松宮健一『フリーター漂流』

(私は、今、フリーターや、失業問題について考えるための、知を欠いている。以前も、何度か、このブログで考えたこともあるが、まあ、その程度、ということである。
だから、ここで考えたいことは、そういった俯瞰的なヴィジョンではなく、もう少し、違った観点からの見え方についてである。)
結局のところ、労働の何が問題なのでしょうか。この問題に「統一的な」見解が示されることは少ないように思います。
働くということはどういうことなのでしょうか。あらゆる人間関係がゲームだとするなら、どうなれば、労働者と雇用者は、ウィンウィン関係、になれるのか。
たとえば、一時期、IT業界で、現場でイヤホンして音楽を聞きながら、仕事をすることは、ありかなしか、みたいな話があった。
現場によっては、こんなことを言うこと自体がふざけている、社会人としてなっておらん、と考えられるだろうし、実際、客先でそこまでやるほど、作法知らずの人もいないのだろうが、自社内で、OKならいいんじゃないか、という所はそれなりにある。
さらに言えば、在宅ワークにしたって、よく考えると、これがなぜだめなのかは、まったく不思議な話ではあるわけだ。
イヤホンで非常に小さい音なら、他人には聞こえないだろう。多少は、他の人から声をかけられて、気付きにくい部分はあるとしても、肩をたたいて気付かないというわけじゃない。
家や通勤時のリラックスしたいときに聞いていて、なぜ、もっと仕事をはかどらせたいときにNGなのかを考えると、ほとんどたいした理由らしいものが思い浮ばない。
つまり、残っているのは、ある種の「精神論」くらいしかない。仕事はそんなふざけたものじゃない。これに明日の給料がかかっているんだから、そんな、ふざけた接し方をしているようじゃ、農家が毎朝豊穣を祈願する営みを、面倒だからとやめたら、
ばちがあたる
と同じレベルで考えてしまう。
実際、こういった精神論は、年長者受けがいい。彼らはそういった「御無体」な作法に適応してきたからこそ、今もここで働き、えらくなっている。保守的に考えるなら、わざわざ作法を変える理由がないわけだ。後輩は先輩の背中を見て育ってればいいんで、そうじゃなきゃやりにくい。
結局分かっていないのは、上記でも書いたように、
ウィンウィン
であることが重要なのであって、そういう視点をなかなか、雇用者側が認識しにくいことなのだろう。
被雇用者、とくに、フリーターのような「短期雇用」前提の人たちに対して、たとえば、雇う側が、ぞんざいな扱いをしたとしよう。どうせ、一期一会。こんな連中、使い倒して、俺の仕事、おしつけて、ガキの使いさせて、いくらでも楽しちゃえ。
しかし、そうした途端に、被雇用者たちは「ルーズ(ノットウィン)」となる。彼らは、もうこの会社に恩返しなんかするものかと思うどころか、いずれ復讐してやる、とまで、間違って思いつめてしまうかもしれない。そして、そういった噂は、さまざまに広まり、さまざまに優秀な人材を確保したい時など、思うようにいかなくなる。
だとするなら、たとえ短期間でも、共同作業をするなら、相手にも、よろこんでもらえないなら、それは
うぃんうぃん
と呼ばないわけだ。
高橋源一郎さんもツイッターでつぶやいていたけど、労働はつらい。たしかにつらい。特に、工場労働のような、ブルーカラー、単純作業はつらく思うかもしない。
しかし、さっきから、何度も言っているように、私たちが目指す労働は、
うぃんうぃん
なんです。働いている人にも、それなりに、そこで仕事をしてよかった、と思ってもらわなければならない。じゃあ、もし仕事の内容が許すなら、イヤホンで音楽を聞けたっていいんじゃないのだろうか。立ち仕事で疲れるなら、なんとか、椅子に坐れるようにするとか、立っていても疲れない腰を支える器具を開発して、使うとか、もっともっと、働いていることが苦にならない環境を
配慮
していいんじゃないだろうか。「その」仕事がつらい。それは分かった。じゃあ、どうすればいいか。
オールタナティブ。
つまり、こうだ。
「その」つらい仕事とは別に、そうつらくない、いや、むしろ、楽しいことを、「一緒」にやればいいのだ。
聖徳太子は、一度に10人の質問をいっぺんに聞いたんでしたっけ。人々はそれにずいぶんと驚いたようですが、そうでしょうか。それくらい、人間ならフツーにやってるんじゃないでしょうか。私たちだって、パソコン開いて、なにしてますか。仕事のドキュメントを書きながら、資料の電子ファイルも開いて、一緒に、ウェブブラウザで、分かんないことをググりながら、裏でニュースポータル開いて、作業に合間に、気になるニュースをチェックして、合間に割り込みの、メールや、脇からの作業の依頼を確認して...。
解離的な人間の神経系は、そもそも、マルチタスクが前提であり、普通に考えても分かるように、悩のある一部しか使わないような単純作業をしているよりも、その他のことを一緒にやりながら、悩全体が活性化しているほうが、健康だし仕事の能率もいいでしょう。
もっとぶっちゃけちゃえば、こうだ。
工場労働者は、労働しながら、ツイッターでつぶやいちゃう。

  • 労働なう
  • つらいなう

そうすりゃ、いろいろ経験者がはげましてくれる。

  • つらいなうですね。はい、わかります
  • ぐぐれかす

これは、どういうことなのだろうか。私は、それほど、SFおたくではないので、あまり、いろいろ読んでいるわけではないのだが、こういった、ソーシャル・メディア的なウェアラブル・ネット環境を描いたものって、あんまり記憶にないんですよね。
(唯一、強烈に印象に残っているのが、

ですかね。)ユビキタス環境の今後の進化は、必然の方向だと思うのだが、それが、今あるような、ツイッター的なものとして未来をイメージしていたSFって、どれくらいあるのだろうか。それくらい、ツイッターって、見てると、おもしろく、独創的で、これからに可能性を感じる。
私たちはこれから、より、ソーシャル・メディアが、ウェアラブルになっていくだろう。アイフォンを開かなくても、普通に工場作業で両手が塞がっていても、
ツイッターに「つぶやける」ようになる
し、ツイッターの議論を、まるで空を眺め空気を吸うように、ヤジ馬できるようになる。
普通に、日常生活をしながら、普通に空を眺めていることと「同時=瞬時」に、さまざまなネット検索を「並行して」眺められるようになる。
チャットは来客者が必要だけど、ツイッターなら、いっつもいっつも、どっかのだっかさんとくっちゃべることができる。
そういった、ウェアラブル環境が、近いうちに実現する。
情報とは全てである。私たちがここに降臨させたネットでのアバターは、あなたではない。そういう意味では、匿名とか実名とか、そういう区別は無意味である。アバターアバターでしかない。こういった存在に自らをアイデンティファイすることは状況を混乱させるだけではないだろうか。しかし、それは、あなたの「解離的な」一部と言えないか、と問われれば、そうでないとも言えない。
わたしはむしろ、こういったネット的アイデンティティ理解が進むのではないか、と思っている。だいたい、「誰」っていう問いは無意味にしか思えないように最近は思うようになってきた。あんたは、芸能人? その芸能人のボット? その芸能人がやってるその人自身のボット? はたまた...。もういいよ。あんたはあんただ。おれだっておれだ。お互い誰かがこのヴァーチャル・リアリティ世界に降臨させた、あるネットIDをもった、
アバター
なんでしょ。「それ」は「それ」でいーじゃないですか。もう人格がどーとか、やめてしまいませんか。このアバター。ネットショッピングはするは、いろいろサイトをぐぐって、勉強だってやれるわけでしょ。そもそも、自分のことだって、どーだっていーぐらいなのに、他人の生みだしたものの、その最初のトリガーがなんだったかなんて、さらに、はるかはるか遠くまで、どーだっていーんですよ。こいつを生み出した

は誰なのか、とか、もういーんじゃないですか(アニメ「Angel Beats!」もそんな話だったですよね)。
うー。また、議論が脱線してしまった。私が言いたかったことは、こういったマルチタスクな労働形態は必ずしも、労働者の労働生産性を落とさないし、逆に、彼らのモチベーションを上げる可能性がある、ということである(別に、工場で単純作業をしながら、大学の授業をネット出席、したっていいんだ)。
しかし、一般にそのようになっていないのは、現場が保守的というのもあるが、被雇用者が「まだ現場に信頼されていない」ということもあるだろう。
若者は若いということでのアドバンテージもあるだろうが、一般には、まだスキルがない、ということしか若さは意味しない。つまり、ベテランは
正確かつ早く
仕事をこなす「プロ」なのである。若者たちは、そのことをよく分かっていない。どうやって、「今」自分がお金を稼ぐのか。自分にどんな使ってもらうことでの、利点があるのか。こういった感覚に自覚的であろうとする必要があるだろう。学校を卒業して会社に入る。じゃあ、もう勉強をしなくてよいのか。そんなはずはないだろう。むしろ、これから必要なのだ。もっと必要なのだ。それは、仕事をしながらでも身につけていかなければならない。あなたは、その日から、授業を受けに教室に行かなくなっただけで、「授業はやり続けなければならないのだ」。
たんに、自分にまわされてくる仕事を、やりすごしていくだけなら、たとえ貯金はたまっても、いずれ、「精神的に」苦しくなる。
そう考えてくると、大事なことはむしろ、各労働者自身の、仕事を選び、会社を選び、生き方を選んでいく、その選<仕事>眼、のようなものなんじゃないか、と思えてくる。なんにせよ、生きることに、ワイズになっていくことが求められる。少しずつでも、成長していかなくてはならない。一つずつ、自分が賢くなることで、生きること自体に、自分に自分でストレスをかけなくてすむようになっていく。
なんなら、あんた自身が、労働運動をやったっていい。それによって、全体の労働環境が良くなり、みんなから頼られるようになり、自分も回りが快適になり、生き易くなっているかもしれない。
不況は労働者にとって、最もつらい状況だ。というか、労働「弱者」にとって、だ。彼らは、まだ高く売れない。だからこそ、会社への貢献「できる」分量が限られる。
掲題の本には、足立区が、リクルート社にフリーター対策を依頼していた、その実績の内容について紹介している。リクルート社はたしかに、さまざまなノウハウをもっている。実際、彼らの手によって、就職が生まれることもある。しかし、話はそんなに単純ではない。

しかし、区がリクルートに支払う費用も少なくないことが指摘されている。
リクルートが若者のカウンセリングを行なった場合、区はひとりにたいして5万円支払う。また内定が決まった段階で18万円、さらに半年間勤務した後に18万円支払うことになっている。2004年度にリクルートは372人のカウンセリングを行なった。そのうちの220人が内定を獲得し、その半数以上の114人が半年間継続して働いた。区がリクルートに支払った金額は3748万円だった。
職業安定所のある職員は、フリーター対策を民間業者に委託することに警鐘を鳴らしていた。
「忘れてはいけないのは、リクルートはあくまでもビジネスとして参入していることです。お金になりそうな優秀な人の面倒は見るかもしれませんが、そうでない弱者への対応はどうでしょうか。お金にならなければ、真剣に面倒を見ないのではないですか。またコストも高すぎます。[後略]」

ようするに働くということは、常に「条件闘争」だということじゃないだろうか。妥協してはならない。自分を安く売ってはならない。しかし、高く値段をつけすぎて売れなくても困る。じゃあ、自分が高く売れなかったらどうしたらいいのだろうか。節約して、その間に、勉強して、自分が高く売れるように、スキルアップしていく。
おそらく、現在の不況の中、多くの人たちが日本で苦しんでいる。そして、その就労条件は、総体として、うまくいっていない。多くの人たちが、あがいている。私だって、この問題を真剣に考えなければならない時も来るだろう。
そうしたとき、どんな処方箋がありうるのか。どういった鎮痛剤があるのか。どんな解毒剤があるのか。私たちは苦しい。だったら、その苦しみをやわらげられないのだろうか。

フリーター漂流

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