふさわしいリスペクトを求めたのだ。そしてその分断を正当化したのが、階級という壁だった。明治という時代がどれほど身分社会だったかを思い起こせばよい。そして「身分」とは越すに越せない「人種の壁」の別名だった。
だが男仕立てのルールにはいつも、ルール違反を許容するウラがある。低階層の女は正妻にはなれないが、愛人や妾にはなれる。どうしてもというなら、身分の高い家の養女になってから縁組みするという手もある。婚姻とは男にとっても女にとっても、家と家の盟約をつうじて互いの社会的資源を最大化する交換ゲームだから、正妻になる女には家柄や財産がのぞまれる。

階層差の大きい身分制社会では、上位の男がたくさんの女を独占し、下層の男には女がゆきわたらない。独身者の都市であった江戸には、かれらのための遊廓が発達したことは知られている。近代になっても重婚状況はなくならず、正妻はひとりでも、「甲斐性のある」男は妾や愛人などを何人も囲いこんだ。

歴史的に見れば、日本は「身分」社会であった。これを否定する人はいないだろう。当然、そういった身分のあるところでは、「財」の不均衡が起きる。女性は、イエ制度における、「財産」であったわけで、ということは、家長は、多くの女性を
囲い込み
したわけだ。だって、女性は「財産」だったんですから。
遊廓で、売女を買う行為にしても、一つの、
囲い込み
のようなものでしょう(実際、明治の男は、よく遊廓通いをしてますね。福沢諭吉も一時期やってるそうですし、中江兆民なんて、終生通ったとも言う)。また、これは、戦時中も変わらない。

戦争中の軍隊慰安所は、兵隊用語で「ピー屋」と呼ばれた。朝鮮人慰安婦のいるところは「朝鮮ピー屋」、中国人慰安婦のいるところは「支那ピー屋」。「ピー」とは女性器をさす中国語の俗称だというのが、たしかなところは知らない。そこでは女は娼館のように性技も手管も要求されず、タダの女性器として、前の客の精液を洗い流して横たわるだけだ。

なんの反応も示さない、慰安所の女を相手にしたとしても、これだって、一種の、
囲い込み
としての、女性を「財」として扱う行為の延長と考えられるだろう。
では、財産としての、女性が備えるべき、理想の「商品特性」とは何と考えられたか。

男にとって女の最大の役割は、自尊心のお守り役である。どんな女にもモテる秘訣がある。それは男のプライドをけっして傷つけず、何度もくりかえし聞かされる自慢話にも飽きず耳を傾け、斜め四五度下から見上げるようにして、「すごいわね、あなた」と子守歌のように囁きつづけることだ。

男をいらだたせないことらしい。彼らの自尊心をどこまでも、傷つけないような、そんな存在。そういった存在の一番は、
夫よりアホな妻
となるのだろう。そのことで、絶えず、夫は、自分の優位を確認でき、自尊心を守ることができる。

そんな「バカ」で「つまんない」女となんで結婚したのか、と問いかえしたくなるが、男の側にしてみれば「バカ」で「つまらない」女だからこそ、結婚相手に選んだのだ。一生のあいだ、自分のかたわらにおいて嘲弄しつづけ、よって以て自己の優位をくりかえしくりかえし確かめるために。だから「バカにできる」女を男は手放さない。こういう女をひとり確保することこそが、男が自分のアイデンティティを確立するための条件だからだ。

男性間コミュニティ内での、「女という言葉」をめぐる、さまざまな定型的なコミュニケーションの型、作法があって、こういった「男同士の定型的な言葉のやりとり」に熟達した人たちが、コミュニケーション優位の立場に登りつめ、出世していく。基本的にそういう構造が、昔からの、日本の男社会は内包している。
この、「ウロボロスの環」の外に出ることは、そう容易なことではない。
こういった構造は、例えば以下の児童虐待においても、同型の問題がある。

児童性虐待者は自分の欲望のために、同意を得ずに(すむ)無力な他者の身体を利用し、それに執着し、依存し、相手をコントロールしつづけようとし、その相手から自尊感情や他者への信頼や自己統制感などをずたずたに奪っていく。あまつさえ相手がそれをのぞんでいると信じたがり、誘惑者に仕立てていく。その加害者の九九%が男であり、被害者は約九割が女児、一割が男児である。
そしてこれらの男たちの多くが、自己評価の低い、みずから虐待された体験のある被害者であることを、シュルツは発見する。そして被害者の憤激を買いながらも、「修復的司法」の重要性を説くに至る。

児童虐待を行う大人は、自らも、児童虐待を受けていたケースが大半であると言うとき、彼ら大人は、その自らの体験を「内面化」することなしに、今まで生き続けることは、難しかったのだろう。

こういう機序を「否定的アイデンティティ形成」と呼んで、早くから指摘したのは、社会心理学者のエリク・エリクソンである。かれは、青年期の「アイデンティティ拡散症候群」のなかで、一部の少女が売春行為に走ることで、「何ものでもない自分」を----たとえ逸脱的であれ----罰されることによって「何ものかである自分」としてうちたてようと絶望的な試みをすることに気づいていた。そしてその娘たちの多くが、聖職者や教師など権威的で抑圧的な父親を持つ家庭の出身者であることにも。

厳格な「イエ制度」の規律を内面化する、親であればあるほど、その親の支配下に置かれる子供の精神的なバランスは不安定になる。
すべての歴史は、その連続性にある。その、「ウロボロスの環」の外に出ようとすることは、なかなか、容易ではない。しかし、この環が、さまざまに、無理がたたっていることは、間違いない。
たとえば、著者が以下のような話を紹介するとき、むしろ、このことによって、一つのブレイクスルーになっていく可能性とも読めるような気もしてくる。

だが、アグネス論争の頃からだっただろうか、わたしが若い母親のあいだで、率直な声を聞くようになったのは。「うちの子、好きになれないんですよね」、「赤ん坊ってくさいからイヤ」、「子どものうんこだって、くさいものはくさいですよ」と。母親が急に変わったわけではない。かねてからそう思っていたが口に出せなかったことを、彼女たちは口々に言い出しはじめたのだ。
「子どもがキライ」と口に出しても女として致命的ではない、と安心したからこそ、彼女たちは児童虐待する自分をも、表現し、受けいれるようになってきた。

今までの、男女の「文化的な」関係を、乗り越えれば、と簡単に言う。しかし、私たちの言語は、さまざまに、前近代の慣習、作法をまとい、そう簡単に自覚的に外に抜け出せない。
だとするなら、どのような、オールタナティブがありうるか。一つは、もちろん、相補性の原理である。上記の、
右斜め四十五度で、にっこり
を、男の側が、ひたすら、草食男子よろしく、やってればいい(それが、私の言う、日本的マゾヒズム、ということだととられてもいい)。
しかし、これにしても、限界がある。女性は、もう、この男女共同参画によって、
同等
になってもらわなくては、困るのである。今すぐに、処方箋を書かなくてはならない。じゃあ、何がありうるか。
女だけの「社会」を作ればいい。

女子校育ちにくらべて共学校の女子生徒のほうが、異性愛的なジェンダーアイデンティティを早い時期に発達させるのに対し(たとえば男を立てて生徒会長にし、自分は副会長にまわる)、女子校の生徒はかえってのびのびとリーダーシップを発揮するチャンスに恵まれる。だれもトップを代わってくれない「女だけの世界」では、力仕事も統率役も女にまわってくる。わたしは女子短大で一〇年間教えたが、合ハイ(他大学との合同ハイキング)のとき、共学大学の女子学生が「アタシ、できな〜い」と薪や水を男子に運ばれせているのを見た女子短大生が、あとで「ばっかみたい」と笑いものにしていたことを知っている。

女性だけによる、女性のための企業を、大量に、これから、日本社会に立ち上げていく。それに、多くの、お年寄りが、金銭的援助をする。少なくとも、そういった
マジョリティが女性
の企業を大量に日本内に生み出す。簡単でしょう。だって、日本の人口の半分は、女性なのだから。

女子校文化は、メディアの世界に深く静かに領土を拡大している。自分たちを「女子」と呼びつづける三十代女さらには四十代女、そして男無用の「腐女子」文化......男の死角だったこの暗黒大陸が、あるとき幻のアトランティスが浮上するようにぬっとかれらの視野にあらわれたとき、いったい何が起きるだろうか。

これをどう考えるか。逆、男女差別と考えるか。または、男性と女性の、「今まで築きあげてきた絆」を破壊する、非保守的な所業と考えるか。
しかし、歴史的に考えるなら、男性による女性に対する「おもいやり」では、解決してこなかったのであろう。あまりにも、進みが遅かったわけだ。そうなら、まず、そう簡単に「なんとかなる」と、自分には、なんとかできる「力がある」という、その全能感を捨てるところから、始まるのではないか。
結局、相手のあることなので、なにごとも、一人では判断できないし、どうにもならないこともある。他方において、今の、高齢出産という、戦略は、どう考えても、うまくいっていない。
現代の不妊治療ビジネスは、儲かりまくりの、ウハウハだという。とにかく、やることがいいわるいとか言うつもりはないが、なにせ、お金がかかりすぎる。

  • タイミング療法(一万円)医師のアドバイスのもとで、排卵日に合わせてセックスをする。
  • 人工受精(AIH)(二万〜四万円)夫の正史を子宮内に入れて自然妊娠させる。
  • 人工受精(AID)(五万〜七万円)第三者精子を子宮内に入れて妊娠させる。
  • 体外受精(自然排卵)(一五万〜二〇万円)自然排卵した精子卵子を培養腋え受精させ子宮内に戻す。
  • 体外受精(強制排卵)(三〇万〜五〇万円)排卵誘発剤を使って卵子を採取して精子と受精させる。
  • 顕微受精(四〇万〜六〇万円)卵子精子を培養液内で融合、顕微鏡下で受精させる。
  • 卵子提供(五〇〇万〜六〇〇万円)第三者卵子を使って妊娠。
  • 代理母出産(四〇〇万〜八〇〇万円)受精卵を第三者の子宮に入れ、妊娠、出産させる。

不妊治療ビジネス 野田聖子もすがるボロ儲けの構造」

月刊 紙の爆弾 2010年 11月号 [雑誌]

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私なんて、かなり単純に考えてしまうのだが、とにかく、若いうちに産むという選択だって、ありえないだろうか。ようするに、養育費さえなんとか工面ができれば、貧乏だっていいではないか。また、自分が産まなくても、いいんだという考えだって、あるだろう。
なんというか、そんなに自分の遺伝子の継承は、なによりも優先されることなのだろうか。以前、進化論の本を読んで、ちょっと書いたこともあるが、ある村の中で、さまざまに、長い年月を経て、近親相姦が行われていたとする。そのとき、それぞれの遺伝子に、はたして、どこまでの違いがあるのだろうか。
もっと言えば、日本人という単位にしたって、まー変わりゃーしないだろー。産みの親より育ての親、じゃないけど、ずっと、そっちの方の、相手への感謝の気持ちが大事なんじゃないだろうか。
アニメ「けいおん」や、アニメ「ストライク・ウィッチーズ」が、そういった、女子校的(腐女子的)な、
解放
された、女性たちの、
自由
を描いたとするなら、アニメ「Air

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の後半、は、直接の血の、つながりのない、
母と娘
の愛の可能性の追求を描いた、といえるだろう。
作品は、前半の、主人公、国崎住人(くにさき ゆきと)と、ヒロイン、神尾観鈴(かみお みすず)が出会うシーンから始まる部分と、中盤の、平安時代の翼人伝説の部分と、後半の、そら、という子供のカラス(国崎住人、の生まれ代わり?)の視点で、神尾観鈴が、病気と闘い、叔母の神尾晴子(かみお はるこ)の愛情をたっぷり受けながら、亡くなっていくところまでを描く部分に分かれる。
後半の場面を圧巻にしているのは、叔母の晴子が、観鈴を自分の子供にすることを決断してからの、限りない愛情をそそぐシーンであろう。彼女の関西弁、を聞いて、あらためte、関西弁がここまで、愛情にあふれた方言であることを、実感させられた。方言は、オーラル・言語である。というか、方言「だけ」が言語、なのである。私たち日本人は、はるか昔から、方言「だけ」を語り、親子は生きてきた。その一言一言が、情感あふれるものでないなどということが、間違っても、あるはずがない。
たとえば、この後半において、この二人の間の関係に男はいない。いや。もっと、正確に言えば、そら、というカラスが、いつも、じっと見ている。もしかしたら、男女の関係とは、ずっと、こういうものだったのかもしれない...。

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

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