水野和夫『超マクロ展望 世界経済の真実』

萱野稔人さんとの対談。
よく経済を、マクロとミクロに分ける。しかしそれはなぜだろう。同じ経済の問題をなぜこのように分けるのか。それは、多くの場合、「実証」研究の都合の関係から、こういった分け方がされているように思われる。
たとえば、物理学を考えると分かりやすい。ニュートン力学は、「質点」の力学である。実際は「存在しない」数学的な点に仮想的に「質量」があると仮定するわけである。すると、理論がすっきりする。それぞれの質点が相互に、
重力
をもち、ひっぱり合うことによって、力の均衡が生まれる。この質点というアイデアから少し広がりをもたせた「剛体」の考えまではすぐだろう。なぜ、人間は、地上に縛りつけられているのか。地球が人間をひっぱっているからであり、なぜ、月が、あれだけの速度で移動していながら、地球を離れていかないか、も、地球がひっぱっているからであり、地球だってそうだ。地球が太陽の回りを回っているのは、太陽が地球をひっぱっているからだ。
しかし、あたりまえであるが、人間は、多くの分子や原子から構成されていて、「質点」ではない。質点と考えたのは、一つの「仮定」。思考実験にすぎない。そう整理しても、考えたい問題にとって、それほど不都合じゃなかったというにすぎない。
じゃあ、実際に、各分子や原子ごとの「ニュートン力学」を考えるとは、どういうことを意味するのだろうか。ものすごい数の「質点」がそれぞれ、相互作用をおよぼす。普通に考えたら、こんな複雑な、連立方程式は解けない。こういった現象にアプローチするには、まったく違った方法に頼らなければならない。それが、統計力学である。
地球上のホモサピエンスの一人一人が経済活動をしている。この現象に対し、マクロの視点から考えてみようじゃないか。
しかし、どうだろう。このアプローチは実証的には十分だろう。しかし、本当にこれだけで私たちが満足するかどうかは別である。
ミクロより、さらに小さく、「マイクロ」に現象にアプローチする。これが、マイクロファイナンス。現代は、格差社会であり、
普通
が普通じゃない人が大勢生まれる。彼らは普通じゃないのだから、「人間じゃない」というわけにいかない。むしろ、私たちの「普通」の自明性が問われている。しかし、こういうアプローチは、どこか実証的ではない。実証性は政策提言や学術論文で必須の要件とあるのは、科学が一般的な命題の追求にあるからである。たまに「違う」人もいる、では学問にならないわけだ。
それは、マクロ現象にも言える。掲題の書名の「超マクロ」とは、そういったものを示唆している。

水野 私は証券会社に入ってから、来る日も来る日もマクロ経済の分析をしてきました。そあまざまなデータとにらめっこしながら、GDPや為替の予測、景気の見通しなどについてレポートを作成したり、金融機関やマスコミの質問に答えたりするのが私の仕事です。
そんななか、私は近代マクロ経済学の教科書を読んでも説明できないような現象にいくつも直面してきました。

水野 このように、既存の経済学でや金融理論だけでは解決できない問題にいまの時代は直面いています。そこで私は、一見投資とは関係のない、歴史学者のフェルナン・ブローデル世界システム論で知られるイマニュエル・ウォーラーテインなどの、歴史書や思想書を読みはじめたのです。

これが水野さんの言う、超マクロである。明らかに、実証的なアプローチを逸脱しながら、より俯瞰的な視点で考えようとするなら避けて通れない議論と言えるだろう。「諸国民の富」がなぜ、このように分布しているのか。富こそ、権力の源泉と考えるなら、この富の分布が、今後どのように推移するのか。それは、どういった「俯瞰的な」パワーによってなのか。
この人間社会は、今まで、どういった力関係で、動いてきたのか。
人類の法則とは何か。
それは、一言で言えば、歴史法則ということです。
たとえば、戦後世界史として考えたとき、二つの謎があります。一つ目は、ブッシュ・ジュニアがなぜ、イラク戦争をやったのか。もう一つは、なぜ日本のバブルは起きたのか。

水野 第一次オイル・ショック以降、鉱物性燃料の輸入代金がもっとも少なかったのは一九九四年でした。九四年の原油価格は一バレル一七・二ドルで、日本は全体として年間四・九兆円払えば原油天然ガスなど鉱物性燃料を買えました。ところが二〇〇八年には、年間平均でいうと一バレル九九ドル、一時は一四七ドルまで上昇して、日本は二七・七兆円を出さないと同じ量の原油天然ガスなどの鉱物性燃料を買えなくなってしまいました。

7ドルが147ドル? なんだそれ? もちろん物価の変動もあるので、過去と単純に比較はできないとしても、昔はタダ同然だったものが、まったくそうでなくなっているというのがわかるだろう。

萱野 オイル・ショックは、六〇年代から七〇何代にかけて、産油国で資源ナショナリズムがまきおこったことの直接的な帰結です。それまで植民地だった資源国が独立を果たし、自国の資源をその価格もふくめて自分たちで管理しようとしたことが、オイル・ショックの歴史的前提となった。それまでは、イギリスやアメリカがいわゆる石油メジャーをつうじて世界の石油をほとんど独占し、自分たちで価格を決定していました。

以前は、欧米の一部の国の人たちだけで、好き勝手に、値段を決めていた石油が、植民地解放の流れを受けて、そういった産油国が価格を決定するようになる。そして、さらに時代は進み現在は、そういった産油国から、
市場
に価格決定の場所が変わる。

水野 驚くことに、アメリカのWTI先物市場にしても、ロンドンのICEフューチャーズ・ヨーロッパ(旧国際石油取引所)にしても、そこで取引されている石油の生産量は世界全体の一〜二%ぐらいです。にもかかわらず、それが世界の原油価格を決めてしまうんですね。

先物市場に、価格決定の場所が移ったということは、どういうことなのだろうか。少なくとも、産油国「だけ」のカルテルだけで価格決定の権利を与えない、という宣言なのだろう。このことによって、欧米の主導権が確保される。
しかし、その欧米の主導権ということは、どういうことか。つまりは、石油を、ある国が、別のある国から、買うときに、
ある国の通貨
を使って決裁している、ということを意味するだろう。つまりは、
米ドル
である。ところが、この「慣例」に半旗を翻した人間がいる。フセインである。

萱野 まず、一九九九年にEUにおける共通通貨、ユーロが発足しますね。その一年後の二〇〇〇年一一月にイラク大統領だったフセインが、これからは石油の売上代金をドルでは受け取らない、すべてユーロで受け取る、ということを国連に対して宣言し承認されました。当時まだイラク湾岸戦争後の経済制裁を受けいれていたので、石油の輸出を制限され、その売上代金はべて国連が管理していました。その口座のお金を、フセインはドルからユーロに変えてしまったのです。
これはアメリカにとってものすごく嫌な措置でした。というのも、フセインの決定は「石油の国際取引は原則としてドルで決裁しなくてはならない」というルールに挑戦するものだったからです。

ブッシュ・パパの頃の、湾岸戦争の恨みからなのだろう。イランといえば、有数かつ良質の石油産出国であり、イランの石油の取引が、ユーロで行われるということは、ほかのほとんどの石油がユーロ建てになっていくということであり、石油がそうなっていくということは、その他の鉱物資源がそうなっていくということであり、ということは?
アメリカドルが基軸通貨でなくなる、ということ。

水野 たとえば国際債券市場でユーロ建て、ドル建て、円建て、ポンド建ての債券の発行残高の割合をみると、ユーロ建ての割合が一番高い。名目GDPの規模でみてもEUを一つの国とみるならば、九五年にEU加盟国が一五ヶ月になった段階ですでにアメリカを抜いている。
そうなると、ユーロが基軸通貨になる条件がだんだんそろってきていて、最後に残るのが、やっぱり国際商品市場のシェアだと思うんです。ここはドルが完全に支配している。その根幹をもしフセインがユーロにしてしまったら、おそらくその段階でユーロは基軸通貨になる条件をぜんぶ満たします。アメリカがイラクを攻撃したのは、ここだけは譲れない最後の砦だったということなのでしょう。

おもしろいですね。私たちは、第二次世界大戦後、この米ソ冷戦も終結したこの時代に、いったい、どういった条件が揃えば、
先進国が侵略戦争を行う
のか。なにが、そのトリガーとなるのかを考えるにおいて、この問題は非常に、いい思考実験になっているのではないでしょうか。つまり、
自国が没落する
と分かるトリガーに対しては、猛然と先進国は、人殺しを行うということです。もちろん、それが戦争という「庶民に甚大な被害を与える」手段であったことは、悲惨とともに、憎しみを残しますが、とにかくも、そういうことだということです。
上記に書いたように、鉱物資源は、どんどん、「値段のある」ものになっていきます。ということは、どういうことなのでしょうか。「成長戦略」という欺瞞をまず捨てることが重要に思えます。まず求められていることは、根底的な、
エネルギー革命
ではないでしょうか。戦後の三種の神器と呼ばれた、テレビ、冷蔵庫、洗濯機は、かなり、
恒常的で安定的な電気の供給
を前提にしています。しかし、こういったシステムを実現しているインフラは、本当に必要なのでしょうか。電気は、非常に簡単に、減衰していきます。私たちの家庭に届くまでに、多くの「消えて無くなっていった」電気が存在するわけです。
ということは、どういうことでしょうか。戦後、石油が
無料(ただ)同然
だった時代にできた常識「すべて」を
革命
するということです。そういった精神革命が、日本国民に起きない限り、日本はまた、アジアを侵略し始めるでしょう。
例えば、

ゼロから始める都市型狩猟採集生活

ゼロから始める都市型狩猟採集生活

には、非常に印象深いコメントから始まります。

小さい頃からずっと「家」に興味があった。
愛用の学習机に毛布を屋根のように被せて、その下に住み込んだ小学生時代、そこで「巣づくり」の面白さに目覚めたぼくは、そのまま「将来は建築家になろう」と考えた。
しかし、そうした巣づくりは、現代の建築家の仕事ではなかった。だから、ぼくは建築家の道から外れることとなった。そして、たくさんの疑問だけが残された。たとえば、なぜぼくらは家を借りたり、買ったりしなくてはならないのか?
べつに召使いを雇うような大きなお屋敷に住みたいわけじゃない。小さくてもいい。それでも自分の息吹がかかった空間を、自分の手でつくってみたいだけなのだ。しかし、現実は厳しい。先祖伝来の土地や家屋を所有している人でないかぎり、家は借りたり、買ったりしなければならないとされているのである。
でもこれ、ちょっとおかしくないだろうか?
テニスコートとか、野球場とか、そこに広大な空間があるにもかかわらず、人間が住むためには存在していないのだ。どう考えても主客転倒だろう。
ゼロから始める都市型狩猟採集生活

家は私たちが生まれたときから、ああいったものであった。しかし、それは自明なのだろうか。さまざまな社会的インフラは、まさに戦後のアメリカン・ホームドラマ幻想として、
当然目指されるべき
結果であった。こうなる「ために」がんばってきた。しかし、それはそこまでのものなのか。私たちは、つくづく、税金の高さに辟易して、生かさず殺さずの生活をさせられていると思っている。しかし、まず疑うべきは、今ある「公共」サービスそのものなのだろう。なぜ、水道をひねれば、いつでも水が出なければならないのか。スイッチをつければ、電灯がつくのか。こういったことを実現するために、どれだけの「コスト」がかかっているのか。そのために、いくらの税金をしょっぴかれているのか。しかし、本当にそこまでのものが必要なのだろうか。身の丈ってあるんじゃないか。

そして、ぼくの関心は、いわゆる路上生活者と呼ばれている人たちへと向かっていった。
ゼロから始める都市型狩猟採集生活

彼らは実際、都市が吐き出す「ゴミ」を自然素材とみなし、それらを拾い集めて地力で家を建てている。ビーバーが川で拾ったものだけで巣づくりをしている映像が、頭の中でだぶった。現代でも原初的な生命力を失っていない人々がいたのである。
それに、最初はちっとも立派に見えなかった彼らの住まいにメジャーをあてて調べてみたら、これがびっくり。「起きて半畳、寝て一畳」よりやや広い、合理的な空間だったのである。夏は涼しく、冬は暖かい。
ゼロから始める都市型狩猟採集生活

こういった生活(をしている人)を格差社会よろしく「差別」し、憎む人たちは、自分の先祖が、この日本列島で、縄文ダイバーシティーをサバイブしていたことを忘れているのだろう。一体、どんな公共エネルギーサービスが「どうしても」必要なもの、だというのか。なにか一つとして、
なくては困る
ものなどあるだろうか。夜は暗くて、電気がなかったら、寒くて凍え死ぬだと? パパ、ママ、僕で体を寄せ合って、しゃべくりあってれば、他になにか必要なものなどあるだろうか。実際、そうやって人間は生きてきたのだろう。
(これをちょっと違った視点で考えてみよう。さっきまで、深夜のフジテレビで日本の里親制度の番組をやっていたが、(途中から見ただけであったが)考えさせる内容であった。里親という制度は、大変に意味深い制度に思える。なんらかの理由で、親の養育を受けられない子供を、養育するわけである。この制度の重要なところは、教養の高い人たちが、こういった活動が必要だと思って主体的に行っているところなのだろう。実際、太古の日本においても、そういった子供はたくさんいたはずであろうし、みんなで育てていたはずなのだ。)
今までの、鉱物資源が「ただ(無料)」を前提にして、構想されてきた、未来予想図(SF)に対して、私たちは新たな、未来を構想しなければならない。それは、
エネルギー
によってもたらされる「価値」とはまったく異なった、私たちが「こうあってほしい」と求めるなにかと言えるだろう。しかし、それはどういったものになるのか?
話が脱線してしまった。たしかに、未来を考えることは、傲慢である。その時代のことは、その時代の人間が考えればいい。戦後の高度成長期も過ぎて、すでに豊かが前提の時代に生まれた我々、団塊ジュニアは、すでに家庭には、三種の神器のような、一家に一台の電化製品が全家庭に普及し終わった、もう、故障を修理したり、買い代えるくらいの需要しかなくなった、
ものが売れない
時代の「仕事のない」ベビーブーマー世代として、生きてきて、先進国はどのような戦略によって、今の有利なポジションを維持しようとしてきているのか、こそ、興味のあるところであろう。先ほども言ったように、先進国は、自らがその地位を突き落とされると恐怖したとき、侵略的暴力を行使する。ということは、今まだ行使していないなら、まだ、なにかでそのディスアドバンテージを回復できると考えている、ということなのである。

水野 たとえばアメリカの全産業の営業利益のうち〇一年一〇〜一二月期には、金融機関の利益が全米企業の四九%を占めるほどになりました。一〇年間の利益増加分で比較すると、金融機関の増加利益は全産業の八四%にまで足しています。アメリカの労働人口のうち、金融機関で働いている人は五・三%しかいない。つまり、二〇人中一人の人が利益の半分を稼いでいるということです。

おそろしいことに、お金を右から左に移す金貸しばかりに、どんどんお金が溜っていく、レーニンが嘲笑する「金利生活者国家」が完成してしまった、ということなのだ。
こういった連中ばかりが、やたらとテラ銭を天引きして、本来は、
なにも生み出していない
くせに、えらそうに、莫大な給料を「自分の才能」と強弁して、ポケットにする。
ところが、掲題の本も言うように、これは歴史が繰り返してきた姿だとも言える。各家庭に生活必需品が行き渡り、あとは買い代え需要しかなくなった後の先進国では、必然的に、金融が膨れ上がる。まさに、
バベルの搭
である。先進国はもう、モノを作っても儲からない。売れないのだから。必然的に市場にはお金があまる。そういったお金はどこに行くのか。まさに、
ゾンビ
のようにさ迷うのである。

水野 損益計算書を見たわけじゃありまんが、韓国のサムスン・グループの上げた利益のうちの半分ほどは欧米系の資本に吸い上げられているといわれています。

水野 IMFからの融資とひきかえに、韓国は構造改革と民営化を推進させられ、それによって外資がどんどん入ってきて株を買い占めてしまいましたから。
中国の電気自動車会社BYDにもアメリカ資本が入っていますから、あそこで電気自動車を生産して売れば売るほどその利益は他国の資本にいくことになるでしょう。そうなると、もっとも利潤を稼げる地域がそのままヘゲモニーを担うという図式は、もはやなりたたなくなるかもしれません。

これが資本主義なんでしょう。資本主義においては、お金だけが唯一の実体です。お金がある「から」主体的になれる。お金のない連中はどうするのか。お金を持っている連中から借りるのである。つまり、彼らは、そうすることで、一生、お金を返すために働く奴隷人生となる。つまり、どうあがいても、奴隷は奴隷の人生が続く。
こうやって、すべては、賃金奴隷的になっていきます。サムソンだろうと中国の振興企業だろうと、なにもないところから、這い上がってきたということは、
悪魔と手を結んだ
からにきまっている。だから、彼らは強い(まさに、ゾンビのよう)。しかし、その先に待っているものはなんなのか。彼らにとって、本当に望んでいたものなのか。彼らは、本当に私たちのライバルなのか。
先進国は、もう、もうからない。国民がどんなに働いて稼ごうとしても、もうかるものがない。しかし、彼らは「今までの生活レベルを落とすことだけは」
死んでも
嫌なのだ。じゃあ、どうするか。
どっかの国を、だまくらかして、かっぱらってくるしかない。
しかも、合法的に。
気に入らない国を言うことを聞かせればいい。

水野 レーガン政権はソビエト連邦と激しい軍拡競争としましたよね。それによって拡大する財政赤字を日本の企業がファイナンスいたのです。たとえば日本の生保はザ・セイホといわれて、プラザ合意でドル安になったとき、たしか大手七社で一・七兆円を上回る損を出しています。

水野 でも、そこで損をしたので引き揚げるとなったら、アメリカは困ってしまう。それで、ザ・セイホがドル債投資で損をしても、それをはるかに上回るような含み益があればいいということで、アメリカの要請のもとで日本でバブルがひき起こされたんだという説明です。うーんとは思いますが、たしかにアメリカならそれぐらいのことはやりかねないなという気はしますね。

おおらく、東アジアの今後100年の趨勢も、欧米のご機嫌うかがいに終始することになるであろう。そのたびに、嵐に巻き込まれ、自国の経済混乱が、さらなる彼らの付け込むウィークポイントとなり、弱体化していく。
ここでのポイントは、いずれにしろ、できるだけ早く、大金を所持するポジションに自分がなれているか、であるといえるだろう。お金さえあれば、あとは、貸して、たっぷり、利子つけて、まきあげればいい。これで、貧乏人はいつまでも貧困の底から、這い上がることはなく、金持ちは、大金融機関が「大きすぎて潰せない」ように、大量の
公的資金
で救済される。大金融機関である「だけ」で、彼らは将来について悲観する必要はない。大きすぎるから、救う。おそらく、これからの何十年の間も、こういった、喜劇が繰り返されていくのだろう。
そうしたとき、まず疑うべきことは何なのか。たとえば、国家が発行する通貨自体を疑うことはそれほどに欺瞞的だろうか。人々がある取引をするときに、どこの国の通貨で商売をするかは重要です。だって、その取引が成立するためには、まずその貨幣を買う側が「買ってこなくてはならない」。こうやって、基軸通貨で「ある」米ドルは、なんにもしなくても、「米ドルくれ」とせがまれる。
しかし、こんな状況にいつまで、人々は、指を加えて見てるだけ、を貫き通すだろうか。中国のあれだけの人口において、超富裕層の、まるで、天上人を思わせるような、セレブ生活の陰で、多くの貧困層が、いつまで黙っていると考えるのか。中国の民主化は、中国自身の経済問題にレギュレートされていくことだけは、間違いないだろう。そしてそれは、このグローバル地球圏においては、どこの国でも同型の現象として観察される...。

超マクロ展望 世界経済の真実 (集英社新書)

超マクロ展望 世界経済の真実 (集英社新書)